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AIで作った作品を「自分の作品」と呼んでいいのか。作り続けて考えたこと

生成AIで作品を作るようになってから、ときどき考えることがあります。

これは、自分の作品と言っていいのだろうか。

AIが画像を生成する。

AIが動画を生成する。

ChatGPTに相談しながら企画を考える。

音楽制作でもAIを使う。

自分一人ですべてを作ったわけではありません。

でも、だからといって「AIが勝手に作った」と言われると、それも少し違う。

実際に作り続けていると、この境界がだんだん分からなくなってきました。

「AIが作った」と言えば簡単だけど

生成AIで作った動画を見せると、

「AIが作った動画」

という説明が一番簡単です。

間違いではありません。

実際、映像そのものを生成したのはAIです。

でも制作している側からすると、その一言では説明できない作業があります。

何を作るのか考える。

キャラクターを決める。

開始画像を作る。

構図を決める。

何度も生成する。

失敗した原因を考える。

プロンプトを変える。

使えるカットを選ぶ。

編集する。

音を付ける。

そして、完成と判断する。

生成ボタンを押すのは、その中の一工程です。

それでも、自分で描いたわけではない

一方で、

「全部自分で作りました」

と言うことにも違和感があります。

私はAIが生成した1フレーム1フレームを描いたわけではありません。

キャラクターの髪を一本ずつ描いているわけでもない。

AIが予想していなかったものを出してきて、

「むしろこっちの方がいい」

と思って採用することもあります。

自分では思いつかなかった結果が作品に入る。

そこには明らかに、自分以外の何かが関わっています。

だから、

「自分が全部作った」と「AIが全部作った」のどちらもしっくりこない。

これが今の感覚です。

音楽では、少し違って見えた

この問題を考えるとき、音楽制作の経験が参考になりました。

私はCubaseを使って曲を作っています。

シンセサイザーを使う。

サンプル素材を使う。

エフェクトを使う。

ソフトウェアに用意された機能を大量に使っています。

ドラムに市販のサンプルを使ったからといって、

「自分の曲ではない」

とは普通は考えません。

自分で録音していないシンセのプリセットを使うこともあります。

それでも、

どの音を使うか。

どう組み合わせるか。

どんなメロディにするか。

どこで音を入れるか。

どこで終わらせるか。

最終的な判断を積み重ねて曲にしています。

では、AIはどこから違うのか。

考えるほど、境界は簡単ではありません。

AIは「道具」と言い切れるのか

よく、

「AIもただの道具だ」

という言い方があります。

これも分かります。

でも、実際に使っていると、普通の道具より少し複雑です。

ハンマーはこちらが指示していない形に釘を打ったりしません。

DAWのEQが突然、

「こっちの音の方がいいと思ったので変えておきました」

ということもありません。

生成AIは、こちらの指示を解釈して結果を返します。

そして、ときには指示していないものまで作ります。

その偶然をこちらが採用することもあります。

だから私には、

完全な道具とも、完全な作者とも言い切れない存在

に見えています。

プロンプトを書いた量で決まるわけでもない

以前は、

細かくプロンプトを書けば書くほど、自分が作った割合が増えるような感覚もありました。

でも、動画生成を続けているうちに、むしろ逆になりました。

現在は、できるだけ余計な指示を書かないことがあります。

開始画像で決まっていることを、動画生成でもう一度説明しない。

一つの生成で大量の動作を指定しない。

必要な変化だけを書く。

結果として、以前よりプロンプトは短くなりました。

でも、

プロンプトが短くなったから、自分の作品ではなくなった

とは感じません。

むしろ重要なのは文字数ではなく、

何を作るのかを誰が決めているのか

なのではないかと思うようになりました。

「選ぶ」という作業は思っていたより大きい

AI制作を始める前は、「作る」という言葉をかなり狭く考えていた気がします。

手を動かす。

描く。

演奏する。

撮影する。

編集する。

もちろん、これらは制作です。

でも生成AIを使うようになって、

選ぶことも制作のかなり大きな部分なのではないか

と考えるようになりました。

10回生成して1つを選ぶ。

AとBを比べてAを残す。

違和感があれば捨てる。

偶然できたものを面白いと思って採用する。

どこまで直すかを決める。

完成と判断する。

AIは候補を作れます。

でも、何を作品として世に出すのかは、最後までこちらが決めています。

だからといって、何でも「自分の作品」とは思わない

ここには自分なりの境界があります。

例えばAIに、

「何か面白い動画を作って」

とだけ頼んで、出てきたものをそのまま投稿したとします。

それを自分の作品と呼べるかと聞かれたら、私はかなり迷います。

逆に、

自分で企画を考え、

世界観を決め、

何度も生成し、

失敗を修正し、

素材を選び、

編集して完成させたものなら、

自分の作品だという感覚はかなり強くなります。

違いは、

AIを何%使ったかではない

ように思います。

自分がその作品について、どれだけ判断したのか。

そこに境界があるのかもしれません。

AIを使うほど「自分は何をしたのか」を考えるようになった

少し皮肉ですが、AIを使う前より、

「自分が作るとは何だろう」

と考えるようになりました。

以前なら、DAWで曲を作れば自分の曲。

動画を編集すれば自分の動画。

それほど疑問を持ちませんでした。

生成AIが入ったことで、その前提が崩れました。

でも、それは悪いことだけではないと思っています。

自分は何を決めたのか。

どこに自分の好みが入ったのか。

AIが出したものを、なぜ採用したのか。

なぜこれは捨てたのか。

そう考えることで、逆に自分の役割が見えるようになりました。

今のところ、私は「自分の作品」と呼んでいる

最初の問いに戻ります。

AIで作った作品を、自分の作品と呼んでいいのか。

今のところ、私は呼んでいます。

ただし、

「全部自分の手で作った」

という意味ではありません。

AIを使ったことも含めて、制作工程の一部だと考えています。

何を作るか決める。

AIに生成させる。

結果を見る。

捨てる。

選ぶ。

修正する。

組み合わせる。

完成を決める。

その一連の判断に自分が責任を持つ。

だから、自分の作品と呼ぶ。

今はそれが一番しっくりきています。

ただ、この感覚も生成AIが変われば、また変わるかもしれません。

AIで作品を作ることが当たり前になったとき、

「作った」という言葉の意味そのものが、今とは少し違っているのかもしれません。


生成AIを使いながら、動画や音楽を実際につくって、そこで分かったことを記録しています。

技術的な使い方だけではなく、AIを使って作り続けることで出てきた疑問についても、これから書いていこうと思います。

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