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艦艇から学ぶ歴史 #006 戦艦大和──世界最大の戦艦は、なぜ時代に敗れたのか

大艦巨砲主義、その頂点と墓標

はじめに

戦艦大和。

日本人なら、誰もが一度は名前を聞いたことがあると思います。

私も調べる前は、「世界最大の戦艦」「悲劇の最期」という、ぼんやりとした英雄のイメージしか持っていませんでした。このシリーズでHMSドレッドノートやUSSエンタープライズを調べるうちに、「では、戦艦時代の頂点にいた大和は、何を見た艦だったのか」を知りたくなったのが、今回のきっかけです。

そして調べてみて、最も驚いた事実がこれでした。

大和が就役するわずか6日前に、戦艦の時代は大きな転換点を迎えていた。

しかも、終わらせたのは敵ではありません。日本海軍自身です。

1941年12月10日、日本海軍はマレー沖海戦で、航空機だけでイギリスの最新鋭戦艦を撃沈しました。「航行中の主力戦艦」を、陸上航空機のみで撃沈した最初の事例です。その6日後、史上最大の戦艦・大和が就役しました。

つまり大和は、完成した瞬間から「過去の兵器」だったのです。

なぜそんなことが起きたのか。なぜ日本は世界最大の戦艦を造ったのか。そしてなぜ、その大和は沖縄への「片道特攻」に向かったのか。

この記事では、大和という一隻の戦艦を入口に、戦艦時代の始まりから終わりまでを、因果関係でたどっていきます。

すべての始まり──「勝ちすぎた」日本海軍

物語の起点は、大和の起工より30年以上前にあります。

1905年、日本海海戦。日本海軍はロシアのバルチック艦隊を、ほぼ一方的に壊滅させました。

この完璧すぎる勝利が、日本海軍にひとつの信念を刻み込みます。

「戦争の勝敗は、艦隊同士の一大決戦で決まる」

いわゆる「艦隊決戦思想」です。この成功体験が、以後40年にわたって日本海軍の思考を縛り続けることになります。

一方その頃、世界では戦艦の革命が起きていました。1906年、イギリスが戦艦ドレッドノートを完成させ、「より大きな艦に、より大きな砲を」という大艦巨砲主義の時代が幕を開けます(この経緯は [#005 HMSドレッドノート] の記事で書きました)。

各国は競うように巨大戦艦を建造し、建艦競争はエスカレートしていきました。

ワシントン条約──「対米7割」の屈辱

しかし第一次世界大戦後、各国は気づきます。

「このまま建艦競争を続けたら、財政が破綻するか、次の世界大戦が起きる」

そこで1922年、米・英・日・仏・伊の5大国が結んだのがワシントン海軍軍縮条約です。戦艦の保有量を「米5:英5:日3」の比率に制限する。世界初の本格的な軍備管理条約でした。

ところが日本海軍にとって、この「3」という数字は特別な意味を持っていました。

日本海軍には「アメリカと互角に戦うには、最低でも7割の兵力が必要」という理論があったのです。5対3は、7割にわずかに届かない。この条約は海軍内部で「国防を脅かす屈辱」として受け止められました。

ここで日本海軍は、真っ二つに割れます。

「国力を無視した軍拡は国防にならない」と条約を受け入れた現実主義の条約派。 「対米7割は譲れない」と反発する強硬派の艦隊派

この対立が、のちに日本の運命を左右します。

ロンドン条約──軍が政治を超えた日

1930年のロンドン海軍軍縮条約で、対立は爆発します。

今度は巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇にも制限が拡大され、日本はまたも希望の比率を下回る内容で妥結しました。

このとき起きたのが「統帥権干犯問題」です。

軍の作戦を司る軍令部の同意がないまま政府が条約に調印したことを、野党や海軍強硬派が「天皇の統帥権(軍の指揮権)を政府が侵した」と激しく攻撃したのです。

これは単なる軍事論争ではありませんでした。「軍は政府の言うことを聞かなくてよい」という前例を作る、政治的な事件だったのです。条約を結んだ浜口雄幸首相は直後に狙撃され、翌年亡くなります。

