艦艇から学ぶ歴史 #010 HMSプリンス・オブ・ウェールズ──戦艦の栄光と終焉を、半年で生きた艦
艦艇から学ぶ歴史 #010 HMSプリンス・オブ・ウェールズ──戦艦の栄光と終焉を、半年で生きた艦
はじめに
HMSプリンス・オブ・ウェールズ。
「ビスマルクと戦った戦艦」——調べる前の私のイメージは、その程度のものでした。フッドが轟沈した戦闘に居合わせた、脇役のような艦。
ところが調べてみて、最も驚いたのはここでした。
この艦は就役からわずか11ヶ月の間に、「戦後世界の設計図」が描かれる場に立ち会い、その数ヶ月後には自らが「戦艦という兵器の終わり」を告げる側になっていた。
ビスマルク追撃戦では、この艦は紛れもなく「戦艦の力」を体現していました。ところが半年後のマレー沖海戦では、今度は「航空機の時代」の到来を、自らの撃沈という形で世界に突きつけることになります。
一隻の艦が、始まりと終わりを同時に生きる。この記事では、HMSプリンス・オブ・ウェールズという一隻の戦艦を入口に、軍縮条約からビスマルク追撃戦、大西洋憲章、そして戦艦時代の終焉までをたどっていきます。
生まれながらの制約──条約に忠実だった代償
物語は、この艦が就役する何年も前、1922年のワシントン海軍軍縮条約にさかのぼります。
主力艦の保有比率を制限し、主砲の口径にも上限を設けたこの条約は、1936年のロンドン海軍軍縮条約で「主砲14インチ以下」という条項をさらに追加しました。イギリスはこの条項を律儀に守り、プリンス・オブ・ウェールズが属するキング・ジョージ5世級戦艦は、14インチ(35.6cm)砲を採用します。
ところが同じ時期、日本とイタリアはこの条約から脱退していました。結果、ドイツのビスマルク級は38cm砲、日本の大和型は46cm砲、フランスのリシュリュー級も38cm砲を積むことになります。
ルールを守った国が、ルールを破った国より不利になる。
軍縮条約末期に繰り返されたこのジレンマを、プリンス・オブ・ウェールズはその主砲口径そのもので体現していました。しかも就役を急いだこの艦は、主砲機構の不具合を抱えたまま、工事関係者が乗艦した状態で実戦に投入されることになります。
ビスマルク追撃戦──「戦艦の力」を体現した艦
1941年5月24日、デンマーク海峡。就役からわずか数ヶ月のプリンス・オブ・ウェールズは、巡洋戦艦フッドとともにドイツ戦艦ビスマルクと相まみえます。
戦闘開始からわずか数分、ビスマルクの砲弾がフッドの弾薬庫を直撃。大爆発とともに、乗員1,418名のうち生存者はわずか3名という、イギリス海軍史上最悪の惨事が起きました。
プリンス・オブ・ウェールズも複数の被弾を受け、いったん戦場を離脱します。しかしこの艦が放った砲弾の一部は、実はビスマルクの燃料タンクに命中していました。
燃料漏れを起こしたビスマルクは、大西洋での通商破壊作戦の続行を断念し、フランスの港を目指して撤退を決断します。そしてこの撤退判断こそが、その後のイギリス海軍による大規模な追撃戦、最終的なビスマルク撃沈への道を開くことになりました。
Hoodを救えなかった艦であると同時に、ビスマルク撃沈の引き金を引いた艦。
この戦闘において、プリンス・オブ・ウェールズはまさに「戦艦同士が砲弾を撃ち合い、勝敗を決める」という、大艦巨砲主義時代そのものの論理の中で戦っていました。巨砲・装甲・速力——戦艦の価値が、まだ疑いなく信じられていた時代の物語です。
大西洋憲章──戦後世界が生まれた甲板
その3か月後、1941年8月。プリンス・オブ・ウェールズの甲板の上で、まったく違う種類の歴史が刻まれます。
ニューファンドランド島沖に停泊するこの艦上で、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領フランクリン・ローズベルトが極秘に会談し、「大西洋憲章」を発表したのです。
領土不拡大、民族自決、貿易の自由、海洋の自由——ここで掲げられた原則は、後の国際連合憲章、そして戦後の国際秩序そのものの理念的な土台になっていきます。アメリカがまだ参戦していないこの時点で、米英が事実上の同盟関係にあることを世界に示す出来事でもありました。
戦艦という兵器の甲板が、次の時代の国際秩序を設計する舞台になる。プリンス・オブ・ウェールズは、この不思議な二重性をすでに帯び始めていました。
「抑止力」という賭け──航空援護なき極東派遣
