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無駄と気晴らしの倫理学

小さな頃に宿題を投げ出してゲームにいそしんだ経験が誰にもある。大抵の場合、親は起こり倒して子供達の気晴らしを奪おうとするが、案外それは人類史に背く行為なのかもしれない。私達から気晴らしを奪い去った後にここまでの文明は存在し得ないし、あなたが好きな気晴らしさえ存在しないかもしれないのだ。私達は人生の多くを気晴らしによって充足し、集団的知性としての社会そのものも気晴らしによって成り立ってきた。

白雪姫 ~彼女達の相転移~

ディズニー映画「白雪姫」は人々が感情移入して感動した最初の映画であった。わずか2世紀前には静止画像が映像に変わることに驚いていた人々が、今や目の前にある擬似的な世界観に飲み込まれて感動し、すすり泣いているのである。それまでストロボ写真だったものが、12フレームを越えた瞬間に静止画像の連続とは全く別の異世界を持ち始めたのだ。それは表現における相転移であり、氷が0℃を越えて常温の氷になるのではなく水という新しい状態を備えたことに相似でき、静止画像に命が吹き込まれた瞬間だった。

そして今、現代人は新しい「白雪姫」を目の前にしている。それはsiriやgoogle assistant、alexaなどの音声認識システムであり、翌日の天気を教えてくれたり、朝早くに起こしてくれたり、たまにジョークを言ってくれたりもする疑似的な友人である。映画「her」はまさしく彼女達に感情移入してしまう現代に生きる男性の物語であり、それ自体感情移入して感動できる映画だ。それはまるで水蒸気を水の中で見るような入れ子型のパラドックスであり、映画が技術から芸術に移り変わったのを見るようにして、彼女達が技術から友人に変わる瞬間である(多くの音声認識システムが女性の声をしているのは面白い)。

だがいずれの相転移にしても、その変化の原動力になったのは気晴らしであったことは驚きに値する。映画など無くても経済はそこまで変わらないし、彼女達がいなくても翌日の天気くらい分かるし、朝は起きられる。それらは必要からではなく、ただ気晴らし欲しさに求められた。愉快で希望に満ち溢れた何かが時代のアップデートに大きく関わってきたのだ。それは遊びとイノベーションの共進化であり、暇と退屈から生まれるポジティブな怠惰であり、あまり実用的ではない物に対する探究心こそが人間を人間足らしめている事実でもある。

音楽 ~洞窟の協和音~

あなたは後期旧石器時代の洞窟の中にいる。あなたは既に火を使いこなし、狩猟の道具を作り、暖かく過ごすための衣服を身に着けた。さて、その次に発明しようとするものは何か考えてほしい。

そこで、「一緒に鳴らすとぴったり3:2の比率で同期する振動を空気分子中に作り出す道具」の製作に日々を費やすとは一見バカげているように思えるだろう。だが実際にそれこそが私たちの祖先がしたことなのだ。波形・整数比・倍音のどの概念もホモサピエンスの知るところでは無かっただろうが、毎日の生活の中で聞く雑音とは異なる不思議な協和音に惹き込まれ、決して生殖活動や食料自給率を高めるわけでもない音楽を生み出したのだ。

ニーチェは「音楽が無ければ、人生は過ちである」と言ったが、人間の根源的な欲求を満たすことに日々を費やしてきたのが私たち人間なのである。そこには生産性では捉える事のできない魅惑的な結果が潜んでいた。例えばネアンデルタール人よりも高い社会的ネットワークを獲得したり、単語や文から成る全言語的コミュニケーションの獲得、あるいはパイプオルガンの発明を通して人類がタイプライターならびにPCを獲得することに寄与したことはあまり知られていない。

近代に入ってWalkmanやipodという発明がされたが、それらは社会の重要なベクトルを決定づけた。当時、蓄音機を小型化して持ち運ぼうなどとは誰も思いつかなかったし、音楽を情報として販売するなど見当違いにもほどがあると思われたが、言うまでもなくそれらは現代を作り出した先駆的イノベーションだった。長い人類史に渡って音楽が技術、経済、生活スタイル、メディアに与えた影響は計り知れない(サブスクリプションを考えれば明らかだ)。

無駄 ~建築の感動体験~

100年に1度のパンデミックが起こってトイレットペーパーを買い占める行為ほど無駄なこともないが、それを敢えて文章に書く人間も大抵は無駄な心の持ち主かもしれない。だがこの無駄な文章があることでこの文章全体にゆとり、言い換えれば少しばかりの豊かさが生まれるのだと僕は勝手に願う。

