ヒップホップを二つに割った戦争—East vs West 1990年代最大の抗争全史
今日は、以前投稿した『主要レーベル完全ガイド』に書いた二大レーベルDeath Row Records(デス・ロウ・レコーズ)とBad Boy Records(バッド・ボーイ・レコーズ)の対立について触れていきたいと思います。
ニューヨークとロサンゼルスが憎み合った時代。そしてその先に待っていたのは、誰も望まなかった結末だった
1995年8月3日、ニューヨーク。
ヒップホップ界最大の授賞式「The Source Awards」の会場が、異様な緊張に包まれていました。
ステージに上がったのは Death Row Records(デス・ロウ・レコーズ)のCEO、Suge Knight(シュグ・ナイト)。身長190cm、体重150kgを超える元フットボール選手の男が、マイクを握りながら静かに、しかし明確な敵意をにじませてこう言い放ちました。
「アーティストとして生き続けたい人間、プロデューサーが自分のビデオに出しゃばってくるのが嫌な人間は、Death Row に来い」
会場はニューヨーク。東海岸のヒップホップファンで埋め尽くされた空間で放たれたこの一言は、Bad Boy Records(バッド・ボーイ・レコーズ)のオーナー、Puff Daddy(パフ・ダディ)への明確な挑戦状でした。会場からは大きなブーイングが響きました。
その瞬間、ヒップホップの東西戦争は始まっていました。
ヒップホップはもともと、ニューヨークのものだった

話を少し遡らせてください。
1970年代、ヒップホップはニューヨークのサウスブロンクスで生まれました。DJ Kool Herc(クール・ハーク)、Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)、Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)が作り上げたこの音楽は、貧困と差別の中で生きる黒人コミュニティの声であり、ニューヨークという都市の産物でした。
「ヒップホップはニューヨークのもの」という意識は、1980年代に入っても根強く残っていました。そこに風穴を開けたのが、ロサンゼルス出身の N.W.A(ニガーズ・ウィズ・アティテュード)です。
1988年、Dr. Dre(ドクター・ドレー)、Ice Cube(アイス・キューブ)、Eazy-E(イージー・イー)らが結成した N.W.A は、アルバム『Straight Outta Compton』でギャングスタラップというジャンルを確立。
コンプトンの路上の現実をそのまま音楽にした彼らのスタイルは、ニューヨークとはまったく異なるものでした。ウェストコーストが「俺たちもここにいる」と宣言した瞬間でした。
1990年代初頭、ウェストコーストはヒップホップシーンの主流を席巻し始めます。その勢いの中心にいたのが、Death Row Records という名のレーベルでした。
恐怖で作り上げた帝国—Suge Knight という男
Death Row Records は1991年、Suge Knight と Dr. Dre によって設立されました。
でもその誕生の背景には、音楽業界の歴史の中でも最も暴力的な逸話が潜んでいます。
当時、Dr. Dre は N.W.A の Eazy-E が経営する Ruthless Records と契約中でした。Suge Knight はそのDreをどうしても欲しかった。交渉の席に着いた Knight は、ただ話し合いをしに来たのではありませんでした。鉄パイプと野球バットを持った仲間を引き連れてきたのです。
当時 Ruthless Records のマネージャーだった Jerry Heller はこう振り返っています。「Suge Knight は Dre の契約を解除させるために、彼と鉄パイプと野球バットで俺たちを脅した」と。
Eazy-E 自身も後に語っています。「書類にサインするか、ボコられるか、戦うかの選択だった」と。
Eazy-E は契約解除にサインしました。こうして Dr. Dre は Death Row Records に移り、1992年に『The Chronic』をリリース。
ウェストコーストのG-ファンク(ギャングスタラップとファンクを融合させたサウンド)というジャンルを確立し、Snoop Dogg(スヌープ・ドッグ)のデビューも含め、Death Row は一気にヒップホップシーンの頂点に立ちます。
