呪われた愛の鎮魂歌───millennium parade「FAMILIA」が伝えたい家族の形
「愛を知ってしまった」という言葉は、呪いに近い。
喜びではなく、代償として語られる。
それがこの曲の、最初に気づくべき異常さだと思う。
はじめに、この曲を作った人たちの話をしたい。
millennium paradeは、King Gnuのギター・ボーカルである常田大希が主宰する音楽プロジェクトだ。
2019年に本格始動し、自身のクリエイティブチームPERIMETRONを核に、ミュージシャン、映像ディレクター、CGクリエイター、デザイナーなど、ジャンルを超えた表現者たちを巻き込みながら活動している。
King Gnuとの違いについて、よく聞かれることがある。
King Gnuが「メジャーで届けるための音楽」だとするなら、millennium paradeは「常田が本当に作りたい音楽」の場所だ、と私は思っている。
ロック、ジャズ、ヒップホップ、エレクトロニック、クラシックが混在する音楽性は、ジャンルで括ることを拒否している。
“世界から見た東京の音”というコンセプトを掲げ、2021年にリリースされた1stアルバム『THE MILLENNIUM PARADE』は、その集大成として発表された。
そのアルバムを締め括る楽曲として生まれたのが、「FAMILIA」だ。
「FAMILIA」は、映画『ヤクザと家族 The Family』の主題歌として書き下ろされた楽曲だ。
社会の外側に生きた男の一生を音楽で肯定するために作られた、レクイエムである。
ボーカルを担当したのは、King Gnuの井口理。
millennium paradeへの初参加であり、常田にとって「日本語の曲を作ったとき、呼ぶのはさとるしかいない」という確信があった。
東京藝術大学声楽科を卒業した井口の歌声は、この曲が必要としていたものを、過不足なく持っていた。
曲の冒頭から、主人公の論理は明快だ。
自分の命は、あなたの幸せに釣り合わない。
それでも、ただ傍にいたかった。
道半ばで果てても、思い遺すことはない。
この潔さは、強さではないと思う。
むしろ逆で、すでに諦めているのに、それでも愛を手放せない人間の弱さだ。
常田が書く言葉は、いつもそこにある。
美しく整えられた自己犠牲ではなく、みっともなくて泥臭い、人間の真ん中にある感情を。
歌詞の中には、泡と石の粒という比喩が出てくる。
意味もなく生まれては弾けていく泡、波に削られながら海岸に打ち上げられる無数の石。
生まれも育ちも、この世界の仕組みも、全部狂っている。俺もお前も結局。
この部分が、この曲の核心に近いと思っている。
ヤクザとして生きた主人公は、狂った世界の中でそれでも愛を見つけてしまった。
愛を知ってしまったことは、祝福ではなく、呪縛だった。
引き返せない地点まで進んだ後で初めて、その代償の重さに気づく。
だが曲は、そこで後悔しない。
「後悔なんて無意味だ、あなたの瞳が輝いてる今が奇跡だ」という言葉は、自分の人生の意味を、あなたの幸せに完全に委ねた人間の、一種の開き直りだ。
でもその開き直りの中に、人間賛歌がある。
誰かを愛するという、愚かで儚い行為を、全力で肯定している。
そして最も残酷な一行が来る。
「此の期に及んで尚、生きたいと泣いてた」。
死を覚悟しながら、それでも生きたいと泣く。
この矛盾を、常田は消さなかった。
一つの感情だけで動く人間など、存在しないから。
常田は井口に言ったという。
「俺の葬式では、この曲を歌ってくれ」と。
この一言を知ってから、この曲の聴こえ方が変わった。
これはもはや映画の主題歌ではなく、常田大希という人間が自分自身の死に備えて作った曲だと思えてきたから。
走馬灯に映る全ての記憶が、あなたで埋め尽くされたなら。
もう思い遺すことは無い。
誰かのために生き、誰かのために死んでいった命を、音楽だけが鎮め、讃えることができる。
「FAMILIA」は、そういう曲だと思っている。
