訪ねてくる人
あらすじ
田舎の古民家に引っ越してきた。
家賃は安く、内装も整っている。多少の不便さを除けば、悪くない物件だった。
ただひとつ、気になることがある。
土曜の夕暮れになると、決まって訪ねてくるものがいる。
最初は偶然だと思っていた。
だが、それは毎週、同じ時間にやってくる。
これは、知らぬ間に巻き込まれていた僕の話だ。
*
引っ越してきたのは、初夏の頃だった。
都会での生活に気づまりして、しばらく自然の近くで落ち着いて仕事をしたいと思った僕は、在宅勤務がしやすいWebデザイナーという職を活かして、山麓の静かな村――小野村に移り住んだ。地元では、昔は「御野村(おのむら)」と呼ばれていたらしい。
古民家は平屋で、縁側があり、庭には手入れの行き届いていない柿の木が立っている。風が吹くたび、葉がさらさらと落ちてくる。湿気はあるが、風通しは悪くない。
日中は仕事に集中できて、夕方には縁側でコーヒーを飲む。思い描いた田舎暮らしが、そこにはあった。
この家には、玄関に網戸がついている。ロックもできる作りになっていて、それもこの家を選んだ理由のひとつだった。
仕事部屋から襖を開け放しておくと、玄関までが一望できる。風が一直線に抜けて、特に夕方は心地いい。
その日も、玄関の引き戸は開け放ち、網戸にしたまま、静かに作業をしていた。
西日が傾きかけ、部屋の中に長く赤みを帯びた光が差し込んでいる。
ふと、気配がした。
仕事の手を止め、顔を上げて襖の奥を見た。
玄関の向こう――網戸越しに、男が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。足音も気配もなかった。
逆光で顔は見えない。ただ、白いシャツにベージュのズボン、黒いベルトを締めているのがぼんやりと見えた。どこにでもいるような中年の男。
けれど、そこに“いる”という存在感だけが、妙に濃くあった。
思わず、声をかけた。
「……こんにちは。どちら様ですか?」
男は、聞こえていないかのように、静かに言った。
「……引っ越してきました」
声は低く、抑揚がなく、空気を押し出すような平坦な音だけが届いた。
「……そうなんですか? えっと、どちらに……」と続けかけた時、男はそっと会釈をした。
僕がほんの数秒、机の方に視線を戻したその瞬間には、もう姿はなかった。
さやかな風が、網戸を僅かに揺らしていた。
*
最初の訪問のことは、特に深く考えなかった。
不思議ではあったが、印象はぼんやりとしていた。
どこかの人が挨拶に来ただけなのかもしれないし、あの言葉が本当に自分に向けられたものだったのかも、よく分からなかった。
顔も見えなかったし、ほんの短い時間の出来事だったから、何となく頭の隅に残したまま、日常に戻っていった。
日々のルーティンは淡々と続いていた。
在宅で仕事をして、コーヒーを淹れ、夕方には静かな時間を過ごす。
その日も、特に意識せず玄関の戸を開け、網戸にしていた。
夕方の風が心地よく、室内の空気が和らぐのが好きだった。
襖を開けていたから、仕事部屋から玄関までがよく見えた。
そして、ふと、視界の隅に“何か”が引っかかった。
顔を向けると――男が、そこに立っていた。
網戸の向こう。
玄関の段差に、逆光の中で静かに立つ姿。
そして、男は言った。
「引っ越してきました」
言い方、声のトーン、間の取り方――
すべてが、前とまったく同じだった。
僕は、しばらく呆然としたまま男を見つめていた。
そして、ようやく席を立ち、玄関へ近づく。
「……あの……前にも来てくれましたよね?」
そう声をかけたが、男はまた何も言わず、ただ一礼し、そのまま踵を返して去っていった。
立ち去る足音もない。
不安や恐怖よりも先に、奇妙な既視感だけが胸に残った。
(あれ……前と……同じだ……よな?)
だが、その“同じ”という感覚に確信が持てなかった。
何かがおかしいとは思った。
でも、それ以上深く考えようとはしなかった。
むしろ、自分の思い過ごしかな、という方に心が傾いていた。
そして、その日もまた、僕はそのまま夜を過ごした。
*
その出来事から数日が経ち、久しぶりに友人と会う約束をしていた。
相手は美咲。
学生時代からの友人で、冗談まじりに何でも話せる気の置けない相手だ。
駅前のカフェ。
窓際のテーブルに座ると、ちょうど夕陽が斜めに差し込んでいた。
アイスコーヒーをひと口飲んだ美咲が、言った。
「でさ、本当に田舎で暮らしてるの? 虫とか平気なの? あんた絶対無理でしょ」
「虫はね、案外慣れるよ。それに、思ったより人付き合いも楽。珍しく、ちょっと孤立した感じのとこでさ。平屋だけど広くて、石垣もあったりして――」
「なにそれ。それで家賃いくら?」
美咲が目を細める。
僕は、相場よりかなり安い金額を口にした。
「……は? 安すぎじゃん。なんか出るんじゃないの、その家」
明らかに怖がらせようとしている口ぶりに、僕は苦笑しながら手を振った。
「よせよ、そういうの聞いてないって……」
そう言いながら、ふと――あの男のことが頭に浮かんだ。
「……そういえば」
「お! やっぱなんかあるんじゃん!」
美咲が身を乗り出してくる。
「いや、違うって。ただ、ちょっと変なやつがさ……」
半ば押し切られるような形で、僕は初めてあの出来事を誰かに話した。
最初の訪問。
顔の見えない男が、網戸の向こうに立っていたこと。
引っ越してきました、という短い言葉だけ。
そして、全く同じ口調で繰り返された、二度目の訪問。
「ねえ、それって、いつ来たの? 二日続けてとか?」
「え……? いや……」
少し考えて、手帳を開いた。
仕事の締切のメモを見返しながら、ふと気づく。「……あ、どっちも、同じ曜日だ。夕方で……時間も、たぶん同じくらいだった」
自分で口にした瞬間、内側でひゅっと空気が抜けるような感覚があった。
美咲はもう、笑っていなかった。
「……なんだよ」
僕は少し不安になって言った。
「まぁ、それだけだよ。別に普通に帰ったし、なんか間違えたとか……だったのかもな」
軽く笑って済ませようとした僕に、美咲は、いやぁ、と首を横に振った。
