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景色の途中で、物語になる|知らない人の赤い傘

登場人物

香澄
半年前に真由子が残していった赤い傘を、手放そうとしている。

真由子
以前、香澄と一緒に暮らしていた人。赤い傘の持ち手を青い糸で補修した。

見知らぬ女性
ブックカフェの傘立てから、赤い傘を持っていく。


雨は昼過ぎから降り始め、仕事を終える頃には、駅前の歩道を青黒く塗り替えていた。香澄は人の流れを避けながら、赤い傘の下をゆっくり歩いた。雨粒が布を叩く音は思っていたよりも低く、近くで誰かが指先を鳴らしているように聞こえた。

この傘を開いたのは半年ぶりだった。真由子が部屋を出たあと、洗面所から歯ブラシは消え、玄関の小さな皿には合鍵だけが残っていたのに、靴箱の脇の赤い傘はそのままだった。忘れたのか、置いていったのか、香澄には分からない。

連絡をすれば確かめられたのかもしれない。けれど、傘一本を口実に連絡するには、真由子の名前はまだ重すぎた。香澄は捨てることも使うこともできず、半年のあいだ、玄関を通るたびに赤い色を見ないふりをしてきた。

雨の日には透明傘を選び、晴れた日には靴箱の扉を少し強く閉めた。それでも、出かける前に赤い先端が視界へ入るたび、真由子がまだ何かを取りに戻ってくるような気がした。今日その傘を開いたのは、待つことをやめようと思えたからではなく、待っている自分をこれ以上見たくなかったからかもしれない。

駅から少し離れた場所に、ガラス張りのブックカフェがある。店先の傘立てには「雨の日にどうぞ」と小さく書かれた札が掛かり、急な雨に困った人が、誰かの置いた傘を持っていけるようになっていた。香澄はその前で傘を閉じ、水滴を二度払った。

黒い持ち手には、細い青色の糸が巻かれている。亀裂が入ったところを真由子が直した跡で、近くで見れば不器用な結び目まで残っていた。香澄はそこへ親指を置いたあと、ほかの透明傘や黒い傘の間に赤い傘を差し込んだ。

真由子は裁縫が得意だったわけではない。赤い傘に青い糸を選んだ理由も、香澄は聞いたことがなかった。ただ、きれいに隠そうとせず、壊れた場所が分かる色で巻かれた糸だけは、真由子らしいと思っていた。


店内へ入り、窓際の席で温かいコーヒーを頼んだ。手に取った本を開いても、同じ行を何度も目でなぞるだけで、言葉は頭に入ってこない。ガラスには店内の明かりと香澄の姿が重なり、その向こうに赤い傘が立っていた。

捨てたのではない。必要な誰かに渡しただけだ。そう考えると少しだけ正しいことをした気になれたが、誰にも触れられないまま閉店を迎えてほしいような気持ちも、まだ胸の隅に残っていた。

やがて、アイボリーのコートを着た女性が軒下へ駆け込んできた。短い黒髪の先から雨粒を落としながら傘立てを眺め、透明傘へ一度伸ばした手を止める。次にその手が選んだのは、赤い傘だった。

女性の指が、青い糸の上に重なる。赤い傘がほかの傘の間から抜かれた瞬間、香澄は椅子から立ち上がっていた。テーブルに置いた本も、まだ半分残っているコーヒーも、そのままだった。

椅子の脚が床を擦り、近くの客が一度だけ顔を上げた。香澄は自分が何をしようとしているのか答えられないまま、バッグさえ持たずに出口へ向かった。あの傘がなくなるところを見届けたかったのか、なくなる前に止めたかったのか、その違いもまだ分からなかった。


店を出たときには、女性は赤い傘を開き、住宅街へ続く道を歩き始めていた。香澄は傘を持たないまま、その後を追った。濡れた髪が頬に張りついても、足を止める理由にはならなかった。

返してほしいわけではないはずだった。自分で傘立てへ置き、誰かが持っていくことまで想像していた。それなのに、赤い傘が見知らぬ背中の上で揺れるたび、部屋から運び出されていく荷物を、もう一度見送っているような気がした。

「その傘は」と呼びかければ、女性はきっと振り向く。けれど、その先に続けられる言葉がなかった。私のものでも、返してくださいでもない言葉を探しているうちに、二人の距離は少しずつ開いていった。

女性が街灯の下を通るたび、赤い布は明るくなり、また夜の色へ沈んだ。香澄には、その色だけが半年分の時間を抱えたまま先へ進んでいるように見えた。足音を速めれば追いつけるのに、追いついたあとを考えると歩幅が狭くなった。


女性の黒いバッグから、白いものがこぼれ落ちた。歩道へ落ちたハンカチは、雨水を吸い込む前に香澄の手に拾い上げられた。四つ折りの端に小さな花の刺繍があり、まだ洗剤の匂いが残っている。

「すみません」

今度は声が出た。女性が足を止めて振り返り、香澄は息を整えながら近づいた。追いかけてきた理由を隠すように、拾ったハンカチを両手で差し出した。

「落としました」

「ありがとうございます。全然、気づきませんでした」

女性はハンカチを受け取ると、濡れている香澄の肩を見た。赤い傘を少しこちらへ傾け、入りますか、と尋ねるように首をかしげる。香澄は小さく首を振ったが、傘の縁から落ちる雨粒を見たまま、すぐには離れられなかった。


「この傘、あのお店で借りたんです」

香澄の視線をたどるように女性が言い、青い糸の巻かれた持ち手を握り直した。その結び目は女性の指の下へ隠れ、もう一度だけ現れた。

「雨の音がやさしいんです」

香澄は顔を上げた。赤い布を叩く雨音は、さっきまで聞いていたものと同じはずなのに、傘の外から聞くと少し遠かった。喉元まで上がってきた言葉を、呼吸と一緒に飲み込んだ。

青い糸の結び目が、女性の手の中でわずかに回った。真由子の指が最後にそこへ触れた日も、香澄は傘の音など聞いていなかった。いま初めて知ったことを、真由子に伝えたいのかどうかさえ、自分では分からなかった。

「よく似合っています」

女性は少し驚いた顔をしたあと、静かに頭を下げた。傘を返すとも、大切にするとも言わず、再び坂道を歩き始める。香澄は追わずに、その赤が雨の町の奥へ小さくなっていくのを見ていた。

店へ戻ると、窓際の席には開いたままの本と、冷めたコーヒーが残っていた。香澄は濡れた袖をハンカチ代わりに押さえ、さっきまで読めなかった一行をもう一度だけ眺めた。それでも内容は頭に入らず、本を閉じて席を立った。

外へ出る頃には雨がやみ、軒先から落ちる雫だけが路面に小さな輪を作っていた。傘立てには透明傘と黒い傘が残り、赤い傘があった場所だけが細く空いている。ガラスにも濡れた歩道にも、もう赤い色は映っていなかった。


香澄は空いた場所の前で一度立ち止まり、女性が消えた坂道とは反対の道へ向かった。ポケットに手を入れかけて、やめる。傘を持たない右手だけが、歩くたび、濡れた夜の中で小さく揺れていた。



※本記事のタイトル画および挿絵は、アキスケさんのイラストに着想を得て、ご本人の許可をいただいたうえで、生成AIを使用して制作しています。


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