「小学校〜それは小さな社会〜」から不登校増加の背景を考えた
以前から気になっていた
「小学校〜それは小さな社会〜」を見ました。
この映画については、
公開された直後から私の周りでもそれなりに話題になっていて、
海外の人から日本の小学校教育について好意的な評価が寄せられたというポジティブな反応についても耳にしていたので、気にはなっていました。
見終えた率直な感想は、
重苦しい
なんとも言えない気持ち。
特に、先生方から子どもに向けて投げかけられる言葉の数々への違和感。
叱り方、とでも言うのでしょうか。
「あなたはどう考えてるの?」
「どうすればいいのか自分で考えて!」
教員が、怒りの感情を滲ませつつ
子どもへの問いかけながら叱るスタイル。
「子どもに主体的に考えさせる」
ということを狙ったものなのかもしれませんが、
こうしたやりとりは、観ているだけでこちらまで息苦しくなる。
しかしながら、これは作中に登場した先生方だけのことではありません。
私がこれまで働いてきた学校(中学校)でも同じようなやりとりが日常的に行われていました。
今の時代、先生たちは子どもやその後ろにいる保護者に過剰なほど「配慮」しなければいけない。
親のクレームを避けつつも
子どもの心に「刺さる言葉」で指導しなければいけない
となると、教員が言いたいことを言うのはリスクが大きすぎるので、この「問いかけスタイル」にならざるを得ない。(本当はそうじゃないけど)
先生は明らかに怒っている。
そして、
「あなたはどう考えているの?」
と子どもに問いかける。
この発問だけを聞けば
子どもは何を考えてもいいし
どんな発言をしてもいいはずなのに、
それを許さない空気と同調圧力のなかで
この場にあった最適解はなんなのか?
どうすれば自分が周りと同じでいられるのか?
と考えることを要求される。
提出物が出せていないことについて
先生が指導する場面でも
「自分が出来てないと思う人は手を挙げなさい」
という問いかけなどもそうです。
この時に子どもが考えるのは、
「自分の行動がどうであったのか」
ではなく、
先生の顔色や周囲の反応・様子をみて、
「ここで自分は手を挙げておくべきか否か」
ということ。
これは本来の内省とは違います。
「どんな考えにも間違いはない」
という言葉にも違和感がありました。
これも今の学校では
よく使われる言葉なのかもしれません。
一見「自由に考えていいんだよ」と言われているようで、実のところ子ども達にそれほど自由はありません。
先生が既に「答え」を感情に滲ませていること、周囲が「正解」とする考えが既にあることを子ども達は知っているから。
子どもからすれば、
自分が間違っているなら正してほしいし、
「間違うことは恥ずかしいことではないからこそ、間違いを恐れないでほしい。」
という言葉をかけられた方がよっぽど安心できる。
でも教員から発せられるのは
「自分の頭で考えて」
「どんな意見にも間違いなんてないんだよ」
日々大人が発するこんな言葉に
子どもはジワジワと疲弊していきます。
子どもにとって、怒ってる相手と向き合うことだけでもかなりのエネルギーを使うのに、その時の空気も読みつつ相手の「問いかけ」への最適解を考えねばならない。
そして、日常的に怒られたり注意を受ける機会が多くなりがちな発達特性をもっている子にとっては、毎度こんなやりとりをするのは、かなりの心理的負担だと思います。
とは言え、こういう子たちに向けて
教員が配慮するというのも違います。
なぜなら、
こうした言葉がけ自体が教員の
配慮の産物 だからです。
今の学校現場においては、
あきらかに子どもの側に非があったとしても、そこで教員が「一方的に」子どもを叱責したり説諭することは大きなリスクです。
「我が子の言い分も聞かず、先生から怒られた!」
という親からのクレームを回避するには、
自分で考えさせるという形式をとって、
周りの空気を読んで
「まずいことをしたんだ」と察しなさい。
こんな恥ずかしい思いをしたくないなら二度としないようにしなさい。
という声のかけ方になる。
こうした環境の中で、
大人とのやりとりに疲弊してしまった子や、
心が疲れやすい子が、低学年のうちからあっという間に不登校になってしまうのも容易に想像がつきます。
親御さんからの相談を受けていると、
子どもの登校しぶりや不登校のきっかけについて「学校で先生に怒られたこと」を挙げられるケースがわりと多いのですが、
今の学校現場において、先生方が子どもに怒る場面というのは、我々親世代が小学生だった頃に比べるととんでもなく「配慮」がなされたマイルドな言葉がけになっていることがほとんどです。
そのため
「たかだか先生からちょっと言われたくらいで心折れるなんて」と親は思いがちです。
でも、子どもにしてみると
このじわじわと真綿でクビを絞められるような先生との言葉のやり取りは、1回ガツンとキツく叱られるよりも遥かにダメージが大きいのかもしれません。
また、今回この映画の撮影のために長期間学校生活の中にカメラが入り、自分と子ども達とのやりとりが広く公開されるかもしれない「非日常」「不自然さ」の中で、先生方がどれだけ神経を遣いながら日々を過ごしていたのかと想像すると、子どもに対してより一層配慮した伝え方や指導にならざるをえなかったのかもしれません。
(一年間クラスに密着されていた女性の先生、普通だったらぜっったいに嫌だと思いますが、おそらくそれなりの「立場」で引き受けられたのかなぁ…と裏側の事情についても想像を巡らしていました)
長々と書きましたが、
この映画が秀逸なのは「どの立場・視点」で観るかによっても大きく印象が異なる中、それぞれの立場の観客に沢山の「考える余地」を与えている点だと思います。
来年から小学校に我が子を通わせる親の立場としては、
「あぁ、息子にとってこれはなかなかしんどい環境だろうなぁ」
元教員としては、
「わかるよ。今の学校じゃこうするしかないんだよね…」
そして
不登校に悩む親御さんを支援する立場としては、
「こういう環境である以上、子どもの特性によっては馴染めないケースがあるのは当たり前。必ずしも今の学校に登校することを最善手と考えず、色んな選択肢があってもいいかもしれませんね」
という感じになるのかな。
私自身はそこそこ楽しく学校に通っていたので学校は嫌いじゃなかったけど、その理由を考えてみると、学校ってもっと適当でいい加減が許される場所だったからなんですよね。
そのいい加減さの中で「ほどほど」とか「そこそこ」とか「適当さ」を身につける場所が学校だった。
今みたいに「きちんと」とか、「ちゃんと」なんてことを言う先生も、求めてくる親も大していなかったからこそ楽しかった。
私も教員として働いていた頃は、そんなあり方を大切にしたいと思っていたけど、それすらも同僚からすれば「勝手なことして」「いい加減なことして」と思われていたはず。
学校って子ども同士の同調圧力もすごいけど、教員同士の同調圧力も強いのです。
見ながらそんなことも思い出して、更に疲れてしまいました(笑)
社会が変わってるのに学校はいつまでたっても変わらない、だからダメなんだという意見がありますが、私は違うと思います。
かつて教員時代に尊敬していた同僚が
「先生と生徒がいる場所が学校だ」
と言っていました。
学校というハコや仕組みではなく、
そこにいる先生と生徒こそが
「学校そのもの」であるとするなら、
今の学校は確実に昔とは違うし、大きく変化しています。
そして、古き良き時代の学校を知る大人のひとりとして、どうしようもない寂しさを感じてしまう映画でもあったな、とも思います。
今の学校について書いたこちらの記事もどうぞ。
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