艦艇から学ぶ歴史 #019 空母加賀──航空主兵という時代を、実体にした空母
艦艇から学ぶ歴史 #019 空母加賀──廃艦寸前の戦艦が、世界初の航空機動部隊を完成させた
はじめに
空母加賀。
調べる前の私のイメージは、「赤城とセットで語られる、真珠湾攻撃に参加した空母のひとつ」という程度のものでした。姉妹艦のような扱いを受けることも多く、正直、赤城と何が違うのかもよく分かっていませんでした。
ところが調べてみて、最も驚いたのはここでした。
加賀は、もともと空母になる予定の艦ではなかった。しかも一度は「廃艦」が決まっていた戦艦だった。
条約によって建造中止になった戦艦の船体が、まったく無関係な自然災害をきっかけに空母へと生まれ変わる。しかもその艦が、日本海軍最大の航空兵力を持つに至り、世界初の空母機動部隊を「完成」させる中核になる。赤城が空母時代の幕開けを告げた艦だとすれば、加賀はその幕開けを、実際に世界を驚かせる実戦部隊へと押し上げた艦でした。
この記事では、空母加賀という一隻を入口に、八八艦隊計画という戦艦中心の夢、ワシントン海軍軍縮条約という国際政治、関東大震災という偶然、そして真珠湾からミッドウェーへと至る航空主兵の時代をたどっていきます。
八八艦隊計画という夢──なぜ日本は巨大戦艦を目指したのか
物語は、日露戦争(1904〜1905年)の勝利から始まります。日本は大国ロシアに勝利したものの、工業力・国力ではまだアメリカやイギリスに大きく劣っていました。「量で対抗できないなら、常に最新鋭の艦隊を保持する」という発想から、日本海軍は八八艦隊計画を掲げます。戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を、常に世界最新の状態で維持し続けるという、当時としては空前の規模の建艦構想でした。
1917年、帝国議会はこの計画の一部として、戦艦「陸奥」「加賀」「土佐」、巡洋戦艦「天城」「赤城」の建造予算を承認します。加賀は1920年7月、神戸の川崎造船所で戦艦として起工されました。基準排水量約4万トン、40cm主砲10門を備える、当時世界最大級の超弩級戦艦になるはずでした。
当時、巨大戦艦は国力・技術力・国家威信そのものの象徴でした。一隻の建造に国家予算級の費用がかかり、保有数がそのまま列強としての地位を意味すると考えられていた時代です。しかし、この発想こそが、まもなく世界を財政的に追い詰めていくことになります。
ワシントン軍縮条約という激震──「抜け道」としての空母転用
第一次世界大戦後も続く建艦競争は、各国の財政を疲弊させていました。1921〜22年、アメリカの提唱で開かれたワシントン会議の結果、ワシントン海軍軍縮条約が成立します。主力艦の保有比率は、イギリス5・アメリカ5・日本3・フランス1.75・イタリア1.75と定められました。
この「5:5:3」という数字は、日本海軍内で「対米7割は確保すべきだ」という主張と衝突し、のちの艦隊派・条約派対立の火種となっていきます。条約により、建造中だった多くの戦艦・巡洋戦艦は廃棄を命じられ、加賀も戦艦としては建造中止となりました。加賀と土佐は、当初は標的艦としての利用後、解体される運命にあったのです。
しかしこの条約には、重要な例外規定がありました。「建造中の主力艦のうち、一定の制限内であれば航空母艦への改造を認める」というものです。当時、空母はまだ補助艦艇とみなされ、戦艦のような厳格な制限の対象外でした。この抜け道により、建造中止となっていた巡洋戦艦「天城」「赤城」の2隻が、空母への改造対象に選ばれます。加賀・土佐という戦艦2隻は、この時点ではまだ対象に含まれていませんでした。
ここに、20世紀海軍史の大きな逆説があります。戦艦の建造を制限するために結ばれた条約こそが、各国に空母という新しい兵器の研究を強制し、結果として空母時代の到来を早めたのです。アメリカもまた同様の事情で、レキシントン級巡洋戦艦の船体をレキシントン・サラトガという空母に転用しています。この時点での加賀は、あくまで「廃艦予定の戦艦」に過ぎませんでした。
関東大震災、もうひとつの偶然──天城の脱落と加賀の代艦化
1923年9月1日、関東大震災が発生します。この震災は、横須賀海軍工廠で空母への改造工事中だった巡洋戦艦「天城」に致命的な被害を与えました。船体の背骨にあたる竜骨が損傷し、修復不能と判定されたのです。
