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艦艇から学ぶ歴史 #004 赤城──戦艦から空母へ、海戦を変えた一隻



戦艦(巡洋戦艦)になるはずだった船が、世界を変えた——空母「赤城」の逆説


正直に言うと、赤城について調べ始める前の私のイメージは「真珠湾攻撃をした空母」というくらいのものでした。有名な軍艦、程度の認識です。

ところが調べていくうちに、この認識はまったくの的外れだったと気づきました。赤城は最初から空母として設計された船ではありません。本来は戦艦になるはずだった船です。それが国際条約の「抜け道」によって空母へと生まれ変わり、世界で初めて複数の空母を集中運用する「機動部隊」の旗艦となり、真珠湾攻撃で世界に衝撃を与え、そのわずか半年後にはミッドウェー海戦で沈められて姿を消しました。

一番印象に残ったのは、この「わずか半年」という短さです。歴史の教科書では真珠湾とミッドウェーは別々の出来事として語られがちですが、実は同じ艦、同じ司令部が、絶頂と転落の両方を、信じられないほど短い期間で経験していたのです。

この記事を読み終える頃には、赤城という1隻の船を通して、日本海軍がなぜあの戦い方を選んだのか、なぜ真珠湾で「歴史的な戦果を挙げた」のか、そしてなぜミッドウェーで一瞬にして崩れ去ったのかが、ひとつの物語としてつながって見えてくるはずです。


戦艦になるはずだった船

赤城の物語は、1920年、呉海軍工廠で「巡洋戦艦」として起工されたところから始まります。当時の日本海軍は「八八艦隊」という壮大な建艦計画を進めていました。常に最新の戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を保有し続けるという、国家の全力を注ぎ込むような構想です。赤城はその一員として生まれるはずでした。

ところがこの建艦競争は、日本だけでなくイギリス・アメリカにとっても財政的に限界に達していました。そこで1922年、3カ国は「ワシントン海軍軍縮条約」という国際条約を結び、主力艦の保有量に上限を設けます。その比率はイギリス5:アメリカ5:日本3。この数字は後々まで日本海軍内部に大きな火種を残すことになりますが、それはまた別の話です。

この条約によって、赤城は主力艦としての建造を許されなくなりました。本来ならそのまま解体されるはずの船です。

ところが条約には、ある「抜け道」がありました。「建造中の主力艦は、一定の制限内であれば航空母艦に改造してよい」という例外規定です。当時、空母はまだ「補助艦艇」程度にしか見られていなかったため、この抜け道が用意されていたのです。

こうして、廃艦寸前だった巡洋戦艦・赤城は、航空母艦として生まれ変わることになりました。同じ経緯でアメリカも巡洋戦艦の船体を空母(レキシントン、サラトガ)に転用しています。戦艦を減らすための条約が、結果として各国に空母の開発を促し、空母の時代を早めた——この逆説こそが、赤城という船の出発点にある面白さです。もし条約がなければ、赤城はただの戦艦として、もっと早い段階で戦没していたかもしれません。

大艦巨砲主義と、もうひとつの声

とはいえ、赤城が生まれた1920年代の日本海軍で、主役はまだ完全に戦艦でした。日露戦争・日本海海戦(1905年)での圧倒的勝利の記憶が、「大きな艦に、大きな大砲を積んで、正面から撃ち合えば勝てる」という大艦巨砲主義を海軍の骨格として根付かせていたからです。

しかし第一次世界大戦を経て、航空機が偵察や爆撃で実用性を示し始めると、海軍の中にも「航空機こそがこれからの海戦の主役になる」と主張する一派が現れます。後に真珠湾攻撃を指揮する山本五十六や、赤城の航空参謀となる源田実といった人々です。

ここで日本海軍が選んだのは、実は「どちらか一方」ではありませんでした。世界最先端の空母機動部隊を作り上げながら、同時に史上最大の戦艦「大和」「武蔵」の建造も進めるという、両方に全力投球するという道です。この矛盾は、後に赤城自身の運命を通して噴き出すことになります。

世界初の「世界初の本格的な空母機動部隊」という発明

1941年4月、赤城を旗艦とする第一航空艦隊が編制されます。これは赤城・加賀・蒼龍・飛龍など、複数の正規空母を1つの艦隊として集中運用するという、世界のどの海軍もまだ実戦規模で実現していなかった発想でした。

それまでの常識では、空母は戦艦に付き従う偵察役にすぎませんでした。しかし日本海軍は、空母だけを集めて艦隊を組み、艦載機による大規模な航空攻撃を敵に浴びせるという、まったく新しい戦争の形を作り上げたのです。この発想は後にアメリカ海軍にも受け継がれ、現代の「空母打撃群」の原型になったと言われています。