「なんかさ……ちょっと、変じゃない? 決まった曜日の、同じ時間に来るってさ……。勧誘とかなら分かるけど……。“引っ越してきました”って言ったんでしょ? あんた、返事したんでしょ。二回とも」
その気味の悪そうな表情に、インクのシミのような嫌な感じがじわりと胸に広がっていく。
「いや、でも……それで何かあったってわけじゃないし……」
僕が口ごもると、美咲は静かに言った。
「家が孤立してるなら、なおさらさ。何か空き巣とか、そういうの狙って探りに来てるのかも。頭おかしいやつかも知れないし……何にせよ、気をつけた方がいいよ」
普通に気持ち悪いじゃん、と言って、美咲はカップの底に残ったコーヒーを飲み干した。
話は唐突に終わり、また他愛もないやりとりに戻っていった。
けれど――
一度こぼれた不安は、静かに、確実に、僕の中に染み込んでいた。
*
それからの数日間、落ち着かない時間が続いた。
何が気になるのか、はっきりとは言えない。
けれど、ふとした瞬間に玄関を振り返ってしまう。
網戸の「カチリ」という小さな音に、過敏に反応するようになっていた。
――あれがまた来る。
そんな予感が、頭から離れなかった。
また来たら、どうしよう。
その日は、朝から胸の奥がざわついていた。
仕事にも手がつかず、メールを確認しただけでパソコンを閉じる。
夕方が近づくにつれ、空気が重くなっていった。
陽射しが赤くなり、部屋の隅に影が長く伸びはじめたころ、僕は思わず立ち上がった。
(閉めようか……網戸……いや、でも)
何かに負けるようで、玄関の引き戸は開け放したままにした。
網戸だけ、カチャリとロックをかける。
風が、廊下を抜けていく。
襖は開け放たれ、仕事部屋から玄関までがよく見えた。
僕は机に戻って座ったが、もう何も手につかなかった。
夕暮れ。
光がゆっくりと家の中を赤く染める。
全く集中もできずに、気持ちを誤魔化すように入れたコーヒーを机に置いて、もう癖のように玄関に目を向けると――
「……っ!!」
思わず淹れたてのコーヒーをガチャン! と倒してしまう。
冷たい琥珀色の液体と氷をこぼれるままにして、椅子を蹴り付け、僕は無様に後ずさった。
そこに、いた。
何の音もなく、気配もなく。
男は、また網戸の向こうに立っていた。
姿勢も、影の落ち方も、まったく変わっていない。
あの日と同じ、逆光で顔は見えない。
まるで時間が巻き戻されたようだった。
「……引っ越してきました」
低く、一定の調子で、口がそう動いた。
僕は一瞬、声も出せなかった。
男は、それきり動かない。
網戸越しに、夕陽を背にして、ただ、じっと立っている。
今までのように、目を逸らした隙に消えることもなかった。
ずっと、そこにいる。
ただそれだけのことが、どうしてこれほど恐ろしく、不気味なのか。
そんな感情が胸をしめつけた。
心臓の音が耳にうるさい。
呼吸が浅くなる。
そして、気づく。
もう日が沈みかけているのに、男の顔は見えない。
光が薄れ、逆光の角度が変わっても、顔だけが――ずっと、影の中にあった。
「……っ!」
唇が震える。声が出ない。
それでも、恐怖に押し出されるように、かすれた声が喉からこぼれた。
「……帰ってくれ……!」
裏返った情けない叫びだった。
理屈も、体裁も、どうでもよかった。
ただ、そこにいないでほしかった。
どこでもいい、どこかに消えてほしかった。
その瞬間――
男の口元が、初めて動いた。
顔の上半分は、まだ見えない。
だが、下半分――口元だけが、ゆっくりと、鋭い三日月を刻んだ。
薄い線のような笑み。
その口が、ゆっくりと動いて、言葉を落とした。
「……あと、二日」
その声は、土埃のように、空気に沈んで消えた。
それきり、何も言わない。
動かない。
顔の上半分は、まだ見えない。
なのに、口元だけが、くっきりと笑っていた。
その笑みが、あまりにも不気味だったせいで、僕はすぐに声を出すことも、逃げることもできなかった。
ただ、そこに縫い付けられたように、網戸越しにそれを見ていた。
どれくらい、そうしていたのか、わからない。
ふと、風が吹いた。
カーテンが揺れ、遠くの木々がさわさわと鳴った。
その音に我に返り、僕は目を瞬いた。
男は――いなかった。
そこにはもう、誰の影もなかった。
夕陽は沈み、玄関の外はただ静かだった。
音もなく、気配もなく、ただ空だけが茜から群青へと変わっていった。
「……あと、二日……?」
呟いた自分の声が、妙に遠く感じられた。
その意味を考える頭は、もう働いていなかった。
だが、あとになって気づく。
男は、土曜の夕方にやってくる。
あと二日とは――二回目の土曜日のこと。
つまり、二週間後。
それが何を意味するのかは、わからない。
ただ、その日を何もせず迎えたら――
とてつもなく良くない類のことが起こる。
そんな、根拠のない確信ともいえる恐怖が、はっきりと心に刻み込まれていた。
「あと、二日」
その言葉が胸に残ったまま、僕はほとんど眠れなかった。
*
翌朝、僕は車を走らせて、不動産会社の店舗を訪ねた。
この家を紹介してくれた地元の業者。
国道沿いの古びた建物。
カウンター越しに出てきたのは、以前と同じ、穏やかな口調と営業スマイルの男性社員だった。
僕は相手の挨拶もそこそこに、率直に切り出した。
「すみません。僕の今住んでる物件って……過去に何か、問題があったことってありますか?」
男性は一瞬だけ目線を落とした。
だが、すぐに完璧な笑顔で答える。
「いえ、特に問題はございません。事故物件でもありませんし、法的な瑕疵も一切ございませんので……」
その言い回しは、どこか妙に形式的だった。
「……前に住んでた方は? 何か言ってこられたこととか……なかったですか?」
僕の問いかけに、男性は軽く頭を下げた。
「前の入居者様に関しては、個人情報保護の観点から、守秘義務がございまして……。申し訳ありません。何か、ご不便でも?」
それは、完璧なテンプレートだった。
壁のようなマニュアル対応。
僕はさらに食い下がろうとしたが、言葉が出なかった。
だって、なんて説明すればいい?
“変な男が来て、引っ越してきましたって言うんです”とでも?
