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100日書いて気づいたこと ― 昭和を生きた私の記憶を手渡すように

書き続けて100日。父の思い出や昭和に育った自分の記憶を、少しでも形に残したいと思って始めたnoteが、今では自分を支える習慣になった。断片だった記憶が、書くことで線になり、誰かにそっと手渡すように届いていく——そんな「書くこと」の意味について綴ったエッセイ。


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noteを始めて今日でちょうど100日になる。これで101本目の投稿だ。退職して時間を持て余すようになり、時間つぶしのひとつとして「何かを書こう」と思い、たどり着いたのがnoteだった。

書き始めた理由はもうひとつある。NHKドラマ「あんぱん」で、モデルとなったやなせたかし氏が多くの詩を書いていたことを知ったからだ。今の自分の気持ちを、へたくそでも、短くてもいいから表せないか——そんな思いが芽生えた。

始めた時にひとつだけ決めたルールがある。「毎日、ひとつ記事を書く」ことだ。ネタ探しに悩む日もあったが、いったん書き続けられる題材に出会うと、自然に文章が流れ出す。「昭和の記憶」シリーズや、父の闘病記がまさにそうだった。

父は時折、昔のできごとを話してくれた。食事の時や肩を揉んでいる時などに、「昔はこうだった」「戦争は大変だった」と語る父の言葉は興味深かった。しかし父が亡くなってから思う。もっと耳を澄ませ、きちんと記録しておくべきではなかったか、と。

昔の生活や苦労話は、どれほど些細なことであっても、今につながる歴史の一部だ。著名人ではなくとも、ひとりの生活者として残す価値があったのではないか——父が亡くなって初めて、そう気づいた。

父は太平洋戦争に召集されたが内地勤務だったらしい。戦争末期の地震で、湾内に何度も津波が押し寄せたことを話してくれた。ただ、それが昭和東南海地震だったのか三河地震だったのか、どこの駐屯地にいたのか、詳しくはわからない。戦争のことは時折ぽつりと語る程度で、私自身も聴き取る姿勢が足りなかった。

ほかにも父は多くの仕事を転々としていた。料理屋への丁稚奉公、満州国での仕事、そして最終的には県職員として博物館に派遣され、館長の運転手を務めていた。本庁から飛ばされたことを愚痴りながらも、全国の博物館を巡り収蔵品を見てきたことを、生き生きと語っていた。

書き始めてしばらくするとネタが尽きた。どうするべきか悩んだ末、長く心に引っかかっていた「父のがん闘病記」をシリーズとして書くことにした。筆を進めるうちに記憶が掘り起こされ、次第に気持ちが整理されていくのを感じた。人は悩みを他者に“語る”ことで心の安寧を得るというが、私にとっては“書く”ことがそれになった。

多くの人に読んでほしい、スキをつけてもらえたら嬉しい——そんな気持ちがないわけではない。しかしそれ以上に、父の話を適当に聞いていた後悔と、昭和の語り部を亡くして初めて知った「記録として残すことの大切さ」が、私を文章へ向かわせた。私自身も戦後の昭和を生きたひとりであり、あのころから比べれば世の中は大きく変わった。その変化を見てきた生活者として、書き残す意味があるのだと感じた。

私は自分の“昔話”を語ることをためらっていた。しかしある時、社会人になった二人の娘とドライブする機会があり、仕事のことや転職で引っ越した際の話をした。子どもたちが小学生の頃で、仲良くなった友人たちと別れさせてしまったことへの申し訳なさ、単身赴任ではなく家族で引っ越しを選んだ理由——そのとき、娘たちは真剣に耳を傾け、「初めて理由がわかった」と言ってくれた。

育った場所や環境にはさまざまな出来事がある。時折話すことはあっても、聞き手に聴く気持ちがなければ、細部は伝わらず記録にも残らない。語られた記憶は、放っておけば消えていく。

私は昭和30年代に生まれた。そのころのことを日常の折々で思い出すことはあっても、細部まで掘り起こすことは少なかった。しかし昭和という時代は、今とは少し違っていた。高度経済成長の最中とはいえ、テレビ、映画、漫画雑誌が主な娯楽で、私たちは野山を駆け回りながら遊びをつくっていた。今思えば危険な場所ばかりだったが、それも昭和という時代の空気だった。

だから「昭和の記憶」シリーズを書き始めた。断片だった記憶が、書くことで線につながり、風景が立ち上がる。自分の中の昭和が、輪郭を取り戻していく。心地よかったし、なにより自分にとって欠かせない時間になった。

そして今、100日を書き終えて思う。
書くことは、過去の自分を拾い直す行為であり、誰かにそっと手渡す行為でもある。

昭和を生きたひとりとして、私の小さな生活の記憶が、いつかどこかで誰かの心にひとしずく落ちることを願いながら、これからも書き続けていきたい。

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