海とカイ|シロクマ文芸部
波の音が、きょうは少しだけ静かだった。
砂浜の端に、白いねこがうずくまっていた。
近づくと、ねこはゆっくりと顔を上げた。
濡れてもいないのに、どこか海の匂いがした。
具合が悪いのだと、見ればすぐにわかった。
私はそっと抱き上げた。
ねこは抵抗しなかった。
ただ、胸のあたりで小さく息をしていた。
家に連れて帰り、やわらかいタオルで包み、水を少し飲ませた。
しばらくすると、かすかに喉を鳴らす音が聞こえた。
その音が、波の音と同じリズムに思えた。
「海」と書いて、「カイ」。
その名前が、自然に浮かんだ。
そう呼ぶと、小さく尻尾が揺れた。
カイは、しばらくのあいだ、ほとんど眠って過ごした。
私はそのそばで、本を読み、ときどき窓から差し込む光を眺めていた。
静かな部屋に、カイの寝息だけが聞こえていた。
数日が過ぎるころ、カイは少しずつ元気を取り戻していった。
水を飲む量が増え、窓辺まで歩くようになった。
風の匂いを確かめるように、小さく鼻を動かしていた。
ある日、気づけば私の膝の上で丸くなって眠っていた。
そのぬくもりが、胸の奥の何かを、ゆっくりとほどいていくようだった。
やがて。
カイは家の中をゆっくり歩き回るようになった。
まだ小さな足取りだけれど、その一歩一歩には、「ここで生きる」という確かな意思が感じられた。
その姿を見ているうちに、いつの間にか、私も笑うことが増えていた。
朝、目が覚めると、カイが眠る場所へ自然と目が向く。
帰宅すると、真っ先に名前を呼んでいる。
夏の終わりの風が、そっと部屋を通り抜ける。
カイはその風に耳を澄ませ、静かに目を細めた。
窓の向こうでは、波が静かに寄せては返している。
私はカイの背中をそっと撫でる。
カイは目を細め、小さく喉を鳴らした。
波の音が、きょうは少しだけやわらかく聞こえた。
