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S1第3回 デクノボウのiとは何か(7/1改稿)

完成された「私」ではなく 世界によって少しずつ向きを変えられる主体として生きる

第1回では、宮沢賢治を、世界の感じ方そのものを変えてしまう人として考えました。
第2回では、その感受性を「未完成な自由」という言葉で考えました。

未完成な自由とは、何も決めないことではありません。暫定的に決め、実行する。結果を引き受け、必要なら批判を受け、修正し、また始める。完成された正解に自分を閉じ込めず、他者や世界との関係の中で、変わりうる余白を失わないことです。

では、そのような自由を生きる主体とは、どのような存在でしょうか。

私は、宮沢賢治の〔雨ニモマケズ〕に出てくる「デクノボー」という言葉に、その手がかりがあると思います。そして、そのデクノボーを考えるための、小さな記号として、小文字の i を置きたいと思います。

ここでいう i は、数学によって自由を証明するという意味ではありません。また、現実から逃げるための記号でもありません。

自分の位置を少しずらし、他者や世界に見返されることで、自分の見方を回転させるための、小さな記号です。

1 デクノボーは 無能でも聖人でもない

〔雨ニモマケズ〕の終わり近くに、よく知られた言葉があります。

ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ 
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

〔雨ニモマケズ〕

この言葉は、しばしば「自己犠牲」や「無私」の象徴として読まれてきました。たしかに、そこには他者の苦しみに応答しようとする、強い倫理があります。

病気の子どもがいれば看病に行き、疲れた母がいれば稲の束を負う。死にそうな人がいれば恐れなくてもよいと声をかけ、けんかや訴訟があれば、つまらないからやめろと言う。

しかし、この詩を「自分を消して、ひたすら他人に尽くす人の理想」として読むだけでは、不十分です。その読み方では、デクノボーは、現実にはなれない聖人になります。読む側は、「自分には無理だ」と感じるか、「立派な人もいる」と距離を取るしかなくなります。

けれど、賢治の言葉が迫っているのは、誰もが聖人になることではないはずです。むしろ、自分の予定、損得、評価、安心だけでは動けなくなってしまう経験です。

東に病気の子どもがいて、その事実に触れたとき、自分が向かう方向が変わる。西に疲れた母がいて、その姿に触れたとき、自分の時間の使い方が変わる。南に死にそうな人がいて、その究極に触れたとき、何もできない自分に気づく。北に争いがあり、その不和に触れたとき、黙って通り過ぎることができなくなる。

デクノボーとは、自分を消す人ではありません。他者の苦しみや、世界の不調に触れたとき、自分の立場を固定したままではいられなくなる人です。

それでも、他者を完全に理解したつもりにはならない。その人の痛みを、自分の言葉だけで説明し切ることもしない。分からなさを残したまま、それでも応答しようとする

私は、そこにデクノボーの強さがあると思います。

2 小文字のiは 「本当の私」ではない

なぜ、デクノボーに i という記号を重ねるのでしょうか。

英語の大文字の I は、「私」を表します。私は考え、私は選び、私は決め、私は所有し、私は成功する。

この I は、近代社会の中で大切な役割を果たしてきました。権利を持つこと、責任を持つこと、意見を述べること、差別や支配に抗うこと。

これらは、「私」が弱くてよいという考えだけでは守れません。だから、デクノボウのiは、近代的な I を否定するものではありません

自分の名前で判断し、自分の行為に責任を持ち、自分の立場を表明することは必要です。けれど、AI/DX時代には、この I が、別の形で扱われやすくなっています。

検索履歴、購買履歴、移動履歴、発言、関心、信用、能力、影響力。私たちの行動は、数値として記録され、プロフィールとして整理され、予測可能な傾向として扱われていく。

そのとき、「私」は、少しずつ測定可能な情報の束へ変わっていきます。

何を好む人か、何を買う人か、何に反応する人か、何を支持する人か、どの程度の価値を生む人か。けれど、人間は、そのようなプロフィールだけではありません。

予測できないためらいがあり、言葉にならない違和感があります。数字にしにくい痛みがあり、まだ自分でも分からない願いがあります。他者に触れたとき、突然変わってしまう向きがあります。

