僕は「移民」を名乗っていいのか
「あいつらは出ていけ」
プラカードの文字を読んだとき、自分がどちら側にいるのか、少しだけわからなくなった。
バルセロナの広場で、デモを見ていた。
移民反対のデモだった。
僕は、移民だ。
でも、誰も僕には何も言わなかった。
プラカードを持つ人たちも、隣を歩く人たちも、僕を見て何も感じなかったんだろう。
ショルダーバッグを持ったアジア人が、広場の端に立っている。
それだけだ。
「移民」という言葉の中に、僕は入っているんだろうか。
そのデモが向けている怒りは、どう考えても日本人ではなかった。
失業への不満が、住宅費の高騰への怒りが、「外から来た人間のせいだ」という感情に変わっていた。
それがプラカードになって、広場に並んでいた。
僕は、その場に立ちながら、奇妙な居心地の悪さを感じていた。
同情でも、怒りでも、恐怖でもない。
自分が「安全な移民」だということへの、後ろめたさのようなもの。
日本にいた頃、外国人労働者の問題をニュースで見るたびに「大変だな」と思っていた。
でも他人事だった。
スペインに来てからも、しばらくはそうだった。
書類上は移民でも、「移民として扱われる」経験がほとんどなかった。
誰にも怒鳴られなかった。
仕事を断られたこともない。
部屋を貸してもらえなかったこともない。
同じ「移民」という言葉の中にいるはずなのに、受け取る視線がまるで違う。
パスポートの色。
見た目。
経済的な背景。
「どこから来たか」ではなく、「どこからに見えるか」。
それがすべてを分けていた。
デモが終わった後、近くの店に入った。
隣のテーブルに、アフリカ系の男性が一人で座っていた。
コーヒーを飲みながら、静かに外を見ていた。
さっきの広場が見えていたかもしれない。
見えていなかったかもしれない。
僕は何も言わなかった。
言える言葉が、見つからなかった。
あのデモで、僕は反対する側にも、守られるべき側にもいなかった。
どちらでもない場所に立っていた。
そのどちらでもなさが、たぶん一番正直な場所だった。
今でも、「移民」という言葉を使うとき、少し迷う。
「僕も移民ですから」と言うと、おこがましい気がする。
でも「違います」と言うのも、どこか嘘くさい。
あの男性のことを、時々思い出す。
同じ広場にいた。
同じ「移民」という言葉の中にいたはずだった。
今日も街を歩いていると、すれ違う人がいる。
どこから来て、何を背負っているのか、僕にはわからない。
わからないまま、同じ街にいる。
羊
マガジン:LIFE EDITED
地中海から見えた、もう一つの世界
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10年後、最も価値が上がるスキルは おそらくプログラミングでも英語でもない。
— 羊 (@USStockSheep) March 15, 2026
・自分で食料を作れること
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文明が複雑になるほど 「原始的な自給力」が最強の武器になる。
