「欲しがりません勝つまでは」で得するのは“偉い人たち”だけなのになぜかその足は引っ張らない日本人のスパイト行動のあれこれ。
とかく、日本で暮らしていると、「是が非でも他人の足を引っ張りたい」という人が多いことに驚かされる。筆者自身は「別に自分が損をするんじゃないからいいでしょ」と思うし、わざわざ他人の足を引っ張ることにエネルギーを注ぐぐらいなら、「自分が得するように動けば?」とも思うのだが、これがなかなかどうして難しいようで、どうも相当数の日本人が「自分の利益が減ってでも相手を陥れたい」「他人の足を引っ張りたい」という「スパイト行動」の虜になっているようだ。

昨日、『24時間テレビ』でマラソン走者を担当した女優・星野真里の言動を巡る一連のバッシングについての記事をたまたまいくつか目にしたのだが、それらのコメント欄はいずれも案の定という有り様であった。
とりわけ、星野の愛娘の状況と、それに関連した星野の発言などに対する批判(というか、もはや単なる罵詈雑言)はなかなかのものであったが、そのなかで割と見かけたのが上記のような「共感系コメントを誘発しながら巧妙にスパイトを促す要素を持ったコメント」だ。特にこのユーザーの、
集団生活とは、いかに理不尽を飲み込むかの、訓練の場でもあると思う。 優秀で恵まれていると思われる子でも、人に言えない我慢をしていることもある。 わかりやすい環境の子だけの意見が通るのではなく、 みんなのちょっとずつの我慢が、世の中を回している事に、感謝して暮らしていきたい。
このコメントはその典型例ともいうべきもので、一見、「みんなのちょっとずつの我慢が、世の中を回している事に、感謝して暮らしていきたい。」という結びで“良い人感”を醸し出しているものの、その実、このユーザーが言いたい本質的な部分は、それよりも前の「優秀で恵まれていると思われる子でも、人に言えない我慢をしていることもある。 わかりやすい環境の子だけの意見が通るのではなく、」という部分であり、その主張を読み手に受け入れさせるための「宣言」が、「集団生活とは、いかに理不尽を飲み込むかの、訓練の場でもあると思う。」という部分であることは、文章の構造上ある程度ハッキリしているのだが、書き手が意識しているかどうかはともかく、このような「偽装」が施された主張というのは、多くの人々が「引っかかりやすい」というのが事実だ。要は「星野のような境遇にある母娘だけ意見が通るのは許せない。なぜなら集団生活(というか社会)はいかに理不尽を飲み込むかという訓練の場であるのだから」という主張である。
無論、世の中いろんな考えがあってしかるべきであるから、筆者からすれば「ちいせえなあwwwまともな常識人ぶってクソみてえな人間性を披露してんじゃねえよwww」でしかないこの主張も、「あってよい」のだろう、おそらく。だが、これこそ、かねてより「日本人に多い」とされるスパイト行動の典型だと感じる。「自分が苦労したり、耐え忍んでることがある。それは多くの人々にとってもそうだろうから、誰かがその苦しみや忍耐から解放されたり軽減されるのは許しがたい。それならばみんなで耐え忍ぼう。」という話であるからだ。だが、こうした思考・言動そのものよりも筆者が疑問を感ぜずにはいられないのは、「誰も得しちゃいけない。みんなで損をしよう。我慢しよう。」という、日本人とってはおなじみの、非常にマゾい思考である。
そもそも『24時間テレビ』という番組自体、視聴者側には金銭的なリターンが一切ない構造だ。募金をすればするほど得をするのは番組・出演者サイドであり、感動的な演出についても、好感度を積み上げるというメリットがあるのは当然、出演者側だけだ。視聴者はただ時間を使って「感動させられ」、財布を痛めるだけの存在、すなわち金と涙のATMだ。つまり視聴者は最初から「損をする側」に固定されているわけだが、そうした鬱憤は行き場を失ったまま溜まり続ける。そこに、たまたま「個」として発言した星野親子が現れれば、「自分たちは何も得ていないのに、なぜあの人だけ特別扱いされるのか」というスパイト的な感情の捌け口として、格好の標的にされてしまうのは、ある意味必然だったのかもしれない。