1933年には海軍内の人事で条約派が一掃され、艦隊派が実権を握りました。そして1934年、日本は条約からの離脱を通告。1936年、世界は制限のない「無条約時代」に突入します。

大和が起工されたのは、その翌年、1937年のことでした。

大和は、条約という「タガ」が外れなければ、そもそも存在しえなかった艦なのです。

なぜ「世界最大」だったのか──弱者の非対称戦略

ここで疑問が浮かびます。なぜ日本は、よりによって「世界最大」を目指したのでしょうか。

答えは、日本が「弱者」だったからです。

工業力も資源も、アメリカには遠く及ばない。保有量でも劣勢を強いられた。ならば残された道はひとつ。

「量で勝てないなら、質で勝つ」

一隻あたりの戦闘力で敵戦艦を圧倒すれば、数の不利を覆せる──大艦巨砲主義は、日本にとって劣勢を埋める唯一の理論的解答でした。

そして大和の設計には、地政学的な計算まで組み込まれていました。

アメリカの戦艦は、大西洋と太平洋を行き来するため、パナマ運河(幅約33メートル)を通れるサイズに制約されていました。日本はこの「敵の弱点」を突き、運河を通れない規模の巨艦を造ることで、アメリカが同クラスの戦艦を造りにくい状況を狙ったのです。

46センチ主砲9門、基準排水量64,000トン。その存在は国家最高機密として、国民にすら隠されました。

大和とは、単なる技術の到達点ではありません。追い詰められた国家が編み出した、非対称戦略の結晶だったのです。

皮肉──自分で自分の時代を終わらせた海軍

そして冒頭の場面に戻ります。

1941年12月8日、真珠湾攻撃。日本の空母艦載機がアメリカ戦艦群を撃破。 12月10日、マレー沖海戦。日本の航空機が、航行中のイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。

「作戦行動中の戦艦を、航空機だけで沈める」ことを世界で初めて証明したのは、日本海軍自身でした。

戦艦1隻の建造費に比べれば、航空機ははるかに安い。その航空機が戦艦を沈められるなら、大艦巨砲主義の前提そのものが崩れます。

その6日後の12月16日、大和は就役しました。

世界最強の戦艦は、その力を発揮すべき時代が終わった後に生まれてきたのです。しかも、時代を終わらせたのは自分の所属する海軍だった──これほどの皮肉は、歴史上そう多くありません。

「大和ホテル」──戦わない最強戦艦

では、就役後の大和は何をしていたのか。

ほとんど何もしていません。

1942年のミッドウェー海戦では連合艦隊の旗艦として出撃しましたが、空母部隊のはるか後方に位置し、一発も撃たないまま、空母4隻喪失という大敗を後方で迎えました。

その後は「決戦のために温存する」という方針のもと、トラック泊地に長期停泊を続けます。めったに出撃せず、居住性だけは快適な巨艦。乗組員たちはそれを自嘲気味に「大和ホテル」と呼んだと伝えられます。

温存の背景には、あの「艦隊決戦思想」がありました。いつか来るはずの決戦のために、切り札は取っておく。しかしアメリカ軍は日本の想定した決戦海域を迂回し、航空機で防衛線を各個撃破していきました。「敵が正面から来てくれる」という前提そのものが、崩れていたのです。

レイテ沖海戦──最初で最後の砲撃と「謎の反転」

大和がついに主砲を敵艦に向けたのは、就役から3年近く経った1944年10月、レイテ沖海戦でした。

フィリピンに上陸したアメリカ軍を叩くべく、日本海軍は残存戦力のほぼすべてを投入します。大和を含む栗田艦隊は、囮の空母部隊が敵主力を引き付けている隙に、レイテ湾へ突入する役割を担いました。