Suge Knight のビジネス手法はその後も変わりませんでした。所属アーティストには低いロイヤリティを設定し、反論する者には暴力的な威圧を加え、ギャング組織 Mob Piru Bloods(モブ・ピル・ブラッズ)のメンバーをスタジオのセキュリティとして雇い入れた。音楽レーベルというより、恐怖で動く組織でした。
後の裁判の証言によれば、Knight はある交渉の場でフライドチキン一桶を一人で黙々と食べながら相手の弁護士に一言も話しかけず、圧倒的な威圧感だけで交渉を「成立」させたといいます。
これが Death Row Records という帝国の実態でした。
東海岸に現れた王—Biggie と Bad Boy Records

ウェストコーストで Death Row が台頭していた1993年、ニューヨークでは若き Puff Daddy(ショーン・コムズ)が Bad Boy Records を設立します。
かつて Uptown Records でインターンから這い上がり、A&R(Artist & Repertoireの略。レコード会社や音楽レーベルにおいて、アーティストの発掘・育成、楽曲制作、マーケティング、宣伝戦略を一貫して担当するプロデューサー職のことです)のポジションを掴んだものの解雇されたコムズは、自分自身のレーベルを作ることを決めました。
そして最初に引いた切り札が、ブルックリン出身のラッパー The Notorious B.I.G.(ノトーリアス・B.I.G.)、通称 Biggie Smalls でした。
1994年のデビューアルバム『Ready to Die』は批評家から絶賛を受け、Biggie はイーストコースト・ヒップホップの新しい王として台頭します。「流れるような語り口、複雑な韻、路上の現実と成功の矛盾を同時に語る詩」——Biggie のスタイルは、Death Row の攻撃的なG-ファンクとはまったく異なる種類の力を持っていました。
Bad Boy と Death Row。ニューヨークとロサンゼルス。この二大レーベルの対立は、やがてヒップホップシーン全体を二分する「戦争」へと発展していくことになります。
Source Awards—最初の火花
冒頭の1995年の Source Awards での Suge Knight の発言に戻りましょう。
ニューヨークで行われたこの授賞式で、彼は Puff Daddy への個人攻撃を全世界に向けて宣言しました。Puff Daddy が自分のアーティストのミュージックビデオに頻繁に登場することを皮肉った、あの「プロデューサーがビデオに踊りに来るレーベルには行くな」という発言です。
ブーイングの嵐の中で、Knight はまったく動じませんでした。
この発言は東海岸のアーティスト全員への宣戦布告として受け取られました。コムズ本人は後にこの夜を「人生で最も危険な夜のひとつだった」と語っています。
そして同じ夜、Knight はもうひとつの決断を下しています。当時ニューヨークの刑務所に収監されていた 2Pac(トゥーパック・シャクール)の保釈金140万ドルを肩代わりする、という決断です。
それがこの戦争に、最も重要なピースを加えることになりました。
2Pac という爆弾

2Pac、本名 Tupac Amaru Shakur。1971年6月16日生まれ。
ニューヨーク生まれ、カリフォルニア育ちという出自を持つ2Pac は、当時すでに「天才」として認められていたラッパーでした。
社会問題への鋭い視点、感情的な深さ、圧倒的なカリスマ性を兼ね備え、俳優としても活躍していた彼は、ヒップホップという枠をはるかに超えた存在になりつつありました。
しかし1994年11月30日夜、2Pac はニューヨーク・タイムズスクエアのクアッドレコーディングスタジオで5発の銃弾を受けます。奇跡的に生き延びた2Pac は、この射撃の背後に Bad Boy Records、つまり Biggie と Puff Daddy が関与していると確信しました。
Bad Boy 側はこれを完全否定しました。しかし2Pac は信じなかった。
1995年10月、Suge Knight が140万ドルの保釈金を払って2Pac を刑務所から解放し、Death Row と契約を結ばせた瞬間——2Pac という最も危険な爆弾が、東西戦争に投下されたのです………。