司令長官は南雲忠一中将。ただし南雲は魚雷を扱う「水雷」出身で、航空の専門家ではありませんでした。実際の作戦判断の多くは、参謀長の草鹿龍之介や航空参謀の源田実が担っていたと言われます。この「専門外の指揮官が、最先端の専門部隊を率いる」という構図は、半年後のミッドウェー海戦で重い意味を持つことになります。

真珠湾——世界最大の戦果と、3つの「やり残し」

1941年12月8日(日本時間)、赤城を旗艦とする機動部隊はハワイ・真珠湾を奇襲します。第一波・第二波あわせて約350機が発艦し、アメリカ太平洋艦隊の戦艦4隻を沈没させるという、当時の航空作戦としては史上最大級の戦果を上げました。世界中の海軍関係者に「戦艦の時代は終わった」と衝撃を与えた瞬間です。

しかし、この輝かしい戦果には、後々まで論争を呼ぶ3つの「やり残し」がありました。

  • 攻撃当日、米軍の空母はすべて真珠湾の外にいて、撃沈の機会を逃した

  • 燃料タンクや修理施設は攻撃対象から外され、無傷で残された

  • 燃料や敵空母の所在を懸念した司令部が、追加攻撃(第三次攻撃)を行わず撤退した

この時は「計画通りの結果」に見えました。しかし、この判断が半年後、ブーメランのように返ってくることになります。

ミッドウェー——同じ司令部が経験した転落

真珠湾から半年、日本海軍は連戦連勝を重ねていました。しかし連合艦隊司令長官・山本五十六は、真珠湾で撃ち漏らした米空母をどうしても叩いておきたいと焦っていました。そこで計画されたのが、ミッドウェー島(暗号名「AF」)攻略作戦です。

ここでアメリカ側に決定的な優位がありました。暗号解読です。米海軍の情報部隊は日本の暗号「JN-25」を部分的に解読し、次の攻撃目標が「AF」であることを掴んでいました。そして「AF=ミッドウェー」を確定させるため、ミッドウェー島からわざと「淡水装置が故障した」という偽の電報を平文で発信させ、日本側がこれを傍受して報告するのを確認するという、巧妙な罠まで仕掛けていたのです。

戦いの当日、赤城など4空母は攻撃隊の兵装を魚雷から爆弾へ、爆弾から魚雷へと繰り返し積み替える羽目になり、大きく対応が遅れます。1回の兵装転換には1時間半から2時間もかかりました。そして各空母の格納庫が魚雷・爆弾・航空燃料でいっぱいになっていたその瞬間、米軍の急降下爆撃機隊が奇襲します。

赤城への命中弾はわずか1発でした。しかし格納庫内の弾薬と燃料が次々に誘爆し、短時間で消火不能な大火災となりました。翌日、赤城は自沈処分となります。同日、日本海軍は主力空母4隻すべてを失いました。

長らくこの敗因は「あと5分早ければ勝てた」という「運命の5分間」という物語で語られてきました。しかし戦後の詳細な検証によって、実際には3空母とも攻撃隊の準備がそもそも大きく遅れている最中に被弾していたことが明らかになっています。「わずかな不運」ではなく、兵装転換の繰り返しや索敵の不徹底といった、より根本的な判断ミスがあったというのが、現在の研究の到達点です。

なぜ赤城を知ると、太平洋戦争の全体が見えるのか

赤城の生涯を追うと、次のようなことが自然につながって見えてきます。

戦艦中心の思想から抜け出せなかった日本海軍が、条約という外的な制約によって、皮肉にも世界最先端の空母部隊を作り上げてしまったこと。その部隊が真珠湾で歴史的な戦果を上げながら、同時に「やり残し」を残してしまったこと。そして、その「やり残し」のツケを、同じ艦・同じ司令部が、わずか半年後に自ら払うことになったこと。

赤城1隻の物語は、そのまま「大艦巨砲主義から航空主兵への転換」という、20世紀の海戦のパラダイムシフトそのものを体現しています。戦艦であれば耐えられたかもしれない1発の被弾が、燃料と弾薬を満載した空母にとっては致命傷になる——攻撃力の革新は、同時に新しい脆弱性を生んでいたのです。

まとめ

赤城という1隻の空母をたどるだけで、ワシントン軍縮条約という国際政治、大艦巨砲主義と航空主兵論という思想対立、世界初の空母機動部隊という軍事革新、そして真珠湾からミッドウェーへの栄光と転落まで、太平洋戦争の骨格そのものが見えてきます。

これが、艦艇を入口として歴史を学ぶことの面白さだと思います。1隻の船の生涯という具体的な物語を追いかけるだけで、抽象的な「国際関係」や「軍事思想」が、急に手触りのあるものとして理解できるようになる。赤城はその中でも、条約という国際政治の力と、組織の中の思想対立と、たった半年での栄光と転落を、これ以上ないほど凝縮して体現した1隻でした。

私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。

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