神と猫 弐|掌編ねこ小説
はじめに
どこの土地にも、由緒を覚えている者のいない社がひとつはある。
文字の掠れた由緒書き、年々減る氏子、宮司しか知らない神の名。
タカマ様、と誰かが呼んでいた。
かつては近隣の実りを見守っていたはずだが、今では賽銭箱の増減に一喜一憂する日々を送っている。
境内には、いつからか一匹の名前のない猫が居着いている。
日当たりの良い場所を選んで眠り、タカマ様の言葉には大抵、片耳を動かす程度でしか応えない。
以下は、そんな二人の、特に何も起こらない日々の記録である。
新しい参拝者
小さな子どもが迷い込んできたのは、夕方だった。
手を合わせるでもなく、ただ猫を指さして言った。
「猫、しゃべった?」
子どもの目には、猫しか映っていない。
猫はあくびをした。
「しゃべってない」子どもは自分で結論づけた。「でも、なんか喋りそうな顔してる」
境内の奥で、タカマ様は無言だった。
数百年ぶりに、神としての沽券について考え込んでいた。
翌週、その子どもは友達を三人連れてやってきた。
「ここ、猫がしゃべる神社なんだって」
タカマ様は、賽銭箱のそばでひとつ、深く息を吐いた。
子どもたちは賽銭箱に小銭を入れ、猫の前でしばらく待った。
猫は何も喋らなかったが、みな満足そうな顔で帰っていった。
少し離れた場所から、タカマ様はその様子を見ていた。
猫は、片耳をひとつ動かしただけだった。
季節の変化
境内の欅が、一枚また一枚と葉を落としていた。
タカマ様は落ち葉の吹きだまりを眺め、ため息をついた。
「毎年、この時期になると思う。今年もまた一年経ったのだな、と」
猫は落ち葉の上を歩いていた。
かさ、と音がするたびに、耳がぴくりと動いた。
「お前には季節の移ろいというものが」
かさ、かさ。
猫は落ち葉を踏む感触そのものに夢中だった。
タカマ様は途中で言葉を止めた。
何百年経っても、この温度差だけは埋まらない。
数日後、猫がいつもの賽銭箱の縁から、少し東寄りの場所に移っているのに気づいた。
「気まぐれか」
タカマ様は特に気にせず、社に戻った。
さらに数日後、猫はまた少し位置をずらしていた。
欅の葉が減っていくにつれ、猫の寝床も少しずつ動いていた。
タカマ様は、その軌跡にふと気づいた。
葉が落ちて影の形が変わるたび、猫は寝床を移していたのだ。
「……お前なりに、季節を見ていたのか」
猫は答えず、新しい場所で丸くなった。
ただ、日向の中心からは、一寸もずれていなかった。
お供え物事件
賽銭箱の脇に、開けたばかりの猫缶が置かれていた。
タカマ様は目を細めた。
今日は十五日ではない。
祭りの日でもない。
だが、誰かが供えていったらしい。
猫はすでに気づいていた。
尻尾の先だけを動かしながら、猫缶とタカマ様を交互に見た。
「これは供物である」
猫は答えなかった。
前脚をひとつ、猫缶の方へ踏み出した。
「供物というのは、神への捧げ物である」
もう一歩。
「つまり、私のものだ」
猫が猫缶に顔を突っ込んだのは、タカマ様が「私の」まで言い終えた瞬間だった。
タカマ様は動かなかった。
長い神代の時間の中で、こういう展開には慣れていた。
缶の中身は半分になり、四分の一になり、やがて底にわずかに残るだけになった。
猫はそれも舐め尽くすと、賽銭箱の上に飛び乗り、香箱を作った。
タカマ様は空になった缶を見下ろした。
「一応、聞いておくが」
猫が薄目を開けた。
「美味かったか」
返事はなかった。
ただ、日が傾き始めた境内に、満足そうな喉の音だけが低く響いていた。
願い事の解釈違い
賽銭箱に、折りたたまれた紙が一枚落ちていた。
タカマ様が広げてみると、「猫といっしょにいられますように」と書かれていた。
「これは私への願いか、それとも」
猫を見る。
猫は紙の端をかじろうとしていた。
「お前への願いか、判断がつかない」
タカマ様は紙をそっと猫の頭上に翳してみた。
猫は興味なさそうに前脚で払いのけた。
「……お前宛てらしい」
タカマ様はその紙を賽銭箱の底にしまった。
誰の願いも、誰にも聞かれなかったことにはしなかった。
猫は、いつのまにか眠りに落ちていた。
紙のことなど、最初から知らなかったような顔で。
居眠り勝負
日向の縁側に、タカマ様と猫が並んで座っていた。
「どちらが長く眠っていられるか」
タカマ様が言い出したことだった。
猫はすでに目を閉じていた。
一刻が過ぎた。
タカマ様の瞼が、わずかに重くなる。
二刻が過ぎた。
タカマ様の頭が、こくりと傾いた。
参拝に来た夫婦が、境内の隅で眠っている猫を見つけた。
「なんだか、ここ落ち着くね」
夫婦はしばらくその光景を眺めてから、賽銭箱に小銭を入れて帰っていった。
タカマ様が目を覚ましたのは、日が沈みかけた頃だった。
隣で猫はまだ眠っている。
賽銭箱の中身が増えていることに、タカマ様は気づかなかった。
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