「Hit 'Em Up」—音楽の歴史上最も凶暴なディストラック

Death Row と契約した2Pac は、その後怒りを音楽に叩き込み始めます。
「Against All Odds」「Bomb First (My Second Reply)」と、Bad Boy への攻撃を続けた後、1996年6月にリリースされた「Hit 'Em Up」は、それまでのすべてを超えた一曲でした。
Biggie の妻 Faith Evans(フェイス・エヴァンス)と自分が性的関係を持ったと主張するラインで始まり、Biggie、Puff Daddy、Mobb Deep(モブ・ディープ)、Chino XL を名指しで攻撃し続ける、7分間の宣戦布告。ヒップホップ史上最も凶暴なディストラックとして、今も語り継がれています。
東海岸からの反応は即座でした。
Mobb Deep が「Drop a Gem on 'Em」で反撃し、ファンたちはどちらの陣営につくかを迫られるような空気が広がりました。
しかし Biggie 本人は、公式のディストラックを最後まで出しませんでした。一部の歌詞が2Pac へのサブリミナルな攻撃だったという説はありますが、Biggie はあくまで名指しでの反撃を避け続けました。「もし俺が2Pacをディスするなら、名前を出してやる」と Puff Daddy は言っていたといいます。
戦争の終わり—そして誰も望まなかった結末へ
1996年9月7日夜、ラスベガス。
マイク・タイソンのボクシングの試合を観戦した後、2Pac と Suge Knight を乗せた車が、白い BMW に銃撃されます。
2Pac は6発の弾丸を受け、6日後の9月13日に息を引き取りました。25歳でした。
その6ヶ月後、1997年3月9日、ニューヨーク。
Bad Boy のパーティを終えて車に乗り込んだ Biggie が、隣に止まった黒い Chevrolet Impala から銃撃されます。
4発の弾丸を受け、現場近くの病院で死亡が確認されました。24歳でした。
二人の死はヒップホップの世界を震撼させました。6ヶ月の間に時代を象徴する2人のラッパーが失われた——この悲劇がどれほどの喪失だったかは、それ以後の音楽の歴史が証明しています。
どちらの事件も現在に至るまで「未解決」のままです。
この戦争は、何だったのか
東西抗争の終わりは、どちらかの「勝利」ではありませんでした。
2Pac と Biggie の死後、1997年にはネーション・オブ・イスラムの Louis Farrakhan(ルイ・ファラカン)の仲介による「和平サミット」が開かれ、両陣営は停戦を宣言。
Death Row Records は Suge Knight の逮捕(1997年)を機に急速に衰退し、Bad Boy Records も商業的な黄金期を終えていきました。
二つの巨大レーベルの抗争は、最終的に誰も得をしない形で幕を閉じました。
しかし、この戦争が残したものは計り知れません。2Pac と Biggie という二人の天才が、もし生きていたら何を作り出していたか。それを想像するたびに、ヒップホップ史の最大の「もしも」として、この問いは繰り返されます。
Nas と Dr. Dre は抗争の最中、協力してアルバムを制作しながら「この対立はバカげている、一緒に金を稼げ」と歌いました。
Dr. Dre 自身、当時のインタビューで「くだらない(bullshit)」と吐き捨てていました。
戦争の中で最も冷静だったのは、実はその渦中にいた人間たちだったのかもしれません。
そして2Pac と Biggie の話へ
East vs West の戦争という「舞台」は、ここまでです。
でもこの物語には、まだ語られていない核心があります。
「Hit 'Em Up」を生み出した2Pac という人間は、いったい何者だったのか。ディストラックを出さなかった Biggie は、本当は何を考えていたのか。
そして二人はかつて、親友だったという事実を——あなたは知っていますか。
東西抗争の「舞台」や「構造」の話は終わりました。
次は「人間」の話です。
なぜ2Pac は怒り続けたのか。なぜ Biggie は反撃しなかったのか。二人の死の真相に、いったい何があったのか。
ヒップホップ史上最も悲劇的なビーフの全貌は、次の記事で。
お楽しみに!