1941年後半、日本の南進が加速する中、イギリスは一つの賭けに出ます。
「最新鋭戦艦を送り込めば、日本は開戦を躊躇するだろう」
この発想のもと、プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを中核とする小艦隊「Force Z」が、極東シンガポールへ派遣されました。
当初の計画では、装甲空母インドミタブルを伴わせる予定でした。ところが同艦はカリブ海で座礁事故を起こし、訓練の遅れから合流できませんでした。結果、Force Zは航空母艦を持たない、艦砲のみの艦隊として極東に展開することになります。
司令官トム・フィリップス提督は、「高速戦艦であれば航空攻撃を回避できる」という、第一次世界大戦時代さながらの発想のもと出撃を決断します。秘匿性を優先し、シンガポールの航空部隊への戦闘機援護要請すら行いませんでした。
マレー沖海戦──「航空機の時代」を告げた日
1941年12月10日。輸送船団を発見できずシンガポールへ帰投する途中のForce Zを、日本海軍の陸上攻撃機部隊が発見します。
一式陸上攻撃機、九六式陸上攻撃機、そして当時世界最高水準の性能を誇った九一式航空魚雷——サイゴン方面から発進した約80〜90機の陸攻部隊は、高度爆撃と雷撃を組み合わせた波状攻撃を仕掛けました。
レパルスがまず魚雷を受けて操舵不能に陥り、転覆・沈没。続いてプリンス・オブ・ウェールズも複数の魚雷命中により浸水し、転覆・沈没しました。日本側の損失はわずか数機。イギリス側は戦艦1隻・巡洋戦艦1隻という、極東の主力そのものを数時間で失いました。
行動中・防空戦闘中の最新鋭戦艦が、敵艦隊と一度も砲火を交えることなく、航空機のみによって撃沈される。
これは史上初めての事例でした。同じ年の11月にはタラント海戦(停泊中のイタリア艦隊への英軍の航空攻撃)が、12月7日にはハワイの真珠湾攻撃(停泊中の米戦艦群への奇襲)が起きています。しかしマレー沖海戦は「行動中」の戦艦が沈められた点で、より直接的に「戦艦は航空機に対して無力である」ことを実証しました。
半年前、プリンス・オブ・ウェールズはビスマルクという「戦艦の力」の物語の当事者でした。そして今度は、自らが「航空機の時代」の到来を告げる当事者になったのです。
「戦艦の力」と「航空機の時代」──一隻が体現した二つの物語
ここに、この艦の物語の核心があります。
デンマーク海峡では、巨砲同士が撃ち合い、砲弾がビスマルクの運命を左右しました。まぎれもない「戦艦の力」の物語です。
ところがマレー沖では、いかに強力な主砲と装甲を積んでいても、制空権を確保できない戦艦は、航空機の前でまったくの無力でした。「航空機の時代」の物語です。
同じ1941年、同じ1隻の艦が、この二つの対照的な物語をわずか半年の間に生きた。
1906年、HMSドレッドノートが開いた大艦巨砲主義の時代。HMSアーク・ロイヤルが示した空母の可能性。赤城やエンタープライズが確立していく空母機動部隊の時代。そして戦艦大和が最後に体現する、戦艦という兵器そのものの終焉。
プリンス・オブ・ウェールズは、その大きな歴史の流れのちょうど中間地点、「戦艦の栄光」と「戦艦の終焉」が交差する一点に、まさに居合わせた艦だったのです。
おわりに──一隻の艦から、歴史が見える
プリンス・オブ・ウェールズを調べ終えて感じるのは、この艦が「ビスマルクと戦った戦艦」である以上に、**「戦艦という兵器の絶頂と終わりを、同時に体現した艦」**だということです。
軍縮条約に忠実だったがゆえの主砲の非力さ、フッド爆沈という悲劇の中でビスマルク撃沈への布石を打った戦い、戦後秩序を生んだ大西洋憲章、そして「抑止力」という賭けに敗れて航空機の前に沈んだマレー沖海戦。
これらはバラバラの出来事ではありません。一隻の艦の11ヶ月をたどるだけで、軍縮条約という国際政治の力学も、戦艦という兵器の栄光も、そしてその終わりも、一本の因果の鎖としてつながって見えてきます。
これが「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことの面白さだと、あらためて感じています。
私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。 内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。