10月25日、サマール沖。栗田艦隊はアメリカの護衛空母部隊と遭遇し、大和は初めて対艦砲撃を行います。

ところが、湾突入を目前にした午前9時過ぎ、栗田艦隊は突如反転し、退却しました。

世に言う「謎の反転」です。

なぜ反転したのか。敵主力接近の誤報を信じたという情報不足説。連日の空襲で指揮官の判断力が限界だったという疲労説。燃料と退路を考えた合理的判断説。いまだに決着はついておらず、栗田本人も戦後多くを語りませんでした。

確かなのは、極限状態の戦場では、指揮官でさえ正確な状況を把握できないということ。そしてこの海戦を最後に、日本海軍は組織的な水上艦隊としての戦闘能力を失ったということです。

大和が敵艦に主砲を撃ったのは、生涯でこの一度だけでした。

天一号作戦──合理性が消えた日

1945年4月。アメリカ軍が沖縄に上陸すると、大和に最後の命令が下ります。

沖縄への水上特攻、「天一号作戦」。

積み込まれたのは、事実上片道分の燃料。護衛の戦闘機は、ほぼゼロ。名目上は「沖縄に座礁して砲台になる」とされましたが、それが現実的でないことは軍令部内でも分かっていました。

軍事的な合理性は、ほとんどありません。ではなぜ、この作戦は承認されたのか。

残された記録が示すのは、「陸軍だけが沖縄で戦い、海軍だけが無傷で残るわけにはいかない」という組織の面子、そして「一億総特攻の先駆けとなる」という精神論でした。

合理性ではなく、面子が戦略を決めた瞬間です。

艦隊を率いた伊藤整一中将は当初、作戦の無謀さに強く反対したと伝えられます。それでも最終的に出撃を受け入れ、出撃前には少しでも命を救うため、候補生や病人ら約30名を退艦させました。

1945年4月7日、坊ノ岬沖。大和は約300機の米軍機に捕捉され、2時間足らずの集中攻撃の末、魚雷約10本と多数の爆弾を受けて転覆、爆沈しました。乗組員約3,300名のうち、生き残ったのは300名足らず。伊藤中将は退艦を勧める部下に応じず、艦とともに海に消えたと伝えられています。

戦艦の時代は、ここで名実ともに終わりました。

主役の交代──戦艦から空母へ

大和が沈んだ海の上を飛んでいたのは、空母から発進した航空機でした。

同じ太平洋で、アメリカの空母エンタープライズは20回以上の主要な戦いを生き抜き、「海戦の主役は空母と航空機である」ことを証明し続けていました([#003 USSエンタープライズ] の記事で書いた通りです)。

1906年、HMSドレッドノートが開いた戦艦の時代。 1941年、その頂点として生まれた大和。 そして1945年、大和の沈没とともに、主役は完全に空母へと移りました。

約40年間の「戦艦時代」の始まりと頂点と終わりを、この3隻がきれいに描き出しているのです。

おわりに──一隻の艦から、歴史が見える

大和を調べ終えて感じるのは、この艦が「巨大な戦艦」である以上に、「問い」の塊だということです。

なぜ組織は、自分で証明した新時代(航空主兵)に、自分だけ乗り遅れたのか。 なぜ国家は、一つの巨大プロジェクトにすべてを賭けたのか。 なぜ合理性のない作戦が、誰にも止められなかったのか。

成功体験が変化を妨げる。面子が判断を狂わせる。これらは80年前の海軍だけの話ではなく、現代の企業や組織でも繰り返される、普遍的な問題です。

一隻の艦の生涯をたどるだけで、国際条約の仕組みも、国内政治の暴走も、技術のパラダイムシフトも、組織の意思決定の怖さも、全部つながって見えてくる。これが「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことの面白さだと、あらためて感じています。

大和は戦果をほとんど残しませんでした。しかし「なぜ敗れたのか」を考える材料としては、これほど豊かな艦は他にありません。

次回も、一隻の艦を入口に、歴史の大きな流れをたどっていきます。


私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。 内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。


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