古代史「通説」の功罪 ~誰が聖徳太子が国書を贈ったと言ったのか~
古代史には謎が多いです。
まず残っている文献や史跡が圧倒的に少ない。昔はビデオもYouTubeも、活字だってありませんし。これは嘆いてもしかたない。
また、「歴史は勝者によって作られる」の格言のとおり、史書が勝者の都合の良いように脚色され、虚像になるとともに、しばしば辻褄が合わなくなり、古代史をミステリアスにしています。
加えて。学校の教科書も含め、誰かが決めた史跡・史書の「通説」「解釈」が、正しい歴史認識や研究の障害になっているのでは、と感じています。
1.「通説」の例 聖徳太子の国書
学校で私は、聖徳太子が隋の煬帝に「日出ずるところの天子、日没する国の天子に贈る」との国書を贈り、煬帝を怒らせたと習いました。
しかし日本書紀と隋書を並べれば、様子が違うことがすぐに分かります。国書を聖徳太子が贈ったようには、とうてい、見えないのです。
まず隋書はこちら。
大業三年(607年)、其の王多利思比孤、使いを遣わして朝貢せしむ。使者曰く、
「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、かねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ。」
其の国書に曰く、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々」と。
帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く、
「蛮夷の書、無礼なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。
明年(608年)、上、文林郎裴清を遣わして倭国に使いせしむ。
国書の内容は学校でおなじみですが、使者を送った者は倭国の王の多利思比孤です。
次に日本書紀。
物語は推古16年(608年)4月、前年に大唐(*)に渡っていた小野妹子が、大唐の使人裴世清とともに筑紫に到着。6月、難波津に入る。8月、都へ入る。大和は飾り馬75匹を遣わし、額田部連比羅夫が挨拶、裴世清は唐の進物を贈呈するなど歓待ムードの中、8月、都に入った裴世清が皇帝からの書を言上します。
「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高(小野妹子の中国名)らが訪れてよく意を伝えてくれた。~中略~天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。懇ろな誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無事である。鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物を届ける」と。
このとき皇子・諸王・諸臣はみな冠に金の飾りをつけた。衣服には錦・紫・縫・織および三色織の薄物をもちいた。客たちを朝廷で饗応された。
9月11日、客人裴世清たちは帰ることになった。小野妹子臣を大使とし ~中略~、天皇は唐の君をとぶらって述べられるのに、
「東の天皇が、謹んで西の皇帝に申し上げます。使人鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来たり、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候になりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。当方は無事です。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」と言われた。
説明するまでもなく、隋書・日本書紀ともに、聖徳太子のショの字も登場しません。そして何より、両者は違う話のようです。整理すれば以下;
(1)聖徳太子の名は隋書・日本書紀とも登場しない
見てのとおり。日本書紀での裴世清の歓待の場面でも、聖徳太子は全く登場しません。4カ月も滞在し、複数の者が歓待の輪に参加しているのに。
隋書の「倭国王多利思比孤」が聖徳太子だという議論はよくありますが、名前が違うし国王じゃないし。空想の域を出ない「トンデモ説」であって、教科書に載せていい根拠は見当たりません。
(2)大和は国書を送っていない
万が一、倭国王多利思比孤は聖徳太子としましょうか。でも日本書紀には、そもそも大和朝廷が中国王朝に書簡を送ったとの記述がありません。
推古天皇が「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます」と似たコメントをしてますが、これは裴世清に託した皇帝への伝言で、これを国書にしたためて皇帝に差し出すとすれば、609年頃に届くので、隋書の「日出ずる国の~」の国書とはあきらかに別物です。逆に607年に国書を送ったとすると、数年内に似た趣旨の国書を出しなおす道理がありません。
(3)大和朝廷にとって初めての中国との国交
日本書紀で推古が明言しています。裴世清が中国からの使者として初めて来日したことで、ずっと願っていた国交がついに樹立したとあります。そして大和朝廷の群臣も最上の敬意を表した正装で裴世清を歓待、多くの晩餐を施します。
今でいうと初めてトランプさんが来た!でさえなく、トランプ政権の外交官が来た!だけでこの厚遇。大和朝廷にとって、どんなに待ち望んだ国交だったのでしょう。
一方で倭国は、倭の五王の時代から毎年朝貢していたとあり、隋書倭国伝の中にも国書事件の前に朝貢の記事があります。つまり中国とは久しく交流があったのです。
この点からも、国書を送ったのはそもそも大和朝廷ですらないのです。(この話は、当マガジン第1章~第5章をお読みいただければと思います)
2.これでいいのか、古代史の通説
これをお読みいただいて、どう思われましたか?
「日出ずる処の天子」の国書を聖徳太子が贈った、というのが古代史の「通説」になっていて、日本の歴史教科書はこれを載せ、長年に渡り日本人に暗記させています。私はこれは非常におかしい、それこそ「陰謀論では?」と思うのです。誰がこの「通説」を決めたんでしょうね。そして教科書検定はどんな根拠でこれを載せてきたのでしょう。
この状況を変えるきっかけになるのがSNSでは?と思っています。ちょうど政治や選挙の世界と同じように。
政治や選挙の世界は、これまで、「一般市民からは遠いところにある閉鎖的な専門集団」と思われていたのではないかと思います。国会はヤジばかりで、予算委員会でゴシップを議論する、中国が領海侵犯してもマスコミは穏便に済ませようとする、など一般市民にはすごくおかしいと思われることでも、「政治を知らんもんが口出しするな」「そういうもんだ」だったわけです。それがSNSの登場で、市民一人ひとりが常識的に意見を発信し、同調者が「いいね」でつながり、巨大な意見を形成できる時代になりつつあります。その結果、旧来のマスコミはオールドと言われ、議員の活動も今後大きく様変わりするでしょう。
これを古代史に当てはめると、これまで長い間、古代史の解釈・通説はおそらく史学会の諸兄によって形成され、それを学会誌やマスメディアが流通させてきたと思います。今は、「何故?」「こうでは?」と素朴に思う人が、直接意見を示せる場があります。このようなアクションが、歴史学会の研究に影響を与えることだってできるのではないでしょうか。今はあまり注目されておらず、大きなムーブメントになるには程遠いですが、政治だってこうなったんだから古代史だっていつかは!と思っています。この点に同調してくれる人が一人でもいれば、とても嬉しいです。
