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艦艇から学ぶ歴史 #001 ビスマルク──最強の戦艦は、なぜ時代の墓標になったのか

はじめに

戦艦ビスマルク。

「世界最強クラスの戦艦」「フッドを一撃で沈めた恐るべき艦」——調べる前の私のイメージは、その程度のものでした。強すぎたから、みんなで束になって沈めるしかなかった。そんな英雄譚として。

ところが調べてみて、最も驚いたのはここでした。

ビスマルクが実戦に出ていた期間は、わずか9日間だった。

そしてその9日間の最後、この最強クラスの戦艦の運命を決めたのは、時速200キロそこそこで飛ぶ、布張りの旧式複葉機でした。当時の戦闘機の半分以下の速度しか出ない、いわば「時代遅れの飛行機」です。

なぜそんなことが起きたのか。なぜドイツは、禁じられていたはずの巨大戦艦を造れたのか。そしてビスマルクの9日間は、何を終わらせたのか。

この記事では、ビスマルクという一隻の戦艦を入口に、第一次世界大戦後のヨーロッパから戦艦時代の終焉まで、その因果関係をたどっていきます。
この記事では「最強の戦艦」としてのビスマルクではなく、「一つの時代を象徴した戦艦」としてのビスマルクを見ていきます。

すべての始まり──禁じられた海軍

物語は、ビスマルクが生まれる17年も前にさかのぼります。

1919年、第一次世界大戦に敗れたドイツに、ヴェルサイユ条約が突きつけられました。海軍に関する条件は苛烈なものでした。

保有できる戦艦は1万トン以下。潜水艦の保有は禁止。艦艇の数にも厳格な上限。かつて世界2位の規模を誇ったドイツ海軍は、事実上の骨抜きにされたのです。

このとき、イギリスの脳裏には強烈な記憶が刻まれていました。第一次世界大戦前、ドイツの提督ティルピッツとイギリスの提督フィッシャーが繰り広げた建艦競争です(このドレッドノートをめぐる攻防は、当シリーズの別記事で詳しく書きました)。「ドイツが海軍を持てば、いずれまたイギリスに挑んでくる」——ヴェルサイユ条約の海軍条項には、この恐怖がそのまま反映されていました。

ヒトラーの賭け──英独海軍協定という「公認された裏切り」

1933年、ヒトラーが政権を握ります。彼はヴェルサイユ体制の破壊を宣言し、海軍の再建に着手しました。

ここで奇妙なことが起こります。

1935年、イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、ドイツ海軍がイギリス海軍の35%までの規模を持つことを、みずから認めてしまったのです。

ヴェルサイユ条約を明確に破る内容でした。それでもイギリスがこれを容認した背景には、「どうせドイツは再軍備を進める。ならば上限を設けて管理下に置いたほうがましだ」という現実主義がありました。

しかし結果から見れば、これは「ドイツの条約破りに、イギリス自身がお墨付きを与えた」に等しい出来事でした。ビスマルクは、この協定がなければ、堂々とは造れなかった艦なのです。

Z計画──間に合わなかった巨大構想

ヒトラーの海軍総司令官エーリヒ・レーダーは、1939年にZ計画という長期艦隊整備計画を策定します。戦艦10隻、空母4隻という壮大な構想でした。

ところがこの計画には、致命的な欠陥がありました。

完成予定は1948年。

しかし現実の戦争は、その9年も前、1939年9月のポーランド侵攻で始まってしまいます。ドイツ海軍は、イギリス海軍に対して圧倒的劣勢のまま、準備不足の状態で開戦を迎えることになったのです。レーダーは「海軍はもはや面目のためだけに出撃するしかない」と嘆いたと伝えられています。

ビスマルクは、この「間に合わなかった巨大構想」の中で、ほぼ唯一実戦投入できる主力艦として誕生しました。

ライン演習作戦──9日間の航海

1941年5月18日、ビスマルクは僚艦プリンツ・オイゲンとともに出撃します。作戦名は「ライン演習」。目的は決戦ではなく、大西洋の連合国輸送船団への通商破壊でした。

島国イギリスにとって、海上輸送路は生命線そのものです。食料のおよそ半分、石油のほぼ全量を海外に頼っていました。だからこそイギリス海軍は、ドイツの主力艦が大西洋に出たと知った瞬間、ほかのすべての任務を後回しにしてでも、これを撃滅する体制を取っていました。

