艦艇から学ぶ歴史 #024 USSミズーリ──なぜ「戦争を終わらせた戦艦」は、半世紀近く現役だったのか
艦艇から学ぶ歴史 #024 USSミズーリ──なぜ「戦争を終わらせた戦艦」は、半世紀近く現役だったのか
はじめに
USSミズーリ。
調べる前の私は、「日本が降伏文書にサインした、あの写真の戦艦」というイメージしか持っていませんでした。教科書に載っている、あの甲板の白黒写真。第二次世界大戦の終わりを告げた、歴史的な一場面の舞台。それ以上でもそれ以下でもない、いわば「一日だけの主役」という認識です。
ところが調べていくうちに、最も驚いたのはこの事実でした。
ミズーリは、その歴史的な調印式のあとも、朝鮮戦争、そして1991年の湾岸戦争にまで実戦投入されている。
第二次世界大戦型の巨砲戦艦が、GPS誘導ミサイルとステルス機が飛び交う湾岸戦争にまで参戦した。就役は1944年、最終退役は1992年。約半世紀にわたって、アメリカが関わったほぼすべての主要な戦争の節目に、この一隻は立ち会い続けていたのです。
しかも、その調印艦としての選定理由が、「最新鋭だったから」ではなく、時の大統領の出身州の名を冠していたという、きわめて個人的な事情だったことも、あまり知られていません。
この記事では、ミズーリという一隻の戦艦を入口に、太平洋戦争の終盤から、日本降伏、冷戦の始動、朝鮮戦争、レーガン軍拡、湾岸戦争、そして戦後の保存にいたるまで、「一つの戦争がどう終わり、次の対立がどう始まったのか」という20世紀後半の歴史の流れをたどっていきます。
「大艦巨砲主義の最終形」が空母時代に生まれた矛盾
物語は、第一次世界大戦後の軍縮条約体制からはじまります。
1921〜22年のワシントン会議で、主力艦の保有比率がアメリカ5・イギリス5・日本3と定められました。いわゆる5:5:3です(この比率が日本にどれほどの不満を残したかは、戦艦陸奥・戦艦長門の記事で詳しく書きました)。しかし1930年代に入ると、満州事変、ヒトラー政権の成立、そして1936年の日本のロンドン条約脱退によって、この軍縮体制はあっけなく崩壊します。「海軍休日」は終わり、世界は再び建艦競争へと突き進んでいきました。
このとき、アメリカ海軍が直面していた問題は単純でした。従来の戦艦は20〜27ノット程度でしか航行できないのに対し、新型の空母は30ノットを超える速度で機動できる。もし戦艦が遅ければ、空母を守れないし、艦隊行動全体の足を引っ張ってしまう。
そこで生まれたのが「高速戦艦」という発想です。船体を細長く設計し、強力な機関を積むことで、戦艦としては異例の33ノットという速力を実現する。この構想のもとに建造されたのが、アイオワ・ニュージャージー・ミズーリ・ウィスコンシンからなるアイオワ級でした。
ここには、ある種の矛盾が内包されています。アイオワ級は「大艦巨砲主義の最終進化形」として計画されながら、その設計思想自体が、すでに「戦艦は主役ではなく、空母を支える存在になる」という新しい時代への適応を織り込んでいたのです。戦艦の頂点でありながら、戦艦の時代の終わりを予告してもいた。ミズーリは、その矛盾を体現する艦として、1941年1月6日、ニューヨーク海軍工廠で起工されます。
進水は1944年1月29日。このときスポンサーを務めたのが、当時上院議員だったハリー・S・トルーマンの娘、マーガレット・トルーマンでした。この何気ない一事が、のちにミズーリの運命を大きく左右することになります。
沖縄戦、そして「敵兵を弔った艦長」
1944年6月に就役したミズーリは、太平洋戦争の帰趨がほぼ決した時期に戦列へ加わります。空母機動部隊の護衛・艦隊防空・対地砲撃と、役割は多岐にわたりました。
1945年4月、太平洋戦争最大級の上陸作戦となった沖縄戦で、ミズーリは最大の脅威に直面します。神風特別攻撃隊です。4月11日、一機の零戦がミズーリへ突入しましたが、大きな損傷には至らず、火災もすぐに鎮火されました。