空母改造が決まっていた天城が失われた以上、日本海軍は代艦をどうするかという重大な決断を迫られます。白羽の矢が立ったのは、建造中止となり神戸で放置されていた戦艦「加賀」でした。こうして1923年12月、加賀の空母への改装工事が始まります。
国際政治の力(条約)によって一度は運命を絶たれた艦が、自然災害という誰にも予測できなかった偶然によって、もう一度、生き延びる道を与えられる。加賀という艦の出発点には、この二重の偶然が刻まれています。同型艦「土佐」は空母転用の対象とならず、1925年に海没処分されました。生まれを同じくしながら、加賀と土佐はまったく異なる運命をたどった姉妹艦です。
三段甲板という失敗作──空母設計、手探りの時代
1928年3月、加賀は航空母艦として竣工します。当初採用されたのは、発艦と着艦を別々の甲板で行う三段式飛行甲板でした。当時の日本海軍は、まだ「空母にとって最適な甲板構造とは何か」という基本的な設計解すら手探りの段階にあったのです。
竣工当初の加賀は、煙突を艦体側面から艦尾方向へ長く伸ばして排煙する独自の構造も採用していました。しかしこの設計は、居住区が排煙熱で酷暑となり、艦尾方向への排煙が着艦時の気流を乱すという深刻な欠陥を生みます。航空機の大型化・高速化が急速に進む中、三段甲板という発想そのものがすぐに陳腐化していきました。
こうした失敗を経て、加賀は1934〜1935年、一段の全通式飛行甲板へと大改装されます。同時期、姉妹格の赤城も同様の改装を受けました。試行錯誤の末にたどり着いたこの全通甲板こそ、のちに真珠湾攻撃を実現する空母の基本形になっていきます。
赤城と加賀──「頭脳」と「拳」、異母兄弟の空母
ここで押さえておきたいのが、赤城と加賀の関係です。両艦はよく同型艦のように扱われますが、本来の出自はまったく異なります。赤城は巡洋戦艦「天城型」から、加賀は戦艦「加賀型」から改装された、いわば異母兄弟の空母です。外見が似ているのは、三段甲板の失敗という共通の設計課題に、それぞれ独立して対応した結果に過ぎません。
赤城の研究ノートでは、この艦を「軍縮条約の抜け道として戦艦になれなかった艦が、空母機動部隊の旗艦になった」という転換の物語として描きました。加賀の物語の核心は、少し違います。加賀は赤城以上に数奇な経緯(震災による代艦化)で生まれながら、赤城以上の搭載機数・攻撃力を持つ艦へと育て上げられました。赤城が担った「頭脳(指揮)」に対する「拳(攻撃力)」として、この巨大な打撃力があったからこそ、「複数空母の集中運用」という構想は、絵に描いた餅ではなく、実戦可能なドクトリンとして完成したのです。
第一次上海事変──日本海軍、空母実戦の初陣
1932年、第一次上海事変が勃発します。加賀は、日本海軍の空母として初めて実戦に投入された艦となりました。この経験は、日本海軍が「空母をどう実戦で運用するか」という技術と戦術を蓄積していく最初の一歩となります。
まだ世界のどの海軍も、空母を主力兵器として本格運用した実例を持たない時代でした。加賀のこの初陣は、地味ながらも、9年後の真珠湾攻撃へとつながる技術的な土台のひとつになっていきます。
第一航空艦隊の誕生──世界初の空母機動部隊はなぜ生まれたか
1940年、小沢治三郎少将は「航空艦隊編成に関する意見書」を海軍大臣に提出します。複数の空母を分散配備するのではなく、一つの艦隊として集中運用することで、圧倒的な航空打撃力を生み出そうという構想でした。
そして1941年4月10日、第一航空艦隊が編成されます。赤城・加賀を中核に、蒼龍・飛龍らを加えたこの部隊は、世界のどの海軍もまだ実現していなかった「複数の大型空母を一つの艦隊として運用する」というドクトリンを、初めて実戦レベルで体現した組織でした。イギリスがアーク・ロイヤルという単艦で航空戦力の可能性を模索し、アメリカがエンタープライズをはじめとする空母を分散配備していた時期、日本はすでにその一歩先、「集中」という発想にたどり着いていたのです。
加賀は、この第一航空艦隊において艦体規模・搭載機数ともに最大級の空母でした。赤城が指揮機能を担う「頭脳」だったのに対し、加賀はその巨大な航空打撃力によって、部隊全体の「拳」としての実戦能力を支える存在になります。
真珠湾攻撃──航空主兵の実戦的証明
