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猫動画と鶏天うどんと鉄臭いお湯のあいだで何に使うか迷った「あい」の行き先について考えていた日のこと

「あい」が義務づけられたのは、わたしが大学二年に上がる少し前だった。
正式名称は「AI発話ログ管理システム」とかいう堅い名前なのに、みんな勝手に「あい」と呼ぶ。
インストールすると、スマホのマイクとメッセージを監視して、「あい」と発音された回数を自動でカウントしてくれる無駄に優秀なやつだ。
通知の文言は、いつも淡々と事実を突きつけてくる。

《本日も「あい」のご利用ありがとうございます。》
《今月の無料「あい」は残り3回です。》

「あい」は毎月一定回数までは無料で、それ以上使うと少しだけ課金される。
愛、会い、I、逢い、アイ、可愛い、あいさつ——
音として「あい」が含まれていればまとめてカウントされるらしい。「可愛い」の「愛」に反応するのは納得いかない。けれど、わたしの場合、舌が短いせいで「かわいい」が「かあいい」と判定されてしまうだけかもしれない。
最初は誰も本気にしていなかったけど、「うっかり使いすぎて請求が200万超えた」という話がSNSでバズってから、みんな少しずつ口数を減らしはじめた。
テレビの経済アナリストには、「希少性が生まれて大変喜ばしいことです」と言う。
でも、わたしの生活からすると、ただ単にめんどくさい。

スマホを見ると、画面に小さく通知が出ていた。
《今月の無料「あい」は残り1回です。》
まだ十二月は二十日以上残ってるのに。
履歴を確認すると、友だちとのLINEで「会いたいかも〜」とか言っていたり、ねこ動画に「かわいい」の「かい」だけ打ってコメントしていたり、自分でも何がしたいのかわからない痕跡がいくつか残っている。
「かわいい」を「か」だけにしたスタンプが、トーク履歴の中でやたら踊る。
大学に行くと、教室の後ろのほうで、カップルがこそこそしていた。
彼氏のほうが「今月の『あい』、全部お前に使ったからな」とか言っていて、彼女が「アホとちゃうん」と笑っている。
アプリの利用履歴を見せ合うのが、新しい恋愛の通貨になりつつあるらしい。
ゼミの教授は、そんなことお構いなしに、ホワイトボードに「限界効用逓減」と書いていた。
本当に逓減しているのは、たぶん「あい」のほうじゃなくて、「照れ」のほうなんじゃないかな、とぼんやり思う。
「課金してでも使いました」という事実が、安っぽい証明書みたいに揺れている。

授業のあと、ひとりで学食に行った。
トレーに鶏天うどんを乗せて席を探していると、壁のポスターが目に入る。

〈愛を、大切に〉

「そのコピーがいちばん雑やで」と心の中でつっこむ。
でも、こういうスローガン系の「愛」はカウント対象外だと聞いた。誰の中にもない「愛」は、無料で胸を張り続ける。



夜、アパートの階段を上っている途中で、ふと、残り一回の「あい」をどうするか考えはじめた。
実家の母に「会いに帰りたい」と送るのもありだ。
今月は仕送りがちょっと多めに来ていたし、「いつもありがとう」とセットで打ってもいい。
でも、今さらそんな大袈裟な連絡をしたら、「どうしたん?」と電話がかかってくるのが目に見えている。
「いや、アプリの残高がさ」と説明するのも、なんかちがう。

未来の恋人のために取っておく、という案も頭をよぎる。ただ、それはそれで、だいぶギャンブルが過ぎる。
「今年中に恋人でけんかった〜」となったら、その一回はどこに行けばいいのか。わたしの「あい」は国庫に返納されるのか。嫌すぎる。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。たぶん「あい」にはもっと大切な使い道がたくさんある。
でも、今日のわたしにできるのは、猫の動画をひとつ再生して、「かわ…」で止めることくらいしかない。
ふと、画面に映った自分の顔が、思ったより疲れていて笑ってしまう。
目の下に激しくクマがあって、髪もちゃんと一日を終えたバラつき方。つまり、ぼさぼさ。
じっと見ていると、ふと、この顔に一回くらい使ってもいいんじゃないか、と思う。

「あいしてるで」

しん、とする。
数秒後、スマホが震えた。画面を見ると、通知が出ている。

《今回の「あい」は課金対象外です》
《残り1回の無料「あい」は、現在も有効です》

履歴を開くと、さっきの発話は「自己向け」とタグがついている。誰が決めたのか知らないけれど、世界のどこかで、こういうことだけはちゃんと気にしてくれている人がいるらしい。
スマホを伏せてもう一度鏡を見ると、さっきと同じ顔が、さっきよりちょっとマシな人間みたいに見える。

無料の「あい」は、たぶん一生足りない。でも、自分に向けたぶんだけは、最初から使い放題だったのかもしれない。
気づかない間に、そういうものを使わずに生きてきたのかと思うと、ちょっとだけ悔しい。
だったら、今のうちに言っとこうか。明日、最後の一回を誰かにうっかり渡してしまってもいいように、今夜だけは自分宛ての「あい」を使い倒しておこう。
そう思って、鏡に向けて「あいしてるで」とか「かあいいよ」とか、足りない舌でつぶやく。変なやつやな、と自分でも思う。




「モノカキングダム」っていう企画に書いてみた。
日用品とか、机の上のガラクタみたいなものたちに、ちょっとだけ王様っぽい顔をさせてみる遊び、みたいなやつです。
身の回りのものに勝手に肩書きをつけていくの、昔から好きなので、よかったら王国見物していってくださいね。

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