このとき艦長ウィリアム・キャラハンがとった行動が、今もミズーリを象徴するエピソードとして語り継がれています。搭乗していた日本兵の遺体を、「敵兵もまた祖国のために戦った一人の兵士である」として、軍人として丁重に水葬したのです。
敵と味方という境界を越えて、一人の人間として敬意を払う。この判断は、戦争という極限状況の中でも人間性を失わなかった稀有な例として、後年、日米和解を象徴するエピソードとしても語られるようになります。
なぜミズーリが「降伏文書調印艦」に選ばれたのか
1945年8月15日、日本はポツダム宣言受諾を公表しますが、戦争が国際法上正式に終わるためには、正式な降伏文書調印という手続きが不可欠でした。その舞台に選ばれたのが、東京湾に停泊するミズーリです。
ここで多くの人が抱く誤解があります。「最新鋭の戦艦だったから選ばれた」という説明です。実務的な理由がなかったわけではありません。ミズーリは硫黄島・沖縄戦を経験した最新鋭艦であり、アメリカの工業力と技術力を世界に示すのにふさわしい存在でした。
しかし、米海軍協会の史料によれば、調印場所を巡っては空母や揚陸艦、あるいは陸上会場にするかまで議論があったといいます。最終的にこの議論に終止符を打ったのは、トルーマン大統領自身の「ミズーリで行う」という一存でした。トルーマンは戦後の回顧録でその理由を明言していませんが、多くの研究者は、自らの出身州の名を冠し、娘マーガレットが進水式のスポンサーを務めた艦であるという、きわめて個人的な結びつきが決め手になったと分析しています。
さらにトルーマンは、日本本土を望む場所での調印にこだわったとも言われています。ドイツの降伏は連合軍がすでに本土を占領していたため簡素な手続きで済みましたが、日本本土そのものは実際には侵攻されていませんでした。だからこそ、東京湾という日本の首都を目前にした場所で公開の儀式を行うことには、「日本は本当に敗北したのだ」という事実を、世界と日本国民自身に示す政治的な演出としての意味があったのです。
歴史上もっとも重要な外交儀礼の一つが、大統領個人の思い入れという偶然に近い要因によって決まっていた。歴史は必ずしも合理性だけで動くわけではない、ということを、この選定過程は教えてくれます。
23分間の儀式と、一つの署名ミス
1945年9月2日午前9時ごろ、連合国代表として連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が立会人となり、アメリカ・イギリス・ソ連・中国など各国代表が署名しました。日本側は外務大臣・重光葵、参謀総長・梅津美治郎が署名しています。義足を装着していた重光がミズーリの舷側デッキまで移動する時間を測るため、水兵に松葉杖を装着させてリハーサルを行うほど、準備は綿密を極めたと伝えられています。
この重々しい儀式の裏に、あまり知られていない小さなハプニングがありました。カナダ代表ローレンス・コスグレイブ大佐が、片目の視力を失っていたこともあり、署名欄を一段間違えてサインしてしまったのです。これにより後続の代表者も次々と署名位置がずれてしまい、最後のニュージーランド代表は空白部分に署名する事態となりました。
日本側代表団はこれに抗議し、文書の受け取りを一時拒否します。マッカーサーの参謀長リチャード・サザーランド中将が各国名を手書きで訂正し、自らのイニシャルを添えることで、その場をなんとか収めました。人類史上もっとも重い戦争の終結が、一つの人的ミスとその場しのぎの修正によって成り立っていた。この事実は、歴史的な瞬間にもつきまとう、生々しい人間らしさを物語っています。
23分間の式典で、第二次世界大戦は法的にも完全に終結しました。
「戦争を終わらせた甲板」は、同時に「冷戦を開いた甲板」だった
ここが、ミズーリを理解するうえでもっとも重要なポイントです。