あの夕暮れの恐怖を、どんな言葉で人に伝えればいいのか。
できるものか。言葉でなんか。
実際応対したものでしか、あれは伝わらない。
結局、僕は黙り込むしかなかった。
そして、男性社員は――一部の隙もなく、笑顔のまま、微動だにしない。
気圧されるようにして、僕は店を出た。
*
次に浮かんだのは、美咲の顔だった。
電話をかけると、すぐに出た。
「え……あんた、どうしたの? なんか声、疲れてない?」
気怠そうに出たものの、こちらの声の様子に不審さを感じたのか、尋ねてくる。
一瞬で分かるほど声が沈んでるのか、と思いながら話す。
「うん、まぁ……。ちょっと会って聞いてくれない?」
ファミレスで会う約束をし、早めの夕方、再び顔を合わせた。
三度目の訪問のこと。
「あと二日」と言われたこと。
男が、笑ったこと。
僕は、美咲にすべてを話した。
彼女は真顔のまま、黙って聞いていた。
最後まで、茶化すようなことは一切言わなかった。
「不動産屋に行ったんだけど、なんか……はぐらかされた。いかにも“問題ないです”って感じで」
「……ああ、それね。実際、言わなくていいらしいよ」
「え?」
「一回でも誰か住んだら、それ以降は前の情報って、もう伝える義務ないんだって。法律的には、そういうもんみたい」
「……それって、僕の前に住んでた誰かは、何か知ってたかもしれないってこと?」
「かもね。でももう、それは聞けない……かな」
店内の空調が強くなったのか、背筋にひやりとした寒気が走った。
そして――ふと。
僕の耳の奥に、あの声が、また囁くようによみがえる。
「……あと、二日」
*
何も進まないまま、時間だけが過ぎていった。
日々の仕事は待ってくれない。
午前中からパソコンに向かって、やるべきことを淡々とこなしていく。
けれど、気づけば何度も時計を見てしまっていた。
“あと二日”
あの言葉が、喉の奥に刺さった棘のように居座っている。
そして、あっけないほどあっさりと、次の土曜日がやってきた。
その朝は、起きた瞬間から空気が違っていた。
部屋の壁や床が軋むたびに、心臓がひどく跳ねた。
夕方に、あの玄関の前に立ちたくない。
けれど、何が起こるのかは――知りたい。
逃げるようでいて、見届けたい。
いや、“見なければならない”と、どこかで感じていた。
悩んだ末、僕は少し前にネットで買っておいた、小さなリモートカメラを取り出した。
スマホと連動し、アプリを通してリアルタイムで映像を確認できるタイプ。
そのレンズを、玄関の方へ向けて設置する。
正面ではなく、少し斜め上から。
誰かが立てば、顔の高さが気になると思ったから。
準備が済むと、スマホとバッテリーをバッグに詰め、玄関に向かう。
引き戸に手をかけた瞬間、一度だけ後ろを振り返った。
そこには、いつも通りの部屋。
けれど今日は――そこに居たくなかった。
網戸を閉め、鍵をかけた。
そして、僕は歩き出した。
*
夕暮れ。
町の喫茶店。隅の席で、僕はスマホを前に置き、じっと画面を見つめていた。
リモートカメラの映像は、玄関の引き戸を斜め上から捉えている。
開け放たれた戸の前には網戸。
風が通っているはずの空間には、いまはただ沈黙が流れている。
時刻は、17時55分。
そろそろ、来る。そう思っていた。
17時59分。
画面の端に、“影”が滑り込んだ。
男だった。
そのまま、網戸の前へと歩いてくる。
逆光ではない。
なのに――男の顔の上半分は、まるで墨を流したように黒く潰れていた。
光ではない、何か“存在そのもの”を覆い隠す影。
痩せ型の体格。くたびれた白シャツ。
無表情。無言。
あまりにも普通すぎる姿が、却って不気味だった。
男は網戸の前で立ち止まった。
音声はほとんど拾えていない。
風のノイズ。ブツブツという機械的な音。
だが、その中で――男の口が、動いた。
「引っ越してきました」
僕は息を呑んだ。喉の奥から声が漏れそうになり、思わず口を押さえた。
そして。
男の口元が、ゆっくりと、深く笑みを刻んだ。
前よりも、あきらかに深く。
その口が、もう一度、言葉を落とす。
「あと、いちにち」
マイクは壊れたようにノイズを吐き続けている。
なのにその声だけが――はっきりと聞こえた。
「……お邪魔します」
その瞬間。
画面が、ブラックアウトした。
映像も、音も、完全に――切れた。
店内の喧騒が、耳に戻ってきた。
けれど、脳内ではあの映像がグルグルと回っていた。
黒く潰れた顔。笑った口元。はっきりと響いた声。
「あと、一日」
焦燥が、チリチリと身の内を這い上がってくる。
(このまま、黙って待つのか?)
そのとき、ふと思い浮かんだ。
――前に住んでいた人のこと。
(僕と同じ目に遭っていたとしたら?)
彼らが、なぜ出ていったのか。
それを知ることができれば――何か、道が見えるかもしれない。
*
何もしないよりは、よほどいい。藁にもすがる思いで、翌日の午後、隣の家を訪ねた。
引っ越してきてから、挨拶もせずにいた家だ。
田舎では珍しいくらい、あちらからも接触がなかった。
門の横にある呼び鈴を押すと、少しして奥からスリッパの音が聞こえた。
玄関の戸が開き、年配の女性が顔を出す。
「……あら? ああ、隣の……」
僕の顔を見て、彼女は初め、怪訝そうに、少し眉を顰めた。
「突然、すみません。引っ越してきてからご挨拶もせずに……。あの、少し、僕が住んでいる家について、お話をうかがいたくて」
女性は少し逡巡するようにしていたが、やがて目を細め、それから表情を戻して、
「どうぞ。上がっていって」
と言った。
座敷に通され、お茶を出された。
外から見たよりも家の中は整っていて、仏間の襖が少し開いていた。
「あの家、何か……気になることでも?」
そう聞かれて、僕は少しだけ迷ってから、正直に言った。
「……少し、変なことがありまして。何か、ご存知じゃないかと思って」
おばさんはしばらく黙っていた。お茶に口をつけ、目線を伏せる。
「あの家ねぇ……昔から、ちょっと妙なとこがあって」
言葉を選ぶようにしながら、話し始めた。
「私らも、詳しいことはあんまり知らんのよ。それに最近は、あんまりにも入れ替わりも激しいもんやから、こっちも余計に深く関わらないようにって……」
「え、入れ替わり……って?」
「そう、いつの間にか、誰か住んでて、気づいたらもういなくなってる。そんなんが、何度か続いてね……」
胸の奥がひやりとした。
「でもね、一度だけ。割と長く住んでた人がいたんやけど。男の人で――上野さん、って名前やったわ」
その名前が、どこか、頭の隅に引っ掛かるような気がした。
「もともとね、あの古民家って、ずっと空き家やったんよ。この辺では割と有名な家で……娘夫婦と、老夫婦が住んでたんやけど、老夫婦が亡くなってからは長い間空き家で……上野さんは、その親戚筋やって聞いたわ。家の整理のために来たって」
「礼儀正しくて、気さくな人やった。私も何度か話したけど、最初はほんまに、ええ人やったんよ」
