梅酒_生き物のように成長するアルコール
息子が成人したら
20年物の梅酒を飲ませたかった
私は、見た目に反して酒がほとんど飲めない。 ビールも小ジョッキの半分も含めば、待っているのは陶酔ではなく、容赦のない頭痛である。父も弟も、さらには息子までもが酒豪だというのに、私だけが「酒の楽しさ」では蚊帳の外である。
若かりし頃、この体質のせいで随分と悩まされた。学生時代、世間は「一気飲み」という危険な飲み方がブームになり、社会に出れば「本音は酒の席で聞くものだ」という暗黙のルールに縛られていた。
酒の力で気が大きくなる同輩を羨み、ちょっと柔らかい表情で高説を垂れる先輩たちが、ひどく大人に見えた。私はといえば、注がれるグラスに緊張し、無理をしては喉を腫らし、翌朝の頭痛に顔をしかめる。酔ったふりして話していたら、「ちゃんと飲んで本音で話せ」と怒鳴られたり。そんな日々の繰り返しだった。
特にシフト勤務の時代は、逃げ場がなかった。同じ寮に住む仲間たちとの「飲み」は日常であり、最後のシフトの者が車を出して送り届けるのが暗黙の了解。良き先輩たちに囲まれている自覚はあっても、アルコールという存在が、本来楽しいはずの空間をどこか苦いものに変えていた。
転機は、ある不名誉なニュースからもたらされた。会社全体に「しばらくの間、飲酒を伴う場への出入り自粛」の通達が出たのだ。それは、私にとって救いの船だった。
自粛が解禁されたとき、私は「これからは、私が皆様を寮まで送ります」
思い切って宣言した。すると、職場の人々は快く受け入れてくれた。彼らもまた、飲めない私を気遣うことに、密かな疲れを感じていたのかもしれない。それからの私は、飲み屋でソフトドリンクを堂々と注文し、宴の終わりには皆を車に乗せて送り届ける「専任ドライバー」になった。感謝され、重宝される。
アメリカ駐在時代には、オフィスへの来客や出張者の案内を一手に引き受けた。特にワイナリーツアーなどは、ドライバーがいればこそ全員が楽しめる。私は重宝され、感謝された。アルコールはいつしか、私にとって「飲むもの」ではなく、誰かに「楽しんでもらうための道具」へと変わっていった。
そんな私の頑なな態度を軟化させたのは、かつて「典型的な昔の親分肌タイプ」だと思い込んでいた、ある部長の懐の深さだった。
開口一番「君、酒は?」という問いに、「飲めません、飲みません」と少し尖った口調で返した私を、彼は自宅に招いてくれた。そこで出されたのは、結婚記念に漬けたという「三十年物の梅酒」だった。 恐る恐る舐めてみて、衝撃が走った。それは私が知るアルコールの棘(とげ)など微塵もない、とろけるような、まろやかな時間の結晶だった。古くなるほどに深くなる味わい。酒は、ただ酔うための道具ではなく、時間と共に成長し、当時の記憶を呼び起こすものなのだと知った。
それから数年後。我が家も社宅を出てマンションに引越した。記念に、私も梅酒を漬け始めた。翌年、息子が生まれたときには、より大きな瓶を用意した。夫婦ともに酒を嗜まないからこそ、この琥珀色の液体を、二十年の歳月とともに静かに眠らせておくことができる。
息子が成人した夜、その二十年物の蓋を開けた。 一口飲んで感激した息子は、お気に入りのラジオ番組に「父が漬けた二十年物の梅酒で祝杯をあげた」と投稿したという。
スピーカーから流れてきた彼の「推し」であるパーソナリティの「お父さん、すごい!」という弾んだ声。それを隣で聞きながら、少しだけ誇らしげで、どこか嫉妬混じりの息子の横顔を眺める。
今、我が家にはさらに熟成を続ける琥珀色の梅酒がある。あの時、部長が出してくれた三十年目の円熟した味わいに似た風格を身に纏いながら。 それは、かつての苦い記憶を、まろやかに熟成させてくれる、息子の成長の記録でもある。