ここでいう小文字の i は、その「見えない本質」を指すのではありません。i は、心の奥に隠れている純粋な本当の自分でもありません。むしろ、自分が今いる位置を、少しずらすための記号です。

自分の考えを持ちながら、それが何によって形づくられているのかを問い直す。他者や自然や土地からの働きかけによって、必要なら見方を変える。

その小さなずれ、その小さな回転を、私は i と呼びたいのです。

3 iは 他者になりきることではない

ここで、ひとつ大切な注意があります。

i は、他者の立場に完全になりきることではありません。鳥の気持ちを完全に理解することでもありません。熊の側に立って、熊の世界を語り切ることでもありません。農民の苦労を、自分の言葉だけで代弁することでもありません。死者の思いを、現在を生きる人が自由に決めてしまうことでもありません。

第1回で書いたように、賢治の共感は、「分かったつもり」になることではありません。自分とは異なる存在に見返され、自分の見方が揺らいでしまうことです。

他者の世界は、私の理解の中にすべて収まりません。自然の世界も、人間の都合だけでは語れません。土地の記憶も、現在を生きる私たちが自由に使える所有物ではありません。

だから、i は、他者を自分の側へ取り込む記号ではありません。むしろ、他者を理解し切れないまま、自分の見方を変えざるを得なくなる記号です。

たとえば、川を見ます。そこに水量、流速、水質、災害リスク、観光資源という情報を見ることは大切です。しかし、川をそれだけで見終えてしまうと、川は管理対象になります。

賢治を読むと、川は、ただ測定されるものではなくなります。光を反射し、音を返し、生き物を育て、人の記憶を抱え、ときに、人間の計画をくつがえすものになる。そのとき、私たちが川の本当の姿を完全に理解したわけではありません。むしろ逆です。

川を理解したつもりだった自分の見方が、不十分だったことに気づく。i は、そのような気づきの後に生まれる、小さな回転です。

賢治にとっての北上川も、イギリス海岸であり、修羅の渚であり、課外授業の場でもありました。

4 〔雨ニモマケズ〕にある 向きの変化

〔雨ニモマケズ〕は、強い身体の理想から始まります。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ

〔雨ニモマケズ〕

しかし、ここでいう「負けない」は、強者になることではないと思います。世界を支配することでもありません。傷つかない身体を持つことでもありません。

むしろ、世界に触れられても、他者の苦しみに触れられても、完全には閉じてしまわないことです。

病気の子どもに触れ、疲れた母に触れ、死にそうな人に触れ、争う人々に触れる。そのたびに、自分の向きが変わる。

もし、デクノボーが、最初から完全に善い人なら、そこには変化がありません。最初から正解を知っていて、正しい行動を選ぶだけなら、それは完成された道徳です。しかし、賢治が描こうとしているのは、もっと不安定な存在ではないでしょうか。

誰かの苦しみを前にして、予定どおりに生きられなくなる。損得の計算だけでは動けなくなる。見過ごしていたものが、見過ごせなくなる。

それは、効率的な行動ではないかもしれません。評価される行動でもないかもしれません。けれど、その回り道やためらいの中に、人間が人間であるための感受性が残っています。

デクノボーは、正解を持つ人ではありません。世界からの呼びかけに触れたとき少しずつ向きを変えながら、それでも行為へ向かう人です。

5 「わたくしといふ現象」は 固定された私ではない

『春と修羅』序には、「わたくしといふ現象」という印象的な言葉があります。

賢治は、「私」を硬い中心として置きません。「私が世界を見る」とだけ書かない。「私」そのものが、風景、光、空気、歴史、他者、宇宙との関係の中で、明滅する現象として置かれます。

これは、私が存在しないという意味ではありません。責任を持つべき人間がいないという意味でもありません。むしろ、私たちは、自分一人で自分になっているわけではないということです。

家族、学校、職場、地域、市場、制度、メディア、アルゴリズム、自然、土地、死者、未来の世代。私たちは、こうした無数の関係の中で、自分の考え方や感覚を形づくられています。

だから、未完成な自由は、「私は私だ」と言い張ることだけではありません。

自分が何によって形づくられているかを考えることです。自分がどのような前提の上に立っているのかを確かめることです。そして、その前提が他者を傷つけていたり、世界の一部を見えなくしていたりするなら、必要に応じて変えていくことです。