5月24日早朝、デンマーク海峡。イギリスの誇る巡洋戦艦HMSフッドが、ビスマルクの前に立ちはだかります。

フッド撃沈──象徴が3分で消えた朝

フッドは、イギリス帝国の象徴でした。世界最大級の軍艦として20年以上、各国を巡航し、「大英帝国の力」を体現してきた存在です。

戦闘開始からわずか数分後、ビスマルクの砲弾がフッドの弾薬庫を直撃します。

大爆発。

乗員1,418名のうち、生き残ったのはわずか3名でした。イギリス海軍史上、一度の戦闘での最大の人的損失です。

国家の象徴が、一瞬で消えた。この衝撃は、イギリス国民に深い傷を残しました。だからこそチャーチルは、ほとんど個人的な執念とも言えるほどの規模で、ビスマルク追撃を命じることになります。

追撃──執念の8日間、そして旧式複葉機の逆転劇

フッドを沈めたビスマルクでしたが、実は同じ戦闘で燃料タンクに一撃を受けていました。燃料漏れが始まり、通商破壊の続行を断念、フランスの港を目指して撤退を始めます。

イギリス海軍は総力を挙げてこれを追いました。

そして5月26日、空母アーク・ロイヤルから、フェアリー・ソードフィッシュという旧式雷撃機が発進します。布張りの複葉機。最高速度は時速222キロ、当時の戦闘機の半分程度という、時代遅れの機体でした。

この機体が放った魚雷が、ビスマルクの舵を直撃します。

舵は左に固定され、二度と直進できなくなりました。世界最強クラスの戦艦が、ただ円を描くしかない状態に陥ったのです。

なぜこんな旧式機が、最新鋭の巨大戦艦を無力化できたのか。答えは性能ではなく、状況でした。夜間と荒天、目視に頼るしかない当時の対空防御の限界、そして命中という偶然。**「遅すぎて狙いを外してしまう」**という逆説的な事情さえあったと言われています。

沈没──「最強」が終わらせた、戦艦の時代

舵を失ったビスマルクに、イギリス艦隊が殺到します。

5月27日朝、戦艦キング・ジョージ5世とロドニーが砲撃を開始。圧倒的な集中砲火を浴びながらも、ビスマルクはしばらく浮き続けました。最終的に魚雷を受け、艦は大西洋に沈みます。2,200名以上が命を落としました。

装甲・主砲・速力、すべてにおいて世界最高水準だったビスマルク。正面からの砲撃戦なら、間違いなく圧倒的な強さを誇っていたはずです。

それを沈めたのは、砲撃ではなく、旧式複葉機が放った一本の魚雷でした。

そしてこの半年後、同じ構図が世界規模で繰り返されます。1941年11月、日本海軍がタラント海戦を研究し尽くしたうえで真珠湾を奇襲。12月には、日本の陸上機がマレー沖でプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈しました。ビスマルクと同じ年に戦った、まさにその艦です。

戦艦中心の海戦思想が大きな転換点を迎えた。

この現実が、1941年というたった1年の間に、大西洋・太平洋・インド洋という3つの海域でほぼ同時に証明されたのです。

1906年、HMSドレッドノートが開いた「大艦巨砲主義」の時代。ビスマルクは、その建艦競争の一つの到達点として生まれました。そして皮肉にも、その到達点自体が、航空機によって時代の終わりを告げる存在になったのです。

おわりに──一隻の艦から、歴史が見える

ビスマルクを調べ終えて感じるのは、この艦が「最強の戦艦」である以上に、**「一つの時代の縮図」**だということです。

条約で禁じられた海軍が、政治的妥協によって復活し、間に合わない巨大構想の中で生まれ、たった9日間の航海で、時代遅れの複葉機によってその限界を突きつけられる。

ヴェルサイユ条約も、英独海軍協定も、Z計画も、教科書ではバラバラに登場する出来事です。しかしビスマルクという一隻の戦艦から眺めると、それらが「なぜドイツは巨大戦艦を持てたのか」「なぜその戦艦は航空機に敗れたのか」という、一本の因果の鎖としてつながって見えてきます。

一隻の艦の9日間をたどるだけで、国際条約の力学も、指導者の政治的判断も、技術転換の非情さも、全部見えてくる。これが「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことの面白さだと、あらためて感じています。

次回も、一隻の艦を入口に、歴史の大きな流れをたどっていきます。


私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。 内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。


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