言葉が、少しずつ重くなっていく。
「でもねぇ……そのうち、なんだか変わっていったんよ。やつれてきて、目の下にくまができて、笑わなくなって……挨拶しても、ひゅっ、て軽く頭下げるだけで、すぐ引っ込んでしまってね」
おばさんの言葉が、だんだん低くなる。
「どうしてかは、分からんけど。最後は、誰にも何も言わずに、ふっといなくなっちゃったん」
「……その後は?」
「分からへんわぁ。手紙も挨拶もなかったし。不動産屋さんがしばらくしてから、また貸しに出したって聞いたくらい」
あの家は、村の中でも少し孤立した場所にあるからねぇ、他に知ってる人もいないと思うわよ、とこぼすおばさんに、僕は、少し黙って、迷ったが口を開いた。
「あの、本当に何もなかったですか? いなくなる直前とか、変になる少し前とか、何か」
「何かって?」
率直にそう尋ね返されると、僕は口ごもった。あれをどう説明したらいいのだろう。
突然様子が変わったと言う、唯一情報を得られた、いくつか前の住人、上野。彼の変化は、何によるものだったんだろう。
僕が黙り込んでいると、おばさんは思案するように何度か首を傾げていたが、やがて、あ、と漏らした。
「そういえば……」
戸締まり。急に、すごい気にするようになったんとちゃうかなぁ、と彼女は言った。
「戸締まりですか?」
顔を上げた僕に、そうそう、と頷きながら、おばさんは続けた。
「ちょっと前までは、縁側も玄関も開けてたのに――あそこは、引き戸の内側にも網戸がついてるからねぇ。ここは風通しのいい家だ、って喜んでたん、覚えてるわ。それが、いなくなる少し前やったかなぁ。雨戸まで、昼間から閉めるようになってね。家全体を、ぎっちりと封じるみたいに」
僕は身を乗り出した。
「何かあったんですか? その……きっかけみたいなものとか……」
「さあ……ただ、私も気になって、一度だけ聞いたんよ」
おばさんは、急に遠くを見るような目をした。その視線の先には、在りし日の上野さんがいるのかもしれない。
「虫か、獣でも入ってくるん? って。そしたらね、上野さん――こう言ってたわ」
「そんなものは入ってきませんよ。ご迷惑はかけませんからって」
「それだけ。何のことか分からんかったけど、それ以上、なんか……聞けなくてねぇ」
しん、とした空気が部屋に満ちる。
「その少しあとだったわねぇ。何も言わずに、急にいなくなってもたんは」
そう語るおばさんは、何だかとても寂しそうだった。
「なんやろねぇ。もっと声をかけてあげれば良かったんかなぁ、と思わんでもなかったんやけど……あの家には元々あんまり干渉しすぎんような空気ができてたから、ついね。私も良くなかったんかもしれんけど…………」
何か後悔の滲む様子でそう言う彼女。が、僕は聞き逃せない単語に引っかかって、あの、と話を遮った。
「それ、どういうことですか? あの家にあまり干渉しないって」
思わず硬い声で聞いてしまった僕に、おばさんは、ハッとした様子だった。そのあとすぐにバツの悪そうな何とも言えない表情になる。
「いえ、別に……あの家は少しね。元々ちょっと有名な筋で」
おばさんはそう言うと、しばらく黙ったあと、ぽつりとつぶやいた。
「……あの家は……なんていうか、昔はお役目があった家らしいんよ」
僕は目を向けた。
「お役目?」
「詳しくは知らんのよ。でも、なんか……そういう家筋やったって、この辺では有名で、何だかを祀ってるとか、妙な儀式だのみたいなことをしてるとか、そういう噂が絶えなくて。でもそれが何やったのか、ちゃんと知ってる人はもういてないんちゃうかなぁ。皆、そういう話、だんだん口にせんようになるからね……」
それに、深く関わると不幸になるとか、根も葉もない噂もあって、とだんだん声が尻すぼみになりながら、おばさんは目を伏せた。なんとなく、罪悪感のような、後ろ暗そうな感情を感じた。
つまり、あの家は、この集落では不可侵の存在だったということか。噂を確かめることもなく、ただ根付いた、一種差別や村八分のような習慣により、長らく放置されていたのかもしれない。
上野さんが越してきた頃には少し弱まっていたのかもしれないが、それでも様子の変わった彼に、お節介をかける者はいなかったのだということになる。この、目の前にいる、人の良さそうな隣人でさえ。
言い終えたあと、おばさんはモジモジと指をしきりに動かしながら湯呑みに目を落とし、もうそれ以上、何も言わなかった。
*
おばさんの家を辞した僕は、先ほど上野さんの名前を聞いた時に感じた、知ってる感じをどこで受けたのか考えた。
ほどなく、思い当たる。
家の表札の脇に小さく書き込まれたカタカナ。
その表札入れは、印刷した紙などを差し込むタイプで、もはや何も入っていなかった。
ただ、拭き掃除をした時に、カタカナで走り書きのように書かれた、ウエノ、という文字を見つけたことがあったのだ。すでにかすれて、ずいぶん薄くなっていたが確かにそう読めた。
郵便配達の人が書いたのだろうか、とそのとき思ったことを覚えている。表札が上がってない家を、見分けるためにそういうことがあるとは知っていた。
けれど、郵便物があるわけじゃない。そこから彼は辿れない。
「資料館に、行ってみよう……」
確か、小さな図書スペースがあったはずだ。
館内の地域資料コーナーを探せば、古地図などがあるかもしれない、と思った。
直行で向かった先で、館内案内もそこそこに、“旧地名”“家系図”“古地図”の棚に目を通していく。
ある古い町内会誌のコラムに、目を引く記述があった。
「佐野家──かつてこの地域の“御役家”として、長らく独自の屋敷神の祀りを行っていた」
「屋敷神というが、その神力霊験は凄まじく、地域一円の鎮守として、半私的ながら供養の場を設けられていた形跡がある。この祭祀の実に珍しいところは、神事と供養の両方の側面を持つことである。まさに神仏習合の極みと言える。その祭祀は特に秘されたもので、限られた血筋のもの、佐野家のみで行われた。秘された神は、豊穣と厄除けを約束するとされ、祀られた年以降、集落では飢饉や山崩れ、水害などの災害を受けることが激減したという。
集落にとって、その存在がどれほどに重宝されるものであったかということが伺える。だが、この神はそうした恩恵を与える反面、厳しい戒律を強いたようだ。即ち、神を見てはならない。語ってはならない。祭祀は秘されねばならない、という側面があったようだ。戒律を破ったものには罰が下る、と強く信じられていたようだ。その為か、長年祀られていながら、神の全容や、祭祀の内容については全くと言っていいほど記載がない。現在でさえも、内容は厳に秘され公には伝わっていないが、その習わしは代々血筋に受け継がれていたようだ」
『……あの家は……なんていうか、昔はお役目があった家らしいのよ』
きっとこれだ。
佐野。
それが、あの古民家に暮らしていた老夫婦の名字だった。