「わたくしといふ現象」は、受け身の人間像ではありません。自分が関係の中で生まれていることを知りながら、そこからどう生きるかを選び直す主体像です。

デクノボウのiは、その「私」を、完成された中心ではなく、関係の中で向きを変えられる存在として捉えます。


「デクノボウのi――世界に見返され、向きを変える主体」

6 反最適化とは 技術を拒否することではない

デクノボーは、現代の社会から見れば、少し不器用に見えるかもしれません。

ほめられない、評価されない、利益を最大化しない、自分を売り込まない、効率よく行動しない、怒りを増幅させない。

現代的に言えば、自己ブランディングに向いていない人かもしれません。SNSで注目を集めることにも、必ずしも長けていないかもしれません。けれど、だからこそ重要なのです。

AI/DX社会は、多くのことを最適化します。生産性、費用対効果、反応率、滞在時間、回遊率、満足度、予測精度、成約率。こうした指標は必要です。

農業でも、行政でも、医療でも、教育でも、防災でも、データや予測が人を助ける場面は数多くあります。だから、反最適化とは、効率や技術に反対することではありません。

問題は、何を最適化するのかです。誰が目的を決めるのか、誰のデータを使うのか、誰の負担が見えなくなるのか、誰の経験が評価の外へ押し出されるのか。そして、異議が出たとき、誰が立ち止まり、問い直し、修正できるのか。

デクノボウのiは、最適化を壊す人ではありません。最適化が見落とすものに気づこうとする人です。

数字になりにくい悲しみ、言葉にしにくい沈黙、土地に積もった記憶、死者との関係、声の小さい人の違和感、誰にもほめられないが誰かの生活を支えている行為。そうしたものを、単なるノイズとして切り捨てない。そのために、自分の見方を少し回転させる。

そこに、デクノボウのiの反最適化があります。

7 ジョバンニは 他者を理解し切らない

『銀河鉄道の夜』のジョバンニも、デクノボウのiを考えるための大切な補助線になります。

ジョバンニは、社会の中心にいる少年ではありません。貧しく、孤独で、母への心配がある。友人との距離があり、からかわれる痛みがある。

けれど、その孤独な少年が、銀河を旅する中で、「ほんとうのさいわい」という問いに触れていきます。

ここで重要なのは、ジョバンニが、他者の幸福を完全に理解する人になるわけではないことです。カムパネルラの選択も、死者たちの経験も、ジョバンニが自分の言葉だけで説明し切ることはできません。むしろ、理解し切れない他者との出会いによって、ジョバンニ自身の見方が揺らいでいく

自分だけが幸福になることでは足りない。けれど、他者の幸福を自分が決めることもできない。では、どう生きればよいのか。

この問いは、簡単には解けません。

だからこそ、ジョバンニは、答えを持つ英雄ではありません。分からないまま、他者の存在によって自分の生き方を問い直される主体です。

デクノボウのiも同じです。他者の世界を所有しないし、他者を理解したつもりにならない。しかし、他者の存在から目をそらさない。

分からなさを残したまま、それでも自分の向きを変え、次の行為へ進もうとする。

そこに、未完成な自由の苦しさと希望があります。

8 『星めぐりの歌』と 身体で世界の向きを知ること

「デクノボウのi」を考えるとき、私は『星めぐりの歌』も思い出します。

星を見上げ、方角を感じ、歌い、歩き、季節を覚える。

そこにあるのは、抽象的な宇宙ではありません。身体で受け取られる宇宙です。

人は、地図やデータや数式だけで、世界の中の位置を知るわけではありません。

夕方の光で季節を感じ、風の匂いで雨を感じる。山の輪郭で方角を知り、川の音で水の増え方を知る。土地のことばで、そこに積み重なった時間を知る。

こうした経験は、科学やデータと対立するものではありません。むしろ、データや技術を何のために使うのかを考えるための土台になります。

AIが地域の観光動向を分析することはできるでしょう。しかし、朝の通学路に立つ子どもの不安や、観光客の増加によって変わる住民の生活や、農地に立つ人の身体的な感覚まで、数値だけで十分に受け取ることはできません。