建築空間に無駄は求められてはいない。全てが合理的に収まった平面図こそが崇められ、実際にそれは正しい。「かくれんぼ」しやすそうな空間こそ収納やトイレを収めるのには打ってつけであり、敢えて無駄を残そうとするなど、建築家の頭の中で結晶化された幻想に過ぎない。

コルビュジェの遺作、ロンシャン礼拝堂は無駄だらけである。屋根をキノコのように膨らませる必要はないし、窓をあそこまで点在させることに合理性はない。蟹の甲羅からヒントを得た屋根曲面を作ればキリスト教への信仰が強まる訳ではないし、窓に色とりどりの表情を見せればマリア様が振り返ってくれる訳でもない。近代建築の巨匠の遺作とは思えない程の無駄の集積体がここロンシャン礼拝堂なのである。だが同時に、この世の物とは思えない程の感動の集積体もここロンシャン礼拝堂なのでもある。

入った瞬間に包み込まれ、空間に響き渡る足音。光は南側から色ガラスを通してかすかな明るみをもたらし、思ったよりも暗い。屋根が作り出す重量感・圧迫感が大きな石に守られている感覚を与えてそれは意外にも心地よいが、壁面上部のわずかな隙間が壁と屋根による固定観念を軽く嘲笑う感覚。

感動体験は無駄が作り出す建築側の裏切りによって生まれるのではないか。そう思った。社会は人間によって突き動かされるが、人間を突き動かすのは感動であり、その感動を作り出す一助になるのが建築なのである。予想の範疇を超えた空間に驚きが生まれ、探求心が生まれ、感動を呼び起こす。

納得 ~成功の真実~

人間は「成功」そのものよりも、案外「納得」を求めているのだ…という説明に大きく頷いた経験がある。受験で失敗した時、確かに僕は納得を迎えて終わった。この勉強量と質では受かるはずも無い、成功する訳がないと。そこに残った物は後悔でもあったが、納得の方が一段と大きかったように思える。

後期旧石器時代の祖先が洞窟内で発見した協和音。実際にそれは成功なんて物では無い。他にもっと改善すべき問題が山ほどあったにも関わらず、なぜ音楽を作り出したのか。まして、文字さえ無かった時代にである。一つ一つの協和音を連続させることで心地よいリズムが生まれることに気が付いた時の感動は言葉にもできなかっただろうし、そもそも言葉を発する能力が彼らにあった事自体が疑わしいが、その感動がより感動的な音楽を作り出し、自らの発明を自らの音楽で称えたのであろう。

エジソンが言い放ったこの言葉「失敗は成功の元である」は、負け犬の遠吠えのように聞こえる人もいるかもしれないが、彼自身これは納得を求めた結果の言葉だったのだろう。成功しなかった代わりに、納得をしようと。

①くちばし ~進化論の掟~

ダーウィンの進化論でも、この納得を求めようとする衝動は説明が付く。なぜなら進化は、善悪二項対立ではなく、自然選択の結果として可能性の波が増幅していくからである。予め約束された成功なんて無いし、逆に進化の結果辿り着いた形態はすべて成功した産物である。

例えばくちばしの長い鳥はその形態がもたらす成功によって生きながらえている。つまり、岩の隙間の小さな虫を食べることに成功し、くちばしが短くて手前の虫しか食べられない鳥よりも有利に進化が働いているのである。それは生態学的ニッチに巧妙に適応した結果であり、少なくとも現時点では最も成功していると考えるだろう。だが、もし地球温暖化が始まって水不足が発生した場合、長いくちばしは水をすくう行為に対する成功した形態ではなく、短いくちばしを持たない自分達が餓死することを納得せざるを得なくなる。

成功に普遍性は無いが、納得になら多少なりとも普遍性がある。ある種それは巧妙な自己正当化でもある訳だが、進化論的に納得を求めることなら常に可能であり、逆に永遠の成功など存在しない。

②ナチス 〜本性と生命〜

少し残忍な話題かもしれない。アウシュヴィッツ収容所では約120万人が犠牲となったが、もし成功(ここでは数値的な合理性)こそが大切なのだとしたら、その政策は正しかったのかもしれない。ユダヤ人を犠牲にすることによってそれ以上の戦死者を防ぐことができたかも知れないからだ。