第二次世界大戦中、アメリカ・イギリス・ソ連は、共通の敵である枢軸国と戦うために手を組んでいました。しかし戦争が終わり、共通の敵が消えたことで、今度は資本主義と共産主義というイデオロギー対立が急速に表面化していきます。これが冷戦です。
つまり、ミズーリの甲板で行われた降伏調印式は、第二次世界大戦の終点であると同時に、冷戦時代の出発点でもありました。以後、世界の主役はイギリスではなくアメリカとソ連になり、アメリカ海軍もまた、日本と戦う海軍からソ連を抑止する海軍へと役割を変えていきます。
そしてこの構造転換の余波は、すぐにミズーリ自身へと返ってきます。
朝鮮戦争──「切り札」が呼び戻された理由
1950年、朝鮮半島で戦争が勃発します。第二次世界大戦後、朝鮮半島はソ連占領下の北とアメリカ占領下の南に分割されており、北朝鮮の南進によって朝鮮戦争が始まりました。国連軍として参戦したアメリカは、ミズーリを再び前線へ投入します。
ここでの主任務は艦砲射撃でした。16インチ砲は、沿岸部の陣地や補給拠点を遠距離から破壊できます。航空機だけでは悪天候や夜間には攻撃できない場合もあり、戦艦の砲撃は依然として重要な軍事的価値を持っていたのです。戦後の戦艦は、もはや敵戦艦と撃ち合うためではなく、陸上支援兵器へと役割を変えていました。
興味深いのは、ミズーリが第二次世界大戦後、他の多くの戦艦が退役するなかで、トルーマン大統領の意向もあって現役に留め置かれていたことです。これが結果として、朝鮮戦争勃発時に国連軍へ即座に強力な艦砲射撃を提供できるという、歴史の巡り合わせを生みました。仁川上陸作戦後の掃討戦や、興南撤収支援などで、ミズーリは3年間にわたり艦砲支援を続けます。
レーガン軍拡と「ミサイル戦艦」への進化
1955年、ミズーリは予備役に編入され、長期の「モスボール」状態に入ります。しかし1970年代、ソ連海軍が大型ミサイル巡洋艦や潜水艦を急速に増強し、アメリカの海洋覇権への新たな挑戦者として台頭してきました。
1980年代、ロナルド・レーガン政権は海軍長官ジョン・レーマンの主導のもと「600隻海軍構想」を掲げ、退役していたアイオワ級戦艦4隻すべてを現役復帰させます。ただし、1940年代の戦艦をそのまま復帰させても意味はありません。トマホーク巡航ミサイル・ハープーン対艦ミサイル・ファランクス近接防御火器・最新電子戦装置が追加され、ミズーリは1986年、「主砲だけの戦艦」から「ミサイル戦艦」へと生まれ変わって再就役します。
なぜアイオワ級はここまで長く運用され続けたのか。理由は一つではありません。16インチ砲は約1トン近い砲弾を30km以上先へ撃ち込める、継続的な火力提供が可能な兵器でした。近代化改装によって兵器システムだけを最新化すれば、古い艦体でも戦力として機能します。そして巨大戦艦は、実戦力だけでなく「敵国沿岸に姿を見せるだけでアメリカは本気で介入する」というメッセージを発する、政治的な威圧装置としての価値も持っていました。軍事力を外交へ転換する道具としての戦艦、というわけです。
もちろん、この再就役は海軍内でも大論争を呼びました。対地制圧能力を評価する賛成派に対し、「対艦ミサイルの巨大な的に過ぎない」とする反対派が対立し続けたのです。
湾岸戦争──「ミサイルがミサイルを撃墜した」瞬間
1991年、イラクのクウェート侵攻を受けて湾岸戦争が始まります。ミズーリはここで、トマホーク巡航ミサイル発射と16インチ砲による艦砲射撃という、新旧の火力を同時に運用しました。1945年に16インチ砲で戦っていた戦艦が、半世紀後にはGPSと慣性誘導のミサイルを発射している。この一隻が、第二次世界大戦から情報化時代までを生き抜いたことを、これほど象徴する事実はありません。
