見出し画像

なつのものがたり|シロクマ文芸部

夜店から、あの夏の記憶は始まった。

夕暮れになると、商店街には赤い提灯が灯った。

昼間は買い物をする人が歩く、いつもの道。

けれど土曜日の夜だけは、そこが少しだけ特別な場所になった。

鉄板の上で焼きそばが焼ける音。

甘いシロップがかかったかき氷。

金魚すくいの水面に揺れる小さな灯り。

ラムネの瓶を傾けるたび、涼やかに転がるビー玉の音。

浴衣を着た子どもたちは、小さなお金を握りしめながら夜店を歩いた。

何を買おうか迷う時間も、夏祭りの楽しみのひとつだった。

いつもより少しだけ遅くまで許された帰り道。

家へ向かう途中に見上げた夜空。

遠くで響く花火の音。

そんな土曜夜市の風景の端に、一匹の猫がいた。

茶色と白の毛をした茶トラ猫。

いつからそこにいるのか、はっきり覚えている人はいなかった。

ただ、夏になると、いつも同じ場所にいた。

古いベンチの横。

夜店の明かりが少し届かない場所。

いつからか、人々はその猫を「なつ」と呼ぶようになった。

夏の日にやって来た猫だったから。

それが名前の理由だった。

魚屋のおじさんは、店じまいの前になると、小さな魚を少しだけ分けてやった。

「今年も来たか」

そう言いながら、なつの頭を優しく撫でた。

駄菓子屋のおばあさんは、店先の椅子で休むなつを見ると笑った。

「あんたは、昔からちっとも変わらないねえ」

その言葉には、長い時間を一緒に過ごしてきた人だけが持つ、優しさがあった。

子どもたちは夜店へ来ると、まず猫を探した。

「あ、いた」

それだけで、なぜか少し嬉しくなった。

金魚すくいで取れなかった金魚の話。

初めて買ったりんご飴の味。

花火が始まるまでの待ち遠しい時間。

なつは、そんな小さな出来事のそばにいた。

何年も経つうちに、子どもたちは大人になった。

昔、夜店を走り回っていた少年は、自分の子どもの手を引いて商店街を歩くようになった。

「ここ、昔と変わらないね」

そう言って、父親になった彼は笑った。

その子どもは、古いベンチの横にいる猫を見つけた。

「お父さん、この猫、ずっといるの?」

彼は少し考えてから答えた。

「うん。お父さんが子どもの頃からいるよ」

その言葉を聞いた人たちは、少しだけ昔の夏を思い出した。

あの日、一緒に歩いた人。

もう会えなくなった人。

子どもの頃に見上げた夜空。

夏の夜店には、たくさんの時間が重なっていた。

けれど、町は少しずつ変わっていった。

店を閉める人もいた。

昔とは違う風景になる場所もあった。

それでも、土曜夜市の日になると、人は集まった。

昔と同じように提灯が灯り、屋台から匂いが流れ、子どもたちの声が響いた。

そして、夜店の端には、なつがいた。

ある年、商店街の人たちは話し合った。

準備をする人も少なくなり、昔のような賑わいも少しずつ遠くなっていた。

土曜夜市を続けることは、もう難しくなっていた。

けれど、最後の夜だからといって、特別なことはしなかった。

いつも通り夜店を開いた。

いつも通り笑った。

いつも通り、夏の夜を過ごした。

最後の花火が上がった。

空いっぱいに広がる光を、子どもも大人も静かに見上げた。

大きな花火大会のような華やかさはなかった。

けれど、その町で見る花火には、その町でしか見えないものがあった。

昔の自分。

隣で笑っていた誰か。

もう戻らない時間。

花火が消える。

夜空には、また静かな暗闇が戻った。

夜店の灯りも、少しずつ消えていった。

翌年、商店街に土曜夜市はなかった。

それでも夏になると、人々は時々そこへ集まった。

昔話をするために。

「あの頃は楽しかったね」

そう言いながら笑うために。

夕暮れの商店街の端には、一匹の猫が座っていた。

赤い提灯もない。

屋台の音もない。

それでも、その場所には夏の匂いが残っていた。

焼きそばの匂い。

ラムネの音。

子どもたちの笑い声。

そして、花火の光。

人々は夏が来るたびに思い出した。

夜店から始まった、あの時間を。

あの夏には、いつもなつがいた。


いいなと思ったら応援しよう!