古地図も探し出して、どの辺りが今の住んでいる辺りなのかを職員に尋ね、該当の地域のページを出してもらう。
佐野。あった。地形は変わっていたが、ずいぶん昔からあったようだ。少なくとも明治頃には。
上野さんは縁者と言っていた。
つまり、佐野家の血筋を引く者。
(あの家は、ただの空き家じゃなかった。祀っていた。誰かを)
頭の中に先ほど言いにくそうに目を伏せていたおばさんの姿が蘇った。深く関わると不幸になる、という噂。見るな。語るな。祭祀が途絶えたであろう、現在でさえも囁かれるその浸透具合に、少しゾッとした。
そしてさらに、同じ冊子の巻末には、祭祀とは別に供養に関わる寺の名が記されていた。
──○○山□□寺。
資料館を出た僕は、そのまま車を走らせた。
木々に囲まれた山裾に、小さな山門が見えてきた。
寺は人の気配が少なく、境内には午後の風だけが吹いていた。
本堂の横にある庫裡を訪ねると、中からそれなりに年を重ねたと思われる和尚らしき人が現れた。
事情を簡単に話すと、彼は一瞬だけ目を細め、僕を奥へと誘った。
本堂の静かな空間に通され、僕は、あの古民家のこと、佐野家という名字、そして何かを祀っていた家だったという話を、順を追って語った。
住職は、長く黙っていた。
そしてふと、視線を少しだけ外しながら、口を開いた。
「……お話は、よくわかりました。少し、お待ちいただけますか」
そう言うと、住職は立ち上がり、奥へと消えた。
しんと静まった本堂。
柱の間を風が通り抜け、彼の足音が廊下の奥に吸い込まれていった。
(やっぱり……何か、ある)
数分後、戻ってきた住職の手には、風合いのある紙に包まれた、年季の入った帳面があった。
「……こちらが、当寺の過去帳です」
住職が静かに帳面を差し出した。
手に取ると、想像していたよりも重みがあった。
古い紙の匂いが立ちのぼる。
住職が、僕の肩越しに静かに言った。
「その家は、確かに佐野家と呼ばれていました。長くこの寺ともご縁があったようですが、ここ十数年はそれも途絶えていまして……」
ページをめくると、「佐野家」の名がいくつも並んでいた。
没年と法名の記録が、整然と並んでいる。
だが、ある年を境に、すっと名前が消えていた。
(……そこで、止まっている)
「少し不幸なことがありまして。法事も、年忌も来られなくなったのは……亡くなる、少し前だったようです」
住職の声は低かった。
誰かを責めるわけでもなく、ただ記録の続きを淡々と読むような声音だった。繊細そうな、骨ばった手が過去帳を少し戻ってめくり、一つのページで止まる。
「ここに、別記があります」
指さす箇所を見ると、何か達筆で書かれている。これは、先代住職の書付です、と説明してくれた。
「閉眼供養のご依頼ですね。数年前に佐野家の血筋の娘様夫妻がこちらにいらして、屋敷神の社――石の祠を引き取って供養するように、とのことだったようです」
「石の祠を、こちらで供養ですか?」
「ええ。私など存じ上げないほど長らく祀っておられたようですが。そのご夫婦は、もう必要ない、というようなことを仰ったそうで。規定の料金以上の額を置いていかれました。そう仰られるなら、当方では断る理由もございませんので」
ただし、先代は随分渋っておりましたが、と付け加えた。
「渋るというのは、祠がお寺のものじゃなかったからですか?」
神社の系統のものだったのか、と尋ねたが、住職は緩く首を横に振った。
「そういった理由ではないようでした。先代のあれは、なんでしょうなぁ……強いていうなら、経験でしょうか」
「経験、ですか」
「ええ、そうですね、そう申し上げるのが適当でしょう。これだけの年月祀ってきたものをそのような手放し方をして……我々も供養を行う身ですので。何某かを祀る、ということに関して、何かと一般常識で語れない事柄があることを知っております。言うなれば、その障りのようなものを心配してのことだったかと、私は思っておりました」
なので、その祠を一応引き取り、当寺の作法にて閉眼供養をさせていただき、本堂裏手に仮置きした、と住職は言った。
「祠は、相当の日数をかけて清めてから砕石をする、と先代が決めたのです。私はその意向に賛同しておりました。ですが、それから数日も経たないうちに……若夫婦は、行方が分からなくなりました。連絡もつかず、足取りを知る者もいない。失踪届が出されたとのことで、最後にやり取りをした当寺にも警察の方が見えられてあれこれ尋ねていかれました」
ありのままをお話ししましたが、と住職は淡く、息を吐いた。
「結局、お二人の行方は知れず……そのご不幸ごとの後、年老いた彼らのご両親も後を追うように、同日に亡くなったと聞きます」
(同日……!? 二人一緒にってことか? いや、それよりも……)
聞きます?
その言い回しに何かおかしさを感じて、僕は住職の顔を見直した。
住職は、心得たように滑らかに応える。
「お二人のご葬儀など一切私共は関わっておりません。石の祠の閉眼供養と共に、檀家を離れるとのことでしたので、そのようにさせていただき、墓は永代供養ということで承りましたので」
ですので、佐野家については、もはや当寺で分かることはないんです、と結んだ。
ひりついた喉が、変な音を立てそうだった。
ここまできて……絶たれるのか。無駄足だったのか? もう、日もないのに。明後日には土曜日になってしまう。
佐野家の終わりの歴史など、今更わかっても仕方がない。
そんな思いが渦巻いて、僕は落ち着こうと無理やり唾を飲み込んだ。
よほど顔色を失っていたのか、住職が眉間に皺を寄せた。どこか、僕を窺ってくるような気配だった。そして、しばらくの沈黙の後、彼は言った。
「どうやら、やはりあなたのようですね。あれの受け取り手は」
「……え?」
その言葉と、僕の間抜けな掠れた声と共に、住職はやおら立ち上がり、また部屋を出て行った。今度はすぐに戻ってくる。
墨衣から覗く手には、くたびれて少し色褪せた封筒を持っていた。
それを僕に差し出してくる。
「どうぞ。これは、あなたがお探しの上野様からのお手紙です」
「え!? ……僕に? 上野さんがですか?」
住職は、正しくは、あなた個人に宛てたものではありませんが、と言い置いて、
「実は、その上野さんが以前当寺を訪ねて来られたのです。お手紙はその際、先代が預かりました。もしまた、あの家のことで誰かが寺を訪ねてくることがあれば、渡してくれと。過去帳を見せてやってくれ、とも」
ですので、縁もゆかりもないあなた様にも、過去帳をお見せした次第です、と続けた。
なにやら俄かに信じがたい気持ちで、差し出された色褪せた封筒を受け取った。表は何も書いてない。裏返すと、左下の端に、小さくこう記されていた。
――引っ越しの挨拶
「うわっ」
思わず封筒を取り落としそうになり、慌てて持ち直す。
そんな僕の様子を見て、住職は僅かに目を見張ったが、目が合うと促すように頷いた。
恐る恐る、封を開ける。
中には一枚の手紙が入っていた。
