現代版・八段錦:第一章「情欲の果て」
週刊誌やSNSの炎上を覗けば、一晩の火遊びでキャリアを失うエリートや、不倫の末に家庭を壊す経営者の話は掃いて捨てるほどある。古の皇帝たちが美女一人で国を滅ぼしたように、現代でも「色欲」という名の沼は、足を踏み入れた者の人生を容易に飲み込んでしまう。
これから話すのは、とある街で実際に起きたとされる、ある青年の身の毛もよだつ体験談である。
1. 完璧な二代目の誤算
八月、都心は暴力的な熱気に包まれていた。アスファルトが陽炎を上げ、人々が呼吸さえ苦しむ中、新井(あらい)は一人、困惑と怒りを胸に父の所有するマンションの前に立っていた。
新井は、いわゆる「完璧な人生」を歩んできた男だ。父は家具業界で財を成した実業家で、新井自身も父が所有する高級ヴィンテージ家具のショールームを任され、その経営も順調。家庭では良き夫、良き父として振る舞い、誰一人として彼に不満を抱く者はおらず、「非の打ちどころのない二代目」と評されていた。
そんな彼が、ショールームで外を眺めていると、向かいにある父のマンション一階の空室に勝手に荷物を運び込んでいる連中がいた。
「誰の許可を得て入っているんだ!」
新井が声を荒らげると、奥から一人の女性が現れた。
名前は聖里奈(せりな)。
彼女が一歩踏み出した瞬間、新井の肌が粟立った。
透き通るような肌に、どこか憂いを帯びた瞳。彼女はしなやかな動作で歩み寄ると、新井の前に深く頭を下げた。
「申し訳ありません。急なトラブルで前の家を追い出されてしまい……オーナー様のお知り合いという方から、数日だけならと伺っていたのですが……。もちろん、相応のお礼はさせていただきます。」
彼女が伏せたまぶたを上げた時、新井は言葉を失った。その瞳は、すべてを見透かしたように凪いでいる。
部屋に入ると、異様な違和感が彼を襲った。外はうだるような猛暑だというのに、その部屋だけが古い蔵の奥底のような、湿った冷気に満ちている。冷房の音はしない。
彼女の華やかで芳醇な香水の香りはなりをひそめ、それとは似つかわしくない、古い寺の本堂に入った時に嗅ぐ、線香のような、あるいは古い畳が腐ったような匂いが鼻をついた。
部屋の壁には時計も鏡もなく、ただ仏間にでもありそうな古い木箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。
「何か、変ですか?」
聖里奈は小さく笑いながら答えた。その細い指先が新井の腕に触れた。ひんやりとした冷たさが、火照った身体に心地よい毒のように染み渡る。数分前までの新井の怒りは、どこか遠い国の出来事のように思え、一瞬で霧散した。
「……あ、いや、事情があるなら構いませんよ。ゆっくりしていってください。」
新井はろくに事実確認もせず、自ら彼女の重いトランクを部屋まで運んでやった。
2. 溺れる心
それからというもの、新井は憑かれたようにショールームを抜け出しては彼女のもとへ通った。聖里奈は母親と祖母を自称する女たちと同居していたが、男の気配は微塵もなかった。
妻から入る「今夜のご飯は?」「オムツ買ってきて」というLINEは、いつしか自分を縛り付ける呪文にしか見えなくなっていった。
子どもの寝顔を見るたび、自分はちゃんと父親をやれているのか、不安になることがあった。今や罪悪感でいっぱいだ。
父はいつも言った。「お前は新井家の看板だ。失敗は許されない。」新井はずっと、正しくあろうとしていた。
誰かの期待に応え続ける日々に、自らの魂が削られ、空洞化していく。その痛みを消せるのは聖里奈の冷たい肌だけだった。
ある夜、聖里奈は「お礼に」と、彼を自分の寝室に招き入れた。
「あなたって、ずっと誰かの期待に応えて生きてきたでしょ」
シーツの擦れる音の中で、聖里奈が耳元で囁く。その声は、心臓の奥のいちばん柔らかい場所を抉った。
「自分として生きたことはある? 本当は、全部壊してしまいたいんじゃない?」
新井の目から、不意に涙が溢れた。父の看板、夫としての責任、良きリーダー……それらすべてを脱ぎ捨て、彼は聖里奈にしがみついた。
「いいのよ、それで。あなたはここで、私の中でだけ生きていれば」
二人は溺れるように重なった。近隣住民からは、彼女の部屋に毎晩のように違う男の影が差すと苦情が出たが、新井は聞く耳を持たなかった。彼は父に無断で、郊外にタワーマンションを一部屋買い与え、彼女をそこに隠した。彼女を独占しているつもりだった。自分が何かに「独占されている」とも気づかずに。
3. 僧侶の影
九月に入る頃、新井の身体は、目に見えて衰弱していった。頬はこけ、目は落ち窪み、肌は土気色に変わった。
