【短編小説】腕時計は黙っている
波の音だけが聞こえる日曜日がまた終わりそう。
車の中には、タバコの煙が充満していた。隣に座る彼をちらりと見る。タバコを吸うその手に腕時計はない。
彼の腕時計を、外すのが好きだった。それをつけ直すときの、やわらかな仕草が好きだった。
この頃、彼は腕時計をつけない。わたしといるのがいやになったのかもしれない。
彼とのデートはいつも車の中で、ドライブコースもいつも同じ。ドライブとも言えないような、たいくつな道をただ走るだけ。最後はいつも、家の近くの海の前で止まって、ふたりでぼうっとするだけ。
新しいキャミソールを着ようが、ふわふわのスカートを履こうが、彼はいつもよれよれのTシャツを着てわたしの隣に座っているだけ。でもわたしが腹を立てているのは、そんなことだけじゃないのだ。のんきな彼に足りていないのは、ほんの少しの言葉だ。
わたしを安心させる言葉を吐いてほしい口からは、煙草の煙しか出てこない。波の音だけが大きくて、この日、五度目のため息が隣から聞こえた瞬間、もう限界だと思った。
「帰ろう」
「え?」
「車出して。帰りたい」
「なに、ごめん、なんか怒ってる?」
理由も分からないのに謝るな、と思いながら睨みつけたら、彼は困った顔でぼさぼさの頭をかいた。
「もう好きじゃないんでしょ。だから黙ってるんでしょ。煙草もいっぱい吸うんでしょ」
「え、え」
「腕時計もしないし!」
戸惑う彼を無視して車から降りる。助手席の扉を勢いよく閉めた。
「好きなら」
彼が慌てて扉を開ける。ぐっと顔を近づけ、驚いて目をつむった彼の鼻先で息を吸い込む。
「そうだって言ってみろ」
それだけ言うとわたしはすぐに踵を返し、家への道を歩き出した。少し無理をして履いてきたミュールが痛い。履いた意味がなかったな。彼は追いかけてもこず、靴ずれが痛みを超えて痒くなるころ、なんだかとても悲しくなった。
次の週、いつも通りの時間にわたしをデートに誘いにきた彼は、髪を切っていた。
「おれが黙ってるのはさあ」
いつもの場所で車の窓を開け、波の音を聞きながら彼は呟いた。
「きみが、無口が好きって言ったから」
車内には、防臭剤のあまい匂いが漂っていた。彼は今どんな顔をしているだろう。
「タバコはかっこいいって言った。腕時計は、きみが嫌がってるとおもった」
ごめんね、と彼は言った。タバコを吸わないその手には、懐かしい腕時計がついていた。
「好きだよ」
まっすぐすぎた。彼はそういう人だった。言葉が足りないのはわたしの方で、こんなにも愛おしく思う気持ちが何も伝えられていなかった。それどころか、気づいてもわたしは彼のように、ごめんねも好きだよも言えない。
わたしは黙って彼の腕時計を外す。困ったように時計を付けなおす彼の、額を隠す前髪を避け、そっとキスをする。波の音が聞こえる。
2009.08.22初稿/2026.07.18改稿
「波の音」から始まる