そこには、こう記されていた。
この手紙を開いたということは、あなたは、もう私と同じ状況にあり、そして切羽詰まっているのでしょう。
私は、あの家に縁あって住むことになり、最初は何も知らずに過ごしていました。
けれど、ある時から、あれが来るようになりました。あれは、夕方にやってくる。
ただ対応しているうちは害を加えることはありません。しかし、あなたはきっと拒絶してしまったのでしょう。そうすれば、あれは選択を迫って、最悪、命をとりにくる。
そして残念なことに、これをあなたが読む頃、私はもうこの世にはいません。
それで全てが途絶えればいいと思ったけれど、こうしてあなたが読んでいる以上、それは叶わなかったということです。
だから、私が辿りついた唯一の可能性を記しておきます。
私はうまくいきませんでしたが、あなたのようにまったく縁のなかった誰かなら、あるいは
〇〇県△△市××4-5-4
雑賀きよ
この人を訪ねてください。
きっと力になってくれるはずです。
電話番号:000-0250-××××
手が、震える。手紙の下に書かれた数字を目で追った。
この名前、この住所。
ここに、何かがある。
(……僕だけじゃない。あの男は、あの家に住んだ、誰かを追って、現れるんだ)
そして、あと一日が迫っていた。
「あの……さっき話に出てきたその祠って、まだあるんですか?」
「……お答えしかねます」
言外に、言えないのだ、と伝える視線。
そう言われては、もはや引き下がるしかなかった。
わかりました、と絞り出して答え、立ちあがろうとした時、住職が思い出したように呟く。
「そういえば……ご存知ですか?」
「え?」
膝を立てたまま、首をかしげる僕と目を合わさず、住職は話し出す。
「……昔、このあたりの谷筋には“水ミサキ”というものを祀る家が多くあったんですよ」
言いながら、経机の裏から、古びた布袋を一つ手に取った。
「見たことありますか? これ、巻幣といいます。小さな布袋のように見えるでしょう。中に、願いごとを書いた紙や、印を入れるんです」
僕は、住職がなぜいきなりそんな話を始めたのか、初めよくわからなかった。
「水ミサキはね、人ではないけれど……もとは、何かの因縁を負った存在だとされていました。川で亡くなった子どもの霊だとか、流れてきたなにかを拾ってしまったとか」
「そういうものを、丁重に祀る。供物を供え、巻幣を捧げ、依代には石塔や箱を使うことがありました」
黙って聞いていると、住職はわずかに目を伏せ、静かに言葉を継いだ。
「……ただ、こういうものを祀るのは、簡単なことではありません」
「いったん祀れば、それは“まつりごと”になります。途中でやめてはいけない。途切れれば、災いが起こるとされてきました」
「ですから――」
住職が僕を見た。
「もし、あなたが何か“ご縁”のようなものを感じたとしても……よく、よく、考えてください。生涯を通して、背負うことになりますから」
「これは、水ミサキの話ですよ」
「……はい」
僕の中で、何かがピッタリハマりそうになっていた。
「この寺は、もうずいぶん古いですので、昔からのものもそのまま置いてあったりするんですよ。珍しいものもありますから、自由にみて回って構いませんよ。特に裏に置いてあるものは当寺には必要のないものばかりですので、ご自由にどうぞ」
その言葉を頭の中で飲み込むのに、しばしの時間を要した。
「……ありがとうございます!」
「……ようお参りでした」
勢い込んで礼を言った僕に、住職はただ静かに頭を下げた。
*
古びた木戸を押して、寺の裏手にまわると、足元に細かな小石が転がる感触がした。
竹の垣根が崩れかけたような隅に、木漏れ日すら届かない薄暗い一角がある。
──そこだけ、空気が違った。
脳裏に住職の言葉が蘇る。
「特に裏に置いてあるものは当寺には必要のないものばかりですので、ご自由にどうぞ」
あの言葉は、やはりヒントだった。
水ミサキは、伝えられない内容を伝えてくれる為のものだったのだ。
そこに、それはあった。
苔むした石の祠。人の腰ほどの高さ。
風化しきったはずの石面は、奇妙に乾き、どこか滑らかだった。
まるで、ずっと誰かが触れていたかのように。
この祠が、佐野家の持ってきた祠で間違いないだろう。
注意深く近寄り、しゃがみ込んだ中を覗く。
その中に、白いものが見えた。
細く巻かれた白い布──これが、巻幣。
布の裾が、不意にふわりと揺れた。
……風は、吹いていない。
よく見ると、巻幣は裂け、ほどけかけていたが、朱で書かれた名前のような字が、かすかに残っていた。
背中に、ぴたりと何かが張りついたような感覚。
呼吸が浅くなり、喉がひりつく。
目を逸らしたいのに、祠から目が離れない。
「……ち……ん……じん……さま……?」
判読は困難だった。けれど、音として、どこかから浮かび上がってくるようだった。
脳裏に響く。
「……チンジン……さま……」
口に出した瞬間、空気がひやりと冷えた。
まるで誰かに聞かれてしまったかのように。
背後には誰もいない。けれど、木々のざわめきひとつ聞こえないその静寂が、何より恐ろしかった。
僕は手早く巻幣と石の祠を細かく写真に収め、足早にその場を去った。
その晩、僕は封筒に記されていた番号に電話をかけた。
何度か迷ったが、“あと一日”の期限が明後日に迫っていることを思い出し、背中を押された。
スマートフォンを耳に当てる。
ワンコール、ツーコール……
五回目のコール音のあと、応答があった。
「……はい」
妙に平坦な女の声だった。
年齢は分からない。若くも、年老いても聞こえない。
だがその口調には、どこか“年季”のようなものが滲んでいた。
「あ、あの……すみません。高木といいます。突然で失礼します。上野さんから紹介されて、その……」
「住所を言ってください」
「……え? あ、はい……」
僕は戸惑いながらも、自分が今住んでいる古民家の住所を伝える。
しばらく無言が続いた。
電話が切れたのかと思ったが、通話は続いている。
その静寂の中で、かすかに紙をめくるような音が聞こえた。
「明日、来てください」
「え? あの、明日って……」
「できるだけ早い方がよろしいでしょう。早朝で構いません。起きておりますので」
「あ、はい……えっと……本当に助けていただけるんですか?」
しばらく沈黙。
「明日、お待ちしています」
それきり、通話はぷつりと途切れた。
圧迫感のある無表情なやり取りが終わり、ようやく耳からスマホを離す。
電話を切った後の僕の手は、じんわりと汗ばんでいた。
*
夜が明けきらないうちに目が覚めた。
ほとんど眠れていなかったのに、妙な覚醒感があった。
身支度を整え、バッグに手帳とスマートフォン、念のためにリモートカメラの映像を保存したUSBメモリも入れた。
僕は車に乗り込むと、封筒に書かれていた住所をナビに入力した。
エンジン音が、まだ薄暗い空気に溶けていく。
窓の外は、朝霧がうっすらと棚引いていた。
