掲示板のあるマンション #1
【あらすじ】
転勤を機に古いマンションへ引っ越した真鍋澪香は、エントランスの掲示板に貼られた一枚の奇妙な注意書きに目を留める。「朝六時より前に廊下を歩かないでください」それを境に、管理人の不自然な親切、意味ありげな隣人、先回りするように増えていく注意書きが、少しずつ澪香の日常を侵食し始める。
異変はやがて掲示板や玄関先だけでなく、部屋の内側にまで入り込み、白い皿、表札、鍵、名前までもが澪香の生活を静かに壊していく。
部屋番号に取り込まれかけた澪香は、隣人に導かれながら、帰る場所そのものが怪異へ変わっていく建物から逃れようとする。
日常の手触りと安心できるはずの暮らしが少しずつ壊れていく過程を、連作形式で描く侵食型ホラー。
引っ越し先を決めるとき、真鍋澪香は、駅からの距離と部屋の広さと家賃だけを見た。
築二十年。五階建て。オートロックなし。エレベーターあり。
新しくはないけれど、古すぎるほどでもない。外壁は少しくすんでいて、郵便受けの名前は半分くらいが印字、半分くらいが手書きだった。不動産会社の担当は「静かな方が多いですよ」と言った。そういう言葉はたいてい当てにならないと思っていたけれど、駅から徒歩十二分という半端さが、かえって本当らしく見えた。
エントランスに入って最初に目についたのは、正面の壁に取りつけられた掲示板だった。
ガラス扉の内側に、A4の紙がきっちり並べられている。
管理会社からのお知らせ。清掃日変更のお知らせ。ごみの出し方について。共用部での私語について。自転車置き場の利用について。
どれもよくある文面で、特別おかしなことは書かれていない。なのに、なぜか澪香はその前で立ち止まった。
紙の枚数が多いから、というだけではなかった。
全部が妙に整いすぎていた。文字の大きさも、余白も、紙の端のそろい方も、少しだけきれいすぎる。生活の中の掲示物というより、誰かが丁寧に癖をそろえた標本みたいだった。
そのいちばん端に、一枚だけ日付のない紙があった。
朝六時より前に廊下を歩かないでください。
澪香は読み終えてから、もう一度その一文を見た。
廊下を歩くな、ではなく、朝六時より前に、だった。理由は書かれていない。騒音のことなら「お静かに」と書けばいいはずなのに、その紙だけは妙に言い方が具体的だった。
「気になる?」
声をかけられて振り向くと、うしろに管理人らしい男が立っていた。
五十代か六十代か、年齢の見えにくい顔をしている。作業着ではなく、薄いグレーのカーディガンに、首もとだけ少しよれたシャツを着ていた。
「いえ、ちょっと紙が多いなと思って」
そう言うと、男はやわらかく笑った。
「皆さん、読まないんですよ。書いておかないと、忘れてしまうから」
皆さん。
その言い方が少しだけ、澪香の耳に残った。
「新しく入られる方ですよね。真鍋さん」
まだ名乗っていなかった気がして、澪香は一瞬だけ返事が遅れた。けれど、管理人なら知っていて当然だとも思い直し、軽く頭を下げた。
「早坂です。何かあったら、いつでも」
そう言って差し出された手は、妙に乾いていた。
その日のうちに、澪香は荷ほどきを半分だけ終えた。
引っ越し業者が帰ったあとの部屋は、妙に音が響く。カーテンのない窓、まだ何も入っていない本棚、床に置いたままの段ボール。生活が始まる前の部屋には、仮住まいみたいな静けさがある。
時計を見ると、まだ午後四時を少し回ったくらいだった。
冷蔵庫の電源を入れて、洗面台にハンドソープを置き、寝るぶんだけのシーツを広げる。最低限の形だけ整えてしまえば、あとは明日でもいい。澪香はそういう区切りのつけ方が好きだった。
日が落ちる前に近所のスーパーへ行こうとして、財布の入った鞄を持ち、玄関を開けた。
廊下は思ったより細かった。
共用灯は点いていないのに、突き当たりの小窓から入る西日だけで、床の古い模様が見える。四〇二の表札は空で、その隣の四〇三には、名字ではなく小さく「佐原」とだけ印字された白いプレートがついていた。
足音を立てないように歩いたつもりはない。けれど、廊下を半分ほど進んだところで、背中側で扉の開く音がした。
「新しく来た方ですよね」
振り向くと、四〇三号室の扉が少しだけ開いていて、その隙間から女が顔を出していた。
三十代後半くらいだろうか。髪は肩につかない長さで、部屋着のカーディガンを羽織っている。きれいでも不気味でもない、ごく普通の顔立ちなのに、なぜか澪香は、その人の目元だけがはっきり見えなかった。
「はい、今日からです」
そう答えると、女は扉を開ききらないまま、小さくうなずいた。
「そうですか」
それだけ言って、少し黙る。
澪香は会釈を返し、行こうとした。すると、女がほとんど息みたいな声で続けた。
「最初は、皆さん、気にするんですけど」
「え?」
「すぐ慣れます」
聞き返したときには、扉はもう閉まりかけていた。
ぱたん、というより、そっと指で押さえたみたいな静かな閉まり方だった。
何に慣れるのかまでは、聞けなかった。
階段を下りながら、澪香は自分で苦笑した。
新しい場所に来ると、なんでも意味ありげに見える。隣人が少し変わっているとか、管理人が妙に親切だとか、そういうのは珍しくもない。さっきの女だって、単に人づき合いが苦手なだけかもしれない。
エントランスを出る前、掲示板の前をもう一度通った。
さっき気になった、日付のない紙はそのままだった。
朝六時より前に廊下を歩かないでください。
理由のない注意書きは、それだけで少し居心地が悪い。
子どものころ、学校の階段の踊り場に貼られていた「走らないで」の紙を思い出す。何かがあったから貼られたのだろうけど、何があったのかは誰も教えてくれない。知らないまま守らされる感じが、少し嫌だった。
スーパーは駅前の小さな店で、品揃えはあまりよくなかった。
牛乳、食パン、卵、カップ味噌汁、パックのサラダ。ついでにペットボトルの水と、すぐ食べられるおにぎりを二つ買った。レジ袋が指に食い込む感覚で、ようやく少しだけ現実に戻る。
マンションに着いたときには、空はもう薄く青を失っていた。
エントランスの自動灯が点き、昼より少しだけ掲示板のガラスが暗く見えた。
通り過ぎようとして、澪香はふと足を止める。
紙が、一枚増えていた。
さっきまでなかったはずの、右下の隅。
コピー用紙を半分に切ったくらいの小さな紙に、同じ書体でこう書かれている。
私物を廊下に置かないでください。
それだけなら、何もおかしくない。
ただ、澪香は両手のレジ袋を見下ろした。今、自分は確かに、荷物を持ったまま廊下へ上がろうとしている。もちろん、置くつもりなんてない。それでも、その一文だけが、たった今の自分に向けられたものみたいに見えて、妙に喉がつまった。
気のせいだ、と心の中で言ってみる。
まだ荷ほどきも終わっていないだけだ。知らない建物に、知らない人たち。神経が少し過敏になっている。
そう思いながらエレベーターのボタンを押すと、背後で誰かが小さく笑った気がした。
振り向いても、エントランスには誰もいなかった。
#創作大賞2026 #ホラー小説部門
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