だが誰もその成功には満足していない。なぜなら人間の本性に背く悪行だからである。私達はやはり納得のできる結果を求めているのだ。アウシュヴィッツで行われた行為はいかなる正当材料が用意されようとも納得の行くことではなく、人間の本性と人間の生命との比重で前者こそが求められていることを示している。すなわち納得こそが成功よりも大切であり、それは私達の心に対して聞いてみても同様の答えを出してくるという事の表れである。

③ダビデ像 〜保存の生と死〜

フィレンツェに行き、ミケランジェロの「ダビデ像」を見てみたい。指が太ももに振れることで生まれる柔らかな曲線美。それは大理石に宿った生命である。最も高尚とされるその彫刻は現代社会にとって最も保存すべき対象である。

それでは、コロナウイルスが世界に蔓延して全生物が壊滅し、誰も居なくなった廃墟の街フィレンツェ。その一角のかつてアカデミア美術館があっただろう場所に、すっかり綺麗に保存されたダビデ像がポツンと立ちすくんでいたら、それは高尚な文化を保存できたと言えるのだろうか。ダビデ像の瞳が見つめるフィレンツェの街並みに文化保存による成功が垣間見えるのだろうか…。

大抵の場合、保存に成功することにあまり意味はない。保存したことで子供達に影響を与え、新しい未来を築くことの方がよっぽど重要である。敢えて納得するまでもないが、成功そのもの以上に大切な事は世界に溢れているのだ。

世界形式 〜共有される納得〜

装飾は犯罪なのだろうか。かつて建築家アドルフ・ロースはそれまでの装飾のみを継承した似非モダニズム様式を徹底的に毛嫌いした。それは無駄の集積体である事以上に、誰も納得することのできない建築学的な継承だったから、装飾が批判されるのも当然だった。装飾の元々の意味合いは忘れ去られ、決して必要の無い基壇やオーダーが残り続ける酷い状態になっていたのだ。

だが納得することのできる無駄もある。例えば照明器具に取り付けられるシェードの重厚なデザイン、窓まわりの厚い佇まい。それらは不必要だが生活様式やコミュニティへの顔、時には人々のロマンとして建築に残り続けたのだ。納得さえできれば合理性が無くても良い。建築はそうやって進化していく。

例えば宗教施設は皆シンメトリーである。建築の美しさは決して普遍的価値を携えてはいないし、多様性こそ奨励されるべきだと思うが、シンメトリー空間はありとあらゆる場所で見ることができる。それは自然界には無い特殊性を増して神聖な空間を演出する訳だが、納得は言語を超えて共有されることもあるのだ。

パルテノン神殿の柱と法隆寺回廊の柱はエンタシス(目の錯覚を利用した歪み)という共通形式で結ばれるし、水が持つ神聖な意味合いは伊勢神宮とイスラームのモスクとで同様の物を感じ取れるだろう。無駄から生まれる建築美は確かに現代まで存在するし、それは大抵納得することのできる物である。それは世界形式とでも呼べる、人類共通の無駄である。

因果 〜無駄と気晴らし〜

「無駄が気晴らしを生むのか。それとも気晴らしが無駄を生むのか。」多くのこういった疑問は共通して進化論が解決してくれる。つまり、ゲームが気晴らしを生んだの同時に、気晴らしがゲームを生むのである。それらは常に相互依存関係にあり、共進化していくのだ。因果に正当性を見出す事は不可能であると同時に不必要でもある。成功は手段を正当化しないし、正しい手段が成功を導く訳でもない。終戦は原爆を正当化しないし、ライフルが戦争を成功させる訳でもない。

改善 〜発明の真実〜

あなたが生きている間に気晴らし≒悪、生真面目≒善という二項対立が身についてしまったのなら、そのレッテルを今すぐ打ち破るべきだ。気晴らしこそが生真面目な世界を後押しするのであり、人間の本質なのである。

映画、音楽、羅針盤、航海術、冷凍技術、電球。人間の根源的欲求が作り出す改善の連鎖が発明を生み出すのだが、世の中の発明は改善の頂点に他ならないし、ましてや頭の中から急に湧いたアイデアが発明に繋がる事例は無い。発明は改善の相転移なのである。現代まで生きる白雪姫がそれを証明し続けている。

そしてそれらを生み出すのは気晴らしから生まれる探求心であり、時に無駄にも見えるそれらは成功ではなく納得を繰り返すことで社会の一部を成してきたのである。

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