筆者が子供の頃というのは、教室にエアコンなどの冷房機器があることはほとんどなく、夏場には子供心に「このままでは死ぬではないか?」というレベルで教室の温度が上昇したものだが、その際に教室内の集中力が低下したことを感じると、教師の多くが「暑いのはみんな同じ!だから我慢しろ!」というニュアンスの発言をしていたものだった。そのたびに筆者は「みんな暑いなら我慢するんじゃなくて解決法を考えて実践すればよいのでは?」と感じていたのだが、無論、そんな主張ができるほど「まともな教育現場」ではなかった時代であるから(ひと事でも言おうものならさらなる理不尽が待ち受けている)、筆者を含めて多くの児童が内心おかしいだろうとどこか感じながらも従っていたものだった。つまり、「問題を解決すること」よりもその状況を甘んじて受け入れ、「集団で耐え忍ぶこと」が正しいとされてきたわけである。極めて日本人的といえば日本人的な「エセ美徳」といえるだろう。
「欲しがりません勝つまでは」の時代には、こうしたマインドを一般国民に広め、それを強制的に「共通認識」として持たせ、さらには相互監視という形での同調圧力をかけるということで為政者たちは国民を地獄に突き落としていたわけだが、こうすることで当然ごとく、為政者へと向けられるべき批判は最小限に食いとどめることができる。本来であれば「欲しがりません勝つまでは」の状況に陥れている為政者たちの責任問題であるし、そもそも説明責任もあるわけだが、それらすべてを有耶無耶にして「みんなしんどいんだから!」で済ませ、国民を思考停止状態に追い込んでしまう。ここに日本人特有の生真面目で律儀で従順な国民性が加われば、それこそ目も当てられない。
…で、話を再び星野真里母娘の話に戻すが、前出のコメントをしたユーザーは「いかに理不尽を飲み込むかの、訓練の場」と「集団生活」を定義している。たしかに「結果として」そうした要素もあるだろう。しかし「それ前提」ではおかしいのだ。本来、「集団生活」というのは、個々の幸福追求を尊重しつつ、集団としてもその幸福度の底上げを目指すことが健全(じゃなきゃ意味がない)であり、誰しも「理不尽を飲み込む」ために集団となるわけではないだろう。集団ではなく「個」の状態では限界があるからだ。であるからには、飲み込むべきは理不尽さではなく、本来、「個の抱えがちな理不尽さ」や「それに付随するコスト」であり、さらにいえば「個」を「個」で吸収するのではなく、集団としていかに吸収するかという集団的思考になるのが自然だと思うのだが、ここにスパイト的な偏狭かつ独善極まりない雑音を混ぜると、途端におかしな雲行きとなってくる。
星野真里の主張は、別に「個」のコストを別の「個」で吸収しろという内容ではなかっただろう。それこそ「社会」という巨大集団における「個」として、「集団」へのリクエストや想いとしてのものであったはずだ。そうした意味でいえば、「集団生活」というもののルールを理解した上での「極めて真っ当な意見の1つ」であったと筆者は感じる。逆にこうした主張をスパイト的に叩き、潰す行為というのは、集団として抱えている課題や問題を根本的解決から遠ざけ、ただただ耐え忍ぶという、見方を変えれば怠惰な状況に集団全体を陥れてしまうことに繋がりかねない。
星野を執拗に叩く人々は、はたしてその労力の何割かでも、実際に国民を「欲しがりません勝つまでは」的な状況へ追い込む為政者たちへの疑問や批判に振り向けたことがあるのだろうか。おそらくないだろう。叩きやすい「個」を叩く方が、よほど手軽で、しかもリスクが低いからだ。
いつの時代も、どんな国や地域でも、為政者にとって「都合のよい」社会にするのは避けたいところである。
(猪)