だから、デクノボウのiは、身体を持った主体です。

星を見上げ、土地を歩く。人の声を聞き、沈黙に気づく。技術を使い、必要なら判断を変える。

この身体的な感受性を失わないことが、AI/DX時代において、ますます重要になると思います。

9 デクノボウのiは 周辺の人だけに求めるものではない

デクノボーは、社会の中心に立つ英雄ではありません。評価されにくい、見過ごされやすい、声にならないものに反応してしまう。

その意味で、デクノボーには「周辺性」があります。

中心からは見えないものを見、制度の内側からは聞こえない声を聞き、効率化の中で切り捨てられるものに気づく。

この周辺性は大切です。しかし、ここには注意が必要です。

社会の周辺に置かれた人、弱い立場に置かれた人、すでに苦しんでいる人だけに、「デクノボーになれ」「皆のために尽くせ」と求めてはいけません。

それは、新しい自己犠牲の強制になります。デクノボウのiは、弱い人にだけ求める倫理ではありません。むしろ、権限を持つ人、情報を持つ人、資源を持つ人、意思決定に関わる人こそ、自分が見落としているものに向き合う必要があります。

行政に関わる人、企業に関わる人、学校に関わる人、地域の古くからの住民、新しく来た人、発信力を持つ人、AIをつくる人、そして使う人。それぞれが、自分の位置を少しずらし、他者からの異議を受け取り、必要なら判断を修正する。

デクノボウのiは、そうした共同の姿勢を表す記号です。

10 デクノボウのiの定義

ここで、今回の定義をまとめます。

デクノボウのiとは、完成された英雄ではありません。測定・評価・最適化される社会の中で自分の立場を絶対化せず、他者や世界との出会いによって、自分の見方を少しずつ変えられる未完成な主体です。

それは、正解を持っている主体ではありません。自己犠牲だけを引き受ける主体でもありません。何も決めずに流される主体でもありません。

デクノボウのiは、判断し、行為し、責任を引き受けますけれど、決めたことを絶対化しません。誤りや損害が見つかれば問い直し、批判があれば耳をすまし、他者の自由が損なわれていないかを確かめ、必要なら自分の向きを変えます。

だから、デクノボウのiは、AI/DX時代に必要な主体の小さな模型になります。

AIが答えを返すとき、その答えを自動的に採用しない。DXが手続きを整えるとき、その仕組みが誰を見えなくしているかを問う。SNSが反応を増幅するとき、反応の大きさだけを価値にしない。技術を使いながら、技術の目的や評価を問い直す。

その小さな回転を失わないこと、それがデクノボウのiです。

結び デクノボーになるとは 世界に勝つことではない

〔雨ニモマケズ〕は、「負けない」から始まります。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

〔雨ニモマケズ〕

しかし、ここでいう「負けない」とは、世界に勝つことではありません。強者になることでも、自分を硬く守ることでもありません。

世界に触れられても完全に閉じてしまわないこと、他者の苦しみに動かされても逃げないこと、評価されなくても必要なことを見失わないこと、批判を受けても関係をすぐに断ち切らないこと、未完成のままなお応答し続けること。

それが、賢治の「負けない」なのだと思います。

デクノボーとは、世界に勝つ人ではありません。世界の苦しみや、他者の存在によって、自分を変えられてしまう人です。そして、変えられながらも、次の行為へ向かう人です。

だから私は、もう一度こう言いたいと思います。

i は、2乗するとマイナス1になる、数学的な虚数単位に収まりません。それは、修羅性を抱えたデクノボウの主体です。

賢治は、『春と修羅』で書きました。

四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする 
おれはひとりの修羅なのだ

『春と修羅』

修羅であるとは、完成されていないことです。怒りも、迷いも、苦しみもある。それでも、世界との関係を断ち切らずに生きようとすることです。

AI/DX時代に必要なのは、完成された人間になることではありません。AIやデータを使いながら、自分の見方を閉じないことです。他者や自然や土地に触れ、自分の位置を少しずつ変えながら、問いを開き続けることです。

その小さく、不器用で、しかし閉じない主体を、私はデクノボウのiと呼びたいのです。

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