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滅びゆく光のレクイエム——杉本博司が銀塩写真に捧げた幽玄の舞台 東京国立近代美術館 「杉本博司 絶滅写真」

暗がりの中に歩みを進めると、まず目に入ってくるのは、どこか居心地の悪い饒舌さだった。
東京国立近代美術館で開催された杉本博司の個展「絶滅写真」は、かつて世界を記録し、記憶を留める絶対的な手段であった「銀塩写真」という技術の終焉を見届ける野心的な試みだ。半世紀にわたり暗室の銀粒子と対峙してきた作家は、自らの代表作を年代順に並べた回顧録を作るのではなく、展示空間そのものを、亡霊を呼び出して弔う日本の伝統芸能の能の舞台へと仕立て上げた。
それは、世阿弥が説いた劇的構造「序・破・急」——静かな導入から劇的な変容を経て、静寂の昇華へと至るリズム——をそのまま空間に翻訳した、光と時間による壮大な鎮魂劇である。

第一幕:序——「時間・光・記憶」 前シテの長い独白。光と水の中へ消えてゆくもの。
展示の幕開けとなる〈ジオラマ〉は、アメリカ自然史博物館の剥製をまるで生きた野生動物のように克明に捉えた写真群だ。カメラが捉えた漆黒と銀の階調は、偽物の風景を本物以上の生々しさで立ち上がらせる。しかし、そこで鑑賞者を迎えるのは写真以上に、現代文明の欺瞞や人間の愚行を冷ややかに笑う作家自身による説明文や和歌だ。
この説明過多なプロローグにおいて、薄暗い展示室へ迷い込んだ鑑賞者は能における「ワキ(旅の僧)」の役を担わされる。異界の入り口で旅人の前に現れ、身元を隠したまま土地の記憶や昔語りを始める「前シテ」のように、杉本はあえて陳腐な文明批判や軽薄なアイロニーを弄して私たちに語りかける。
完璧な技術で焼き付けられた偽物の生と、意図的に軽薄さを装う過剰な言葉。その二重の虚構の前に立たされた鑑賞者は、「自分はいま何を見せられているのか」という強い居心地の悪さを抱くことになる。だが、それこそが杉本の仕掛けだ。
一通り話し終えた「前シテ」がそっと姿を消していくように、次の展示に進むと言葉は次第に影を潜め、物の具体的な輪郭は解体され、日常の境界が崩れ去る変容の場へと誘われていく。

映画館で上映1本分の光を露光し尽くした〈劇場〉では、スクリーンに映された1本の映画の物語が純白の光の矩形へと還元される。無数のセリフも劇的な展開も、すべてが光の沈黙のなかへ焼き込まれていく。
続く〈華厳の滝〉では轟く水音さえも優しくほどかれていき、〈海景〉において、私たちが暮らす現代社会の風景は古代から変わらぬ水と大気の水平線だけに還元される。
旅の僧が微睡みのうちに夢幻へと誘われていくように、私たちの知覚からも言葉がこぼれ落ち、音はあわいの中に消え去り、世界の輪郭はただ静かに溶けていく。

第二幕:破——「観念の形」  デ・キリコのマネキンから、ユーゲニズムの余白へ。
モダニズム建築の焦点を無限の倍数へと意図的に外した〈建築〉。
三次関数の冷徹で美しい曲面の数理模型と、彫刻的なハイファッションを纏ったマネキンが対峙する〈スタイライズド・スカルプチャー〉。
デ・キリコの形而上絵画に迷い込んだかのような静けさの中で、私たちは建築や衣装に込められた概念の、より純粋な部分に出会う。

かつて画家の岡田謙三が、戦後ニューヨークの抽象表現主義の渦中で自らのルーツを見つめ直し、静謐な余白と繊細な色層によって「ユーゲニズム」と呼ばれる独自の抽象を切り拓いたように、杉本もまた、同じ異郷の地で近代の遺産と向き合いながら、建築や衣服という具象の表層を光と影のなかに削ぎ落とし、その奥に潜む抽象的な真実の骨格を取り出していく。

