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子どもと大人は切れ目なくつながっている

大人の世界線と子どもの世界線は違う、というのは一般的には自明のことかもしれません。
でも、かつて子どもだった私も今の私もそれは切れ間のない連続した時間ずっと私のままです。たとえば、小さい頃の記憶をたどってみると3歳児の私の体験は、今の私の生体の延長として想起されるのです。五歳の私、九歳の私、そこにはずっとその時間時間を体験し、感じ、考える同じたったひとつの「私」の連続体があるだけで、そこには子ども、大人という線引きはありません。

それを思うと、私には生徒を今子どもだからといって、子ども扱いというのはあまり失礼でできないような気がします。

もちろん、子どもの身体的な特質や脳の発達は各年齢によってあるし、子どもの頭の中は大人ほどガチャガチャと詰まってはいませんが、それは人間のレベルが低いわけではなく、単に知らない、というだけのこと。

あの、子供の頃の私が今の私と寸分違わない場所から世界をみていたように、今の子供達…NちゃんならずっとNちゃんの窓から世界をみているはずで、どこかで、はい!大人になりました、Nちゃんは別人になりましたとはならないはずです。

それなのに、あたかも子どもと大人の間に違う文化があるかのように、社会ではみられていて、こどもにとってまだ未知の世界を、やたらと原色で飾り立てて、感覚を刺激して、華やかな夢の世界をつくりだしているのは大人の方の都合だったりする気がします。

大人のようにたくさんの言葉をまだ持たない子どもたち、まだ自分自身のこともよく知らない子どもたちの、本来未知で、それゆえに豊かで、好奇心と不安とよろこびに満ちた世界へひらいた窓に、大人が突っ込んでいくステレオタイプの「子どもらしい世界」

子どもたちに楽しい世界を見せようとして、それは感覚的には世界をすごく切り取って狭めてしまっているのではないか、と、それは将来、大人になっていくときに必要な、子ども時代の体験の蓄積を目減りさせているのではないか、という気がしてなりません。

誰に促されるでもなく、世界はそこにあり、その環境から自分の鼻で嗅ぎとるということのかけがえのなさをもう一度、子どもたちに返してあげられないものでしょうか。押し付けではなく、自然にそれが子どもの世界に流れ込んでいくような…それは、子ども世界を演出するのではなくて、ただただ世界が子どもが見ても大人が見ても同じものであるような。
自然と社会と個人もまた地続きであるような。

音楽教育というところに目線を落としていってみたとき、
子どもに与えるものが、演出された子ども仕様のものではないか、
ちゃんとそこに「音楽」が存在しているか
いまのまだやわからで未知の子どもにもうけとれる形にしながら、ちゃんとあの豊かな音楽世界に切れ目なくつながっている本質的なものを差し出しているか、を、こと、音楽を伝えるミンネジンガーであるからこそ、よくよく考えなければいけないところだと思っています。
わらべうたは「子どもっぽい」遊びとしてではなく、そこに生きた音楽があり、人とのふれあいがあり、生身に流れ込んでいくものがあるからやっているのですが、これだって、やり方次第で、演出された子ども世界のものになっていくこともあり得ます。変に教育的意図をもって、リズムをいれてしまうだけで、こわれてしまうものがあります。

utena drawingも同じ。伝えていかなければならないのは、そこにある音楽でなければならず、いつ「子ども世界を演出」する片棒にならないとも限らないのです。





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音楽前夜(谷中みか) 愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!