艦艇から学ぶ歴史 #008 リシュリュー──二つのフランスに引き裂かれた戦艦
艦艇から学ぶ歴史 #008 リシュリュー──同盟国に撃たれ、同胞と戦った戦艦
はじめに
リシュリュー。
調べる前の私が持っていたイメージは、「主砲を全部前に載せた、変わった形のフランス戦艦」という程度のものでした。艦影は知っているけれど、何をした艦なのかはよく知らない。そんな存在です。
しかし調べていくうちに、最も驚いたのは次の事実でした。
リシュリューは、連合国と枢軸国、その両方の側で戦っている。
最初に撃ち合った相手は、敵国ドイツではありません。つい1か月前まで同盟国だったイギリスです。しかも、そのイギリス艦隊と一緒に攻めてきたのは、同じフランス人の軍隊「自由フランス軍」でした。フランスの戦艦が、フランス人と撃ち合ったのです。
なぜそんなことが起きたのか。答えは、第二次世界大戦中に「フランスという国家が二つに割れていた」という、日本ではあまり語られない歴史にあります。
この記事では、リシュリューという一隻の戦艦を入口に、「国が敗れたとき、軍隊は誰に忠誠を誓うのか」という問いをたどっていきます。
勝ったのに疲れ果てていたフランス
物語の起点は、これまでの記事と同じく第一次世界大戦の終わりにあります。
フランスは戦勝国でした。しかしその代償は凄まじく、主戦場となった国土は荒廃し、若い男性の実に1割以上を失っていました。「もう二度と大規模な戦争はできない」──これが戦間期フランスの本音です。
そこに1922年、ワシントン海軍軍縮条約が結ばれます。HMSドレッドノートの記事で書いた、あの建艦競争を止めるための条約です。フランスも戦艦の保有量を制限され、新造戦艦は「基準排水量35,000トンまで」という上限が課されました。
疲弊した国家にとって、軍縮はむしろ好都合でした。フランス海軍はしばらく、新しい戦艦を持たない時代を過ごします。
その眠りを覚ましたのが、隣国の独裁者たちでした。
地中海のライバル、イタリア
1930年代、ムッソリーニ率いるイタリアが、381mm砲を積む新型戦艦「リットリオ級」の建造を発表します(この級の1隻が、以前記事にしたヴィットリオ・ヴェネトです)。
フランスの生命線は地中海にあります。北アフリカの植民地から兵士と物資を運ぶ航路をイタリアに握られれば、国防そのものが成り立ちません。
フランスはすでに、ドイツの「ポケット戦艦」対策として中型高速戦艦ダンケルク級を持っていました。しかし330mm砲のダンケルクでは、381mm砲のリットリオ級に力負けします。
こうして1935年、フランスは条約上限の35,000トンをフルに使い切る新型戦艦の建造を決断しました。艦名は、17世紀にフランス海軍の基礎を築いた宰相の名を取って「リシュリュー」。
ちなみにこの起工、実は条約で認められたフランスの建造枠を超過していました。イギリスは抗議しましたが、フランスは「そちらこそドイツと勝手に英独海軍協定を結んで再軍備を認めたではないか」と反論して建造を強行します。ドイツではビスマルクが、イタリアではヴィットリオ・ヴェネトが、そしてフランスではリシュリューが──条約という歯止めが外れ、ヨーロッパ中で新戦艦が一斉に船台に載った時代でした。
完成度95%、弾薬49発分での脱出
1939年9月、第二次世界大戦が勃発します。リシュリューの艤装工事は、ストライキや資材不足で遅れに遅れていました。
そして1940年5月、ドイツ軍の電撃戦がフランス陸軍を粉砕します。パリ陥落は6月14日。ドイツ軍の先鋒は、リシュリューが眠るブレスト軍港に迫っていました。
6月18日、リシュリューは港を脱出します。**完成度は95%、主砲の装薬はわずか49発分。**未完成の新鋭戦艦は、敵に接収されることだけを避けるため、西アフリカのフランス領・ダカールへと逃れました。
その4日後、フランスはドイツに降伏します。
ここから、フランスという国家の分裂が始まります。
二つのフランス
降伏後のフランスには、二つの「政府」が並び立ちました。
一つは、第一次世界大戦の英雄ペタン元帥が率いるヴィシー政権。ドイツと休戦協定を結び、フランス南部と海外植民地を統治する、国際法上は正統な政府です。多くの軍人・官僚・国民は、この政権に従いました。「これ以上国民を死なせない」という選択でもありました。
もう一つは、ロンドンに亡命したド・ゴール将軍が立ち上げた自由フランス。「フランスは戦いに敗れたが、戦争に敗れたのではない」と徹底抗戦を呼びかける亡命組織です。ただし発足当初の実態は、兵力数千人の小さな集団に過ぎませんでした。
どちらが本物のフランスなのか。当時、その答えは誰にも分かりませんでした。ダカールに逃れたリシュリューは、正統政府であるヴィシー政権の管理下に入ります。ごく自然な成り行きでした。
しかしこの「自然な成り行き」が、悲劇を呼び込みます。
カタパルト作戦──なぜイギリスは友軍を撃ったのか
1940年7月、イギリス首相チャーチルは、世界を驚かせる決断を下します。フランス艦隊への先制攻撃、カタパルト作戦です。
イギリスの恐怖は明確でした。フランス海軍は当時、世界第4位の実力を持っています。もしこの艦隊がドイツに接収され、ドイツ・イタリア海軍と合流すれば、海の力関係は一夜で逆転する。ドイツ本土上陸の危機に直面していたイギリスにとって、それは国家の存亡に関わる悪夢でした。
「休戦協定でフランス艦隊は武装解除されるはずだ」というヴィシー側の言い分を、チャーチルは信じませんでした。ヒトラーが約束を守った実績など、どこにもなかったからです。
