担当する以上は、最善を尽くそうと改めて思った話
とある件で自分の教歴を見返す必要があったので、最近自分のresearchmapを参照したのですが、担当授業の一覧を見るとまあなんだかんだと言いながら幅広い科目を担当してきたんだなと思います。
大学ではトルコ語を専攻しましたが、現在はトルコ語の科目は(当然ながら)なし。言語学・日本語(留学生対象)・日本語学・日本語教育関連の授業だけになっています。
一方で、つい最近までは非常勤の形ではありますが、トルコ語やアゼルバイジャン語の授業を担当させてもらう機会も得ましたから、これはこれでいい経験をさせてもらいましたし、何より楽しかったです。準備なども含めれば楽しいのと同じくらいに大変な思いはしましたけどね。
以前は、日本で仕事をするのならトルコ語が専門のポジションでやりたいなと願っていました。自分の研究内容も、もちろんそこを目指して進めてきていました。
が、人間も変わるもので、今はというと「担当科目が自分の専門ど真ん中でなければならない」という思いは薄れつつあるように思います。なぜなら、担当する以上は教える側として最善を尽くすことのほうがより大切だと思うようになったからです。
もちろん、こうした考えに対する異論は考えられます。日本語学の授業であれば専門分野としても日本語学プロパーの教員が授業を持つべき、という意見はありうるでしょうし、自分自身はまったくその意見を否定できません。
とはいえ、自分のような立場だからこそその授業で教えられることもあるだろうとも思っていて、その点ではもう腹を括って、なんとか学生に言語学・日本語学に興味を持ってもらえるように最善を尽くすしか選択の余地がないでしょう、と考えています。
要するに、自分の専門が何であろうと、それと教育とは連動させながらも、担当した以上は教員として最善を尽くすしかない、ということです。だってね…、世の大学の先生方、「本当は」ご自分の専門ど真ん中でなくても担当なさっている科目の授業、たくさんありますでしょう…?それでも先生方、それぞれの授業で最善を目指しておられると思うのですよ…。
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