1941年12月8日(日本時間)、第一航空艦隊はハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲します。赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴という6隻の正規空母を集中運用したこの作戦は、世界の海軍史において前例のない規模の航空打撃でした。
加賀はこの中で、実際の攻撃隊数においても中核を担いました。「複数の大型空母を集中運用し、圧倒的な航空打撃力を生み出す」という構想は、加賀のような大搭載量の艦があって初めて、机上の理論から実戦の現実へと変わったのです。
この攻撃のわずか数日後、日本の陸上機がマレー沖でイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈します。「戦艦は航空機に勝てない」という現実は、真珠湾とマレー沖という二つの海域で、ほぼ同時に証明されることになりました。大艦巨砲主義の時代が、この年、音を立てて終わっていく瞬間でした。
インド洋作戦──日本海軍、絶頂の瞬間
1942年4月、第一航空艦隊はインド洋へ進出し、イギリス東洋艦隊への攻撃作戦を展開します。真珠湾に続くこの作戦の成功によって、日本海軍の機動部隊は、その戦力の絶頂を迎えていました。
しかしこの成功体験こそが、のちに大きな落とし穴になっていきます。連戦連勝は、機動部隊への過信を生み、暗号の運用や索敵の徹底といった地道な備えを、次第に軽視させていくことになったのです。
ミッドウェー海戦──なぜ世界最強の機動部隊は敗れたのか
1942年5月の珊瑚海海戦で、空母翔鶴・瑞鶴が損耗し、この2隻はミッドウェー作戦に参加できなくなります。世界最強と目された機動部隊は、この時点ですでに戦力を減らした状態で、次の海戦に臨むことになりました。
1942年6月4〜5日、ミッドウェー海戦。アメリカ側は暗号解読によって日本側の作戦計画をあらかじめ把握しており、索敵の不徹底も重なって、日本の空母部隊は先手を取られます。加賀は、赤城・蒼龍とともに被弾し、格納庫内に置かれていた燃料と兵装の誘爆によって炎上、翌6月5日に自沈処分されました。
かつて語られてきた「攻撃隊が甲板上に並んでいた運命の5分間で被弾した」という通説は、ジョナサン・パーシャルとアンソニー・タリーによる研究(Shattered Sword)以降、実証的に否定されています。実際の致命傷は、密閉された格納庫内の燃料・兵装の誘爆でした。攻撃力を最大化するために燃料と兵装を大量に抱え込む設計そのものが、被弾時の脆弱性を生んでいたのです。この海戦で、日本海軍は赤城・加賀・蒼龍・飛龍という主力空母4隻すべてを失い、以後、攻勢から防勢へと立場を転じていくことになります。
おわりに──一隻の艦から見える、「完成」と「終わり」
空母加賀を調べ終えて感じるのは、この艦が「真珠湾に参加した空母のひとつ」である以上に、「航空主兵という新しい戦争の形を、思想から実体へと完成させた艦」だということです。
八八艦隊計画という戦艦中心の夢、ワシントン軍縮条約という国際政治、関東大震災という自然の偶然、三段甲板という技術的な失敗、そして赤城との役割分担によって完成した世界初の空母機動部隊。これらは別々の出来事ではなく、一隻の艦の生涯をたどるだけで、政治・技術・軍事思想が織りなす一本の因果の鎖として見えてきます。
戦艦大和が「大艦巨砲主義の頂点でありながら、その時代の終わりを告げた艦」だったとすれば、加賀は「航空主兵という次の時代を、実際に世界へ証明した艦」でした。二重の偶然によって生まれたものが、後に歴史を動かす中核になり得る──加賀の物語は、そんな普遍的な教訓も静かに伝えてくれます。
加賀が残したのは、一隻の空母としての戦果だけではありません。
航空機を中心に艦隊を運用するという発想そのものが、その後の世界の海軍を変えていきました。
加賀は、その転換点を象徴する一隻だったのです。
これが「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことの面白さだと、あらためて感じています。
私は「艦艇そのもの」ではなく、「艦艇を入口として歴史を学ぶ」ことを目的に研究ノートを作成しています。 内容について誤りや補足、別の見解などがありましたら、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。
