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【境界なき舞台のバグ】SNSは「誰でも舞える特権」なのか。エンターテインメントと反体制の歴史

芸能というものは、本質的にどこか「反体制意識」を持って臨むシステムである。 現状の不満や、国・政府に対するやり場のない怒りをエンターテインメントに昇華させる。古くは飢餓、天災、疫病といった「理不尽な自然」に対する祈りであったものが、社会構造が複雑化するにつれて、その矛先はリーダーやボス(権力者)へと向かうようになった。

しかし、権力者に直接文句を言えば、自分の立場(アカウント)が物理的に危うくなる。あるいは、距離的・組織的な階層が深すぎて、個人の声など到底届かない。 だからこそ人類は、その不満を「歌」にのせ、「踊り」にのせ、「舞」にのせ、「台詞」にしてきたのだ。

ここで重要なのは、それらがすべて「舞台の上」という限定された仮想環境(サンドボックス)で行われていたという事実だ。 舞台の上でどれだけ王様を批判しようと、それはあくまで「演目」である。しかし、ひとたび舞台を降りれば、彼らは泥臭い現実に帰還し、一人の市民として粛々と税金を払う。この「オンとオフの境界線」が明確に引かれているからこそ、芸能は社会のガス抜きとして機能してきた。

しかし、昨今はどうだろうか。 スマートフォンというデバイスの普及により、舞台と現実のボーダー(境界線)が完全に消滅してはいないか。

SNSというプラットフォームは、誰もがいつでもスポットライトを浴びることができる「全人類参加型の舞台」である。 人々はそこから、お上(政治家や著名人)に対して直接リプライという名の石を投げつけ、自分の意見が世の中を動かせると錯覚している。

私たちは忘れてはいけない。本来、「お上に声が届くこと」は特権なのだ。 古来より、神との対話ができる者だけが、特別な結界の中で舞うことを許されてきた。誰もが好き勝手に舞台に上がり、ルール無用で舞っていいわけではない。 適切なフォーマット(教養や芸)を持たない者が舞台に上がれば、それは単なる「広場の暴れん坊」であり、社会システムへの迷惑なノイズ(エラー)でしかない。

SNSという舞台が、実は極めて高度な「特権」であることを忘れた時、エンターテインメントは単なる暴動へと姿を変える。 私たちは今一度、自分の立っている場所が「舞台の上」なのか、それとも「税金を払う現実の泥濘」なのか、その境界線を冷徹に見極める必要があるのではないだろうか。

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