深い微睡みへと沈む旅の僧の視界から、やがて地上の輪郭がことごとく薄れてゆく。
その一方で、内なる意識は来るべき後シテの登場に向けて研ぎ澄まされていく。


第三幕:急——「絶滅写真」水鏡に揺れる面影、銀塩に宿る永遠。

夢幻の奥から、ついに亡霊が姿を現す。
ダイアナ妃、昭和天皇、ヘンリー8世、かつて歴史に名を刻み、いまは亡き人々が等身大のモノクロームとなって闇の中に佇む〈肖像〉シリーズだ。
写っているのは生身の人間ではない。蝋人形館で時を止められた精巧な作り物だ。しかしカメラの光と銀の粒子によって焼き付けられたその姿は、本物の人間のような濃密な気配を漂わせ、静かに鑑賞者を見据えている。
この光景は、能の名作『井筒』のクライマックスと美しく重なり合う。
『井筒』の後シテである女は、亡き夫・在原業平の形見の衣装をまとい、井戸の水を覗き込む。水鏡に映るのは自分自身の姿にすぎない。しかし女はそこに愛しい夫の面影を見出し、深い追憶の中で舞う。水という儚い鏡を通して愛する心を通わせるのだ。
杉本が蝋人形を写す行為も、まさにこの水鏡を覗き込む様子に似ている。
蝋人形は、あくまで死者の面影をまとった作り物にすぎない。だが、作家がレンズを通して光と影を定着させた瞬間、作り物の姿は消え去り、人々が胸の奥に留めてきたその人物の面影そのものが立ち現れる。
水鏡に揺れる影に命を宿す『井筒』と、蝋人形の虚像から不滅の魂を写し取る杉本の写真。
どちらも失われた存在を、井戸の枠および写真のフレームの枠を通して、いまここに呼び寄せる哀切な鎮魂の試みだ。
銀塩写真という滅びゆく光の器に、死者たちの時間は永遠に留められ、旅の僧は幻と現実のあわいに立ち尽くすことになる。

能の舞台が終曲へ向かうとき、現世への執着を解かれた亡霊は、美しい舞を経て静かに成仏へと向かう。この写真の鎮魂劇において、その劇的な転換点となるのが〈放電場〉だ。
暗室の中で銀塩フィルムに高圧電流を走らせたその閃光は、大地を裂く稲妻のように展示室を貫く。それは銀塩写真の最期の叫びであり、同時に亡霊の魂を洗い清める儀式でもある。この雷鳴のような衝撃を経て、展示空間は劇的な変容を遂げる。モノクロームの静寂に包まれていた世界に、ここで初めて息をのむような色彩とデジタル技術が溢れ出す。
杉本が新たにデジタル技術と対峙して生み出した〈Optics〉の作品。
プリズムによって分光された太陽光のグラデーションは、これまでの重厚なモノクロの世界とは対照的に、驚くほど鮮やかに空間を満たす。それは過去と未来、あの世とこの世、そして夢とうつつのあわいに架かる虹の橋のようだ。滅びゆく運命を受け入れた銀塩写真の魂は、この鮮やかな色彩の中で解き放たれ、静かに浄化されていく。
そして夢の終わり、鑑賞者を迎えるのは〈陰翳礼讃〉の、漆黒の闇の中に一本だけ静かに燃える蝋燭の灯りである。
それは、銀塩写真という偉大な技術の終焉に捧げられた静かな弔いの火である。
この祈りの空間の先にひとつの風変わりな眼鏡が置かれている。シャッター機能と超広角レンズを組み込んだその眼鏡〈Cameraman〉は、杉本自身の自画像そのものだ。それは、たとえ見つめる先が地獄であったとしても、その果てにある新たな光景と魂の救いがあることを固く信じているかのように、静かに安置されている。

杉本博司が銀塩写真の終焉を能の構造で演出しきったのは、技術の死を単なる過去の記録として片付けるのではなく、消えゆく技術の魂を呼び出して対話し、美しく彼岸へと見送るための最も誠実な作法だったからに他ならない。それは過去への感傷ではなく、一つの時代を弔い切ることでしか開かれない新たな視覚へと歩みを進めるための、覚悟に満ちた儀式である。

暗室の銀粒子が役目を終え、写真がデジタルの光へと姿を変えようとも、人間が光と影を手がかりに世界の真実を捉えようとする意志は途切れない。夢から覚めた旅の僧と同じく暗闇の展示室を抜けた私たちの眼には、彼が遺した蝋燭の火と眼鏡のレンズのように、どれほど過酷な時代であっても世界の姿から目を逸らさず、次の光景を捉え直すための確かな視座が残されているのだ。

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