ある晩、タワーマンションで聖里奈と過ごした後、新井は極度の虚脱感に襲われ、泥のような眠りに落ちた。
夢の中に、一人の男が現れた。
男はぼろぼろの黒い法衣を纏った僧侶だった。だが、その顔には目も鼻もなく、ただ大きな「口」だけが横に裂けて、不気味に歪んでいた。
僧侶は冷え切った声で囁いた。
「……見つけたぞ。お前が、私の代わりだ」
「何の話だ、出て行け!」
新井はそう叫ぼうとするが、僧侶は腐った魚のような臭いを放ちながら、懐から黒ずんだ数珠を取り出し、新井の首に巻きつけた。数珠が首に食い込み、喉が潰れる。
「私はかつて、この地にあった寺で女を抱き、戒律を破って呪いで死んだ。この数百年、誰かが同じ罪を犯すのを待っていた。お前がその女と交わるたび、私はお前の精を、魂を、少しずつ喰らっていたのだ……」
新井が階段から突き落とされる感覚と共に飛び起きると、全身から異常なまでの冷や汗が噴き出していた。
隣で寝ている聖里奈の顔を見ると、月明かりに照らされた彼女の顔は、一瞬だけ夢の中の僧侶と同じ「口だけの化物」に見えた。
4. 浄化と代償
新井は恐怖に駆られ、裸同然の格好で部屋を飛び出した。
タワーマンションのエレベーターを待つことすらできず、非常階段を転げ落ちるように駆け下り、そのまま車に飛び乗って実家へ逃げ帰った。
玄関に倒れ込んだ瞬間、猛烈な吐き気が込み上げた。胃の中はとうに空のはずだった。にもかかわらず、喉の奥から絞り出されたのは、食べ物ではない。どろりとした、悪臭を放つ「黒い泥」のようなものだった。即入院して検査したが、原因は不明。医者は「過労によるショック状態」としか言えなかった。
死を悟った新井は、駆けつけた父親にすべてを告白した。
「あの女の部屋に……坊主がいるんだ。僕を連れて行こうとしている。」
錯乱する息子を見た父親は、黙っていた。だが、その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。心当たりがあったのだ。
例のマンションが建っている土地はかつて、戦後の混乱期に古い寺を壊して再開発した際、古い無縁仏の墓を壊したものだ。彼自身、その土地の取得に関わっていた。
「……まさか」
父は低く呟き、すぐに古くから付き合いのある寺の住職へ連絡した。マンションの清祓いを済ませたのち、新井の枕元でも祈祷が行われた。
読経の声が響く中、新井は高熱にうなされ、何度も同じ言葉を繰り返した。
「代わりだ……代わりを探してる……」
住職は黙って数珠を擦り続けた。
深夜。
新井は老婆のような金切り声を上げ、激しく咳き込んだあと、最後の一塊の黒い泥を吐き出した。その泥の中には、なぜか聖里奈がつけていたはずの、千切れたネックレスが混じっていた。住職はそれを見るなり顔色を変え、低く念仏を唱え始めた。
一晩の祈祷を経て、夜が明ける頃、新井の熱は嘘のように引いた。しかし、彼を待っていたのは怪異よりも残酷な「現実」だった。 不倫と、横領に近い不動産購入はすべて明るみに出た。妻は子供を連れて家を出た。
「あなたは、もう別の場所にいる人みたい」
それが最後の言葉だった。二度と会うことは叶わなかった。
後日、父親が管理会社の人間を伴い、あのタワーマンションを訪れた。部屋は完全にもぬけの殻だった。家具も衣類も、生活の痕跡すら何ひとつない。
だが、奇妙なことに、管理会社の記録によれば、その部屋に誰かが入居した形跡すら残っていなかった。契約書もない。身分証の控えもない。防犯カメラにも、聖里奈の姿は一度も映っていなかった。
担当者は困惑した顔で言った。
「そもそも……この部屋、半年以上ずっと空室だったはずなんですが」
父は何も言わず、寝室の壁を見つめていた。寝室の壁一面に、爪で引っ掻いたような跡で「南無阿弥陀仏」という文字が、気が狂わんばかりに刻まれていた。
父は知っていた。
祈祷の前夜、高熱にうなされながら、新井が空中に向かって何時間も爪を立てていたことを。
まるで、そこに見えない壁があるかのように。
そして、その時だけは確かに、
息子の口から女の声がしていたことを。
――自分として生きたことはある?
新井は一命を取り留めた。しかし、今も夜中にその声が聞こえるという。彼はショールームの担当を辞め、今は父の会社の配送センターの奥、日も差さぬ倉庫で静かに働いている。
誰とも深く関わらず、誰の目も見ず、ただ何かから隠れるように。
色欲は、甘い蜜の味をした刀である。
切られたときには快楽しか感じない。
だが、気づいた時には、
すでに魂の骨まで断たれている。
気をつけて。
あなたの隣の空き部屋に、
美しい誰かが越してきても――
決して、その冷たさを
懐かしいと思ってはいけない。