湾岸戦争でミズーリの存在価値をもっとも鮮烈に示したのが、1991年2月25日の出来事です。クウェート方面への上陸を示唆する陽動を兼ねて沿岸部への艦砲射撃を続けていたミズーリに対し、イラク軍は中国製シルクウォーム対艦ミサイルを発射しました。1発は海上に落下しましたが、もう1発はミズーリの艦尾方向へ向かって飛来します。ミズーリと護衛艦USSジャレットは赤外線フレアとチャフを展開してミサイルの誘導を混乱させ、ミサイルは艦尾をかすめて通過。最終的にこのミサイルは、護衛についていたイギリス海軍の駆逐艦HMSグロスターが発射したシー・ダート艦対空ミサイルによって撃墜されました。
これは、実戦において「ミサイルによってミサイルが撃墜された」検証済みの初めての事例とされています。この出来事が示したのは、戦艦はもはや単体では現代の対艦ミサイルから自らを守れないが、イージス艦や防空艦とともに統合された艦隊の一部として運用されれば、依然として大きな価値を持つ、という現代海軍における戦艦の存在意義でした。ミズーリは「時代遅れの巨砲」としてではなく、精密誘導兵器の傘の下で機能する「陽動と重火力の提供者」として、情報化時代の戦争に自らの居場所を見出したのです。
湾岸戦争後、軍縮と維持費削減の流れのなかで、ミズーリは1992年3月31日、最終退役を迎えます。
アリゾナと向き合う、戦争の始まりと終わり
現在、ミズーリはハワイ・パールハーバーで博物館船として保存されています。そこには、1941年の真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの記念館も存在します。
この配置は、極めて象徴的です。アリゾナは太平洋戦争の始まりを、ミズーリは太平洋戦争の終わりを表す。ミズーリの艦首は、アリゾナ・メモリアルを見守るように係留されており、一つの湾のなかで、戦争の始まりと終わりが向き合う構造になっているのです。訪問者に戦争の歴史的文脈を空間的・視覚的に体感させる、計算された展示構造だといえます。
艦の右舷甲板には今も神風特別攻撃隊の激突跡が残されており、キャラハン艦長が敵兵を丁重に弔った決断とあわせて、日米和解の象徴として、ガイドツアーで必ず語られる物語になっています。
おわりに──一隻の戦艦が閉じたものと、開いたもの
ミズーリを調べ終えて感じるのは、この艦が「一日だけの主役」では決してなかったということです。
軍縮条約体制の崩壊のなかで生まれた高速戦艦という発想。太平洋戦争終盤の熾烈な戦いと、敵兵さえも弔った一人の艦長の決断。大統領個人の思い入れによって選ばれた降伏調印艦という、合理性だけでは説明できない歴史の決まり方。そして、戦争を終わらせたその同じ甲板が、冷戦という次の70年の対立構造の出発点にもなっていたという逆説。
朝鮮戦争では全天候型の火力支援艦として、レーガン軍拡ではミサイル戦艦として、湾岸戦争では精密攻撃と陽動を兼ねるプラットフォームとして。ミズーリは「陳腐化した兵器」ではなく、その時代が必要とした機能に応じて役割を変え続けた、稀有な戦艦でした。
日本降伏文書調印艦としてのHMS Missouriを起点に、大艦巨砲主義の系譜をたどれば戦艦大和・戦艦長門へ、太平洋戦争の空母機動部隊をたどれば赤城・空母加賀・USSエンタープライズへ、そして冷戦という時代そのものをたどれば、あの潜水艦から見た核戦争の淵、B-59や、原子力という第三の海軍革命を体現したUSSノーチラスへとつながっていきます。一隻の戦艦を入口にするだけで、20世紀の国際政治・軍事戦略・技術革新のほぼすべての転換点が、地続きに見えてくるのです。
これが「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことの面白さだと、あらためて感じています。
私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。
内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。