ひたすらナビに従って山裾の道を進む。舗装はされているが、ところどころ苔が生えて滑りそうな細い道だった。カーナビの地図が途切れたあたりで、目印らしき石柱が見えた。そこに、小さく「雑賀」と彫られている。車を停め、そこからは歩いて向かう。
木立の間を抜けるようにして進んだ先に、ぽつんと一軒家が現れた。
瓦屋根に、薄く塗装の剥げた漆喰の壁。苔むした石垣の上に建っていて、道に面していないため静寂の中にひっそりと佇んでいた。
玄関は、木の格子の引き戸だった。古びたガラスがはめ込まれており、陽を受けると歪んで光を返していた。どこか、昭和のまま時間が止まったような雰囲気がある。
インターホンのようなものは見当たらず、戸の縁に申し訳程度に下がっていた金属のベルをそっと鳴らす。
チリン……と、小さく乾いた音が響いた。
しばらくして、戸の向こうで足音が近づいてきて、カララ……と、引き戸がわずかに開いた。
そこから現れたのは、白髪交じりの髪をきちんと結った細身の女性だった。
目は細く、表情は動かない。
声もなく、ただじっと僕を見かえしている。
その沈黙に耐えきれず、僕は名を名乗った。
「あの、……高木といいます。昨日、お電話で……」
女性は、言葉を差し込むように低く、淡々とした声を発した。
「どうぞ」
そう言って、引き戸を少し広く開ける。
無言のまま、廊下へと背を向けて歩き出す後ろ姿が、やけに細く見えた。
僕は一礼してから、靴を脱ぎ、静かに家の中へと上がった。
廊下を抜けると、すぐに六畳ほどの和室に通された。仄暗く、障子越しの光だけが、部屋の中を白くぼかしていた。
キヨは黙って二つ並んだ座布団のうち、片方に腰を下ろした。
その仕草は静かで、無駄がなかった。
僕も促されるままに向かいの座布団に座る。
しばらく、部屋にはただ、時計の針の音だけが響いていた。
やがて、彼女が口を開く。
「来ると思っていました」
その声は、やはり抑揚がない。語尾すら、ただ空気に落ちていくようだった。
僕は、情けないながら、用件を繰り返した。
「助けて、もらえるんですか……?」
キヨは少しだけ視線を戻し、短く言った。
「可能なことだけでしたら」
それが、彼女の答えだった。
沈黙のあと、キヨは口を開いた。
「何を、聞きたいですか?」
不意に投げかけられた問いかけに、僕は少し間を置いてから答えた。
「あの……“あの男”のことです。毎週、夕方になると訪ねてきて……『引っ越してきました』って言ってくる……。あれは、いったい何なんですか?」
キヨは目を閉じ、ほんの少しだけ呼吸を置いてから、断じた。
「……あれは、“人”ではありません」
「じゃあ……幽霊、ですか?」
首を横にも縦にも振らなかった。ただ一言。
「祀られていたものです」
僕は言葉を失った。
「今あなたが住んでいる家で、ずっと」
キヨの言葉は、まるで石を積むように、少しずつ重ねられていく。
「引っ越しのたびに……確かめに来ます。次の者がふさわしいかを」
「ふさわしい……?」
「引き継ぐ者か、祀る者か、契約を結ぶ者か。あるいは……」
キヨは言葉を切った。その先を言うことに意味がないとでもいうように。
「拒んだのなら、選択を迫られ、一つを選べば一生もの。もう一つを選べば、“返し”を受けるだけです」
僕の喉が、ごくりと鳴った。
「……あれは、“何を”祀っていたんですか?」
キヨは少し黙った。
「……“チンジンさま”」
その名を知ってる。
石の祠の前で聞いた、あの名前だ!
じんわりと手に汗が滲む。一瞬で背中に氷柱を突っ込まれたような心持ちだった。
「元は、人でした。……正しくは、“人だったもの”です」
その言葉には、一切の感情がなかった。恐れも、慈しみも、拒絶もない。
「旅芸人の男がいました。昔……この村に立ち寄った、よそ者です」
キヨの声は静かだった。
「彼は、村の者を笑わせ、歌い、踊ったといいます。気に入られて長く滞在した。けれど、あるとき、災いが起こったそうです。病や、事故や、争い。佐野が言い出しました、“あの男が、何か持ち込んだ”と」
言葉に熱はなかった。ただ、事実の断片を並べているようだった。
「そして、佐野家のものに殺された。川に沈められて、金を奪われて。佐野家はそれを村人に隠しました。表向きは、出て行ったということにして。元々よそ者に良い感情を持たない村人たちが気にするはずもなく」
胸の奥がざわついた。キヨは続ける。
「けれど……その後の災いは苛烈を極めた。佐野家の被害は特にひどかった」
「それで、佐野家は思い余って当時の御野寺に助けを求めました。相当な金子を積んだようです。金欲しさに、当時の住職は解決法を教えた。祀ることで、祟りをなさないでくれろ、と願い、慈悲を乞うのです。チンジン様はそうして屋敷神になり……佐野家の地神となりました」
チンジン様とは、即ち、地鎮様のこと。
「だから、あれは元は、災いの中で犠牲になった人。“村が作った神”です」
「……佐野家は、祀ることでチンジン様を神に転化した。けれど、後の代が“閉眼供養”という名目で、それを放り出した。それは……神との契約を破ったということです」
「チンジン様はお怒りです。祀られ続けること、供養され続けること、語らないこと。祀りを行うもの以外に見せないこと。これが肝要です。放棄などはもってのほか」
「佐野家は、それを理由に一家掃討され滅びました。元々先細ってはおりましたが、終わりを早めましたね」
哀悼の意も覗かせず、淡々とキヨが述べた。昨日は晴れましたね、というのと、同じような調子で。
なんとなく、居心地が悪い。
「それなら……祟りは終わったんじゃないんですか? 何でまた、上野さんや僕のところにきたんです?」
訳がわからない、と言った僕に、キヨはまっすぐな目を向けた。
「上野は、血縁です。それも元は自分を殺し、祀りあげて誤魔化し、それさえもまた放棄した唾棄すべき血縁です。遠縁であるから、細工をすればどうか、と試しましたが、無駄に終わりました。力不足を恥じるばかりです」
あまりに澱みなく語る彼女に、圧倒されそうになりながら、喘ぐように呟いた。
「では……僕は……」
「あなたは」
その時、キヨは初めて少し言葉を止めた。
「あなたは、天災にあったようなものです」
「天災……?」
「長らく祀られて、チンジン様はもはや、歪んでしまわれたようです。上野が死に……しばらくの間は静かでしたが、あの屋敷が改装され、新たな人間が入ってきた時……チンジン様は、また動き出した」
「ほとんどの人間は、同じ言葉を繰り返し訪ねてくるチンジン様を、遅かれ早かれ拒絶します。あなたのように。だから選ばなければならなくなる。祀るか、返しを受けるか……祀れるものなどいません。私に聞きにきたのはあなたが初めてだから」
みな、神隠されたか、死んだでしょう、とキヨは断じた。
「逃げたものもいたようです。家から出れば問題ないかと私も考えておりましたが……駄目でしたね。チンジン様は分霊を遣わした」