7月3日、アルジェリアのメルス・エル・ケビール軍港で、イギリス艦隊がフランス艦隊に最後通牒を突きつけます。「合流か、武装解除か、自沈か。さもなくば攻撃する」。フランス側が拒否すると、砲撃が始まりました。つい先日まで大西洋で肩を並べて戦った友軍の艦隊に、です。この攻撃で約1,300人のフランス水兵が戦死し、前回記事の主役アーク・ロイヤルの雷撃機は、港内のダンケルクを攻撃しています。
そして7月8日、矛先はダカールのリシュリューにも向きました。空母ハーミーズから発進したソードフィッシュ雷撃機の魚雷1本が右舷後部に命中。浅い海底で爆発が反射して被害が倍増し、リシュリューは推進軸を破損して行動不能になります。
一発も撃ち合わないまま、リシュリューの初めての「敵」は同盟国イギリスになりました。
この攻撃はフランス海軍に、癒しがたい対英憎悪を植え付けます。そしてその憎悪が、次の悲劇の土壌になりました。
ダカール沖海戦──フランス人がフランス人と戦った日
1940年9月、ダカール沖に再びイギリス艦隊が現れます。今度は砲撃だけが目的ではありません。艦隊にはド・ゴールと自由フランス軍が同乗していました。ダカールを無血開城させ、西アフリカごと自由フランス側に引き込む計画です。
ド・ゴールは呼びかけました。「同じフランス人同士で戦うのはやめよう」と。
しかしダカール総督ボワソンは拒絶します。彼にとってド・ゴールは、正統政府に背いた反逆者であり、しかも2か月前に同胞1,300人を殺したイギリスの艦隊と一緒にやって来た男でした。
交渉は決裂し、砲撃戦が始まります。港に釘付けのリシュリューは「浮き砲台」として応戦し、副砲弾をイギリス戦艦バーラムに命中させました。一方でこの戦闘中、主砲塔内で砲弾が異常爆発する「腔発」事故が発生し、砲身が破裂しています。熱帯の気温で装薬の圧力が変わることを想定していなかった、設計上の欠陥でした。
戦闘は、イギリス戦艦レゾリューションがフランス潜水艦の魚雷で大破したことで幕を閉じます。イギリス軍は攻略を断念して撤退。ヴィシー側の「勝利」でした。
しかしこの海戦に、本当の勝者はいません。フランス人がフランス人に向けて引き金を引いたという事実だけが残りました。内戦は、リシュリューの艦上にまで及んでいたのです。
ニューヨークでの再生
転機は1942年11月に訪れます。連合軍が北アフリカに上陸した「トーチ作戦」です。
これを機に、北アフリカ・西アフリカのヴィシー派フランス軍は、雪崩を打って連合国側へ転向しました。ドイツが報復としてヴィシー政権の支配地域を占領し、「中立の正統政府」という建前が崩壊したためです。リシュリューも、ここでようやく連合国の一員になりました。
満身創痍のリシュリューが向かった先は、アメリカのニューヨーク海軍工廠でした。破裂した主砲身は、未完成の姉妹艦ジャン・バールの砲身を移植して修復。対空火器はすべて最新のアメリカ製に換装され、レーダーも搭載されます。さらにアメリカ国内には、リシュリュー専用の380mm砲弾の製造ラインまで新設されました。
2年前に魚雷を撃ち込んできた陣営が、今度は専用工場まで建てて支えてくれる。国際政治の「敵と味方」が、いかに流動的なものかを物語るエピソードです。
日本海軍と対峙したフランス戦艦
生まれ変わったリシュリューは、1944年からイギリス東洋艦隊に加わり、インド洋で日本軍と戦います。スマトラ島サバンなどの日本軍拠点を主砲で砲撃し、重巡洋艦・羽黒を撃沈した作戦にも参加しました。
そして1945年9月、シンガポールで行われた日本軍の降伏調印式に、リシュリューはフランス代表として立ち会います。
祖国の降伏を見送って亡命し、同盟国に撃たれ、同胞と撃ち合った戦艦が、5年後には戦勝国の代表として敵の降伏に立ち会う。これほど劇的な立場の反転を経験した軍艦は、そう多くありません。
1946年、リシュリューはついに祖国フランスへ帰還しました。竣工から6年、初めての凱旋でした。
まとめ──一隻の戦艦から、分断された国家が見える
振り返ってみましょう。
疲弊した戦勝国フランスが、イタリアとの建艦競争の末に生んだ条約型戦艦の到達点。それが完成した瞬間に祖国は崩壊し、艦はヴィシーと自由フランスという「二つのフランス」の狭間に取り残されました。同盟国イギリスに撃たれ、同胞の自由フランス軍と撃ち合い、最後は敵だったアメリカの手で再生されて、日本海軍との戦いで大戦を終える──。
リシュリューの艦歴は、そのまま「第二次世界大戦のフランス」という国家の物語です。教科書では「フランスは1940年に降伏した」の一行で終わってしまう出来事の裏に、政府が二つに割れ、軍人たちが「どちらのフランスに忠誠を誓うか」を突きつけられ、時に同胞と銃火を交えた4年間があったこと。それは一隻の戦艦を追いかけるだけで、驚くほど鮮明に見えてきます。
ドレッドノートで始まった建艦競争は、ビスマルクやヴィットリオ・ヴェネト、そしてリシュリューというヨーロッパ最後の戦艦世代を生みました。しかし彼らが戦った相手は、必ずしも「敵国」ではなかった。国家が敗れたとき、軍隊と兵器の運命がどれほど複雑になるか。リシュリューは、その最も雄弁な証人だと思います。
私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。
内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。