「分霊……!?」
「日本の神というのは、分霊されます。増えるのです。さながら、蝋燭の火を、次の蝋燭につぐように。ついだ火は、元の火と同じものになるでしょう。そのようにして、あの屋敷にいながら、人にも憑いたのです。だから一人も助かっていない」
――言葉が出なかった。
喉がカラカラだった。なんてことなんだ。それじゃあ、まるでウィルスじゃないか。
あの家に住んだが最後、必ず感染する。
「……じゃあ、僕はもう、どうすればいいんですか……?」
喉の奥がひりついたまま、かすれた声でそう訊ねた。
逃げられない。殺される。祟られる。
じゃあ、どうすればいいんだ。どうすれば……。
キヨはほんの少しだけ首を傾げた。まるで、その問い自体が当然すぎるとでも言いたげだった。
「……“祀る”ことです」
静かな答えだった。
空気が、ふ、と沈んだように感じた。
「巻幣をご覧になったそうですね。あなたはもう“見た”のですから、途中でやめることはできません」
僕は、声にならない息を吐いた。
「……あれは……もう、ほどけかけてました……」
「ええ。だからこそ、今なら間に合うかもしれません」
キヨは立ち上がり、棚の奥から、白い布と小さな箱を取り出した。
「これは、私が用意した巻幣です。依代に祠が使われていたのなら、再びそこへ戻し、供物とともに納めてください」
箱を開けると、布の中に小さな紙片と、赤い印の押された札が入っていた。
それを見て、手がわずかに震えた。
「……でも、僕にそんなこと……できるんですか……」
「できるかではありません。するか、です」
キヨの言葉は変わらず抑揚がなかった。
でも、はっきりとした重みがあった。
「逃げても、追ってきます。あと一日とは、最期の選択猶予です。終わりの日を、自ら決める機会」
「……明日」
「ええ。日が沈むまでに、巻幣を納めてください。忘れれば、背いたとみなされます」
胸の奥が、ぐるぐると渦巻く。
チンジン様。
よそ者として殺され、祀られ、忘れられ、裏切られた存在。
僕が今、なぜこんなことをしなければならないのかは、もう分かっていた。
それは「被害者だから」じゃない。
家に入った。ただ、それだけのことだった。
天災はいつも、理不尽にやってくる。そこに取捨選択はないのだ。たまたまそこにいたから。そういう運命だったから?
バン! と前の机を拳で叩いた。
キヨに怒ったのではない。理不尽に対しての抗議だった。
こんなバカなことがあるものか。何もしてないのに、ただ運が悪かったからと、一生、縁もゆかりもない神を祀って生きるか、死ぬか。
そんな選択肢しかないなんて、そんなことがあっていいのか。
ぼたぼたと、急激に涙が溢れ落ちた。情けないが、限界だった。正直悔し涙だった。
嗚咽を漏らして、歯を食いしばる僕を、キヨはただ静かにみていた。
「……巻幣を、納めなさい。そうすれば生きられます」
その抑揚のない声に、ついに僕は爆発した。
「……ぅ……っ……あなたは! なんなんだ! あなたはどうして生きてる! それだけ詳しく人に話して、上野さんにだって伝えたはずだ! 何で生きてる?」
あなただって死ぬはずだろう、という言葉を放つのを、僕は何とか飲み込んだ。
表情というものがこれまでほぼ見えなかったキヨの顔が、初めて自嘲気味に歪んだからだ。
「……私は、はぐれものです」
「はぐれもの……?」
「ええ。私の父は、佐野家の当時、当主だった男ですが、母は違います」
「母は、流れもの。芸を見込まれて屋敷に呼ばれ、そのままお手付きとなった……よそ者です」
よそ者。
その言葉が繰り返し頭に響く。だけど、僕だってよそ者だ。
「母は、屋敷に閉じ込められて苛まれ……やがて私を孕みました。そして、産み落とすと同時に、当時の当主の妻に殺されました」
これだ、と思った。
キヨが禁忌を犯しても祟りを被らない理由――!!
それは、佐野家に虐げられ、殺されたよそ者の血を引いているから。
「私は見逃される唯一の、佐野の血筋の生き残りです。それゆえにか、チンジン様のことは離れていても感じられます」
別に、私は死んでも良かったのですが、とキヨは無感情に述べた。
「ただ、私にも出来ないことがあります。求められないことには、動けないのです」
それが私への縛りです、と静かにいう。
「ただ、来てくださっても、結局上野は助けられませんでしたが……血筋に何の関係もないあなたなら、祀ることで命長らえるでしょう。ですから、巻幣の作り方を教えましょう」
そういいながら、キヨは目の前でそれを作って見せる。僕はもはやそれを見るしかなく、キヨの手元を食い入るようにみた。
「こうして、作った巻幣は依代となります。契約の日、これを持って神に臨みなさい。神は必ずこれに憑りつく。あとは、これを何かに入れて…箱でも社でもいい。そうしたら、供養と祭礼を行い続ければ良いのです」
「……嫌です」
ポツリと言った僕に、キヨが目を見張る。
「他の道はないんですか? 本当にどうにもならないんですか?」
「……怠れば、死に至るだけです」
「だからそうじゃなくて!」
もどかしい気持ちで、今作られたばかりの巻幣を見る。
赤い布で、巻いて、包んで、箱に入れて……何か、思いつきそうなのに。
「チンジン様の禁忌を、もう一度教えてください」
「祀るべきものが祀らないこと、供養しないこと、祀るもの以外に見せること、語ることです」
「その四つですね?」
「その通りです」
「今まで祀ってきたのは佐野家……」
「そうです」
方法を教えたのは、御野寺の住職。
「祟っていた怨霊を、どうやって鎮めたんでしょう」
「ですから、契約を交わしたのです。祟り神を祀り変える時というのは、必ず条件が必要になります。それが四つの禁忌でしょう。二つは供養と祀りを続けること、償い続けるということです。そして、それを漏らしてはならないし、見せてもならない。それは元々佐野家の当主が、チンジン様を殺した時に身内のものたちに言いつけた戒厳令です。今度は自らがそれを守れと……」
何かのピースがカチリ、とはまった気がした。
「キヨさん。チンジン様は、人にも憑くんですよね? というか、もう僕についてるんですよね?」
「……そうですね」
「それなら、祀ってやればいいのではないですか? 祀りと供養が得られる場所で。僕自身が、僕の名で」
今度こそ、キヨは目を瞬いた。先ほどとは違った表情の変化だった。
「箱に入れて、祀って供養すればいいんですよね? 場所はどこでもいい。僕に憑いているんだから、そのはずでしょう。例えば、それが永代供養であっても、道理は通るはずじゃないですか? いや、通るようにできませんか? 始まりの時に、彼の怨念が祀り変えられたように、今回も詳細を曲げることは、できるんじゃないですか?」
「そんなことが……」
キヨが初めて言葉に詰まった。が、すぐに目を細くして、何か深く思案しているようだった。
やがて、十分ほど経って、彼女はようやく口を開いた。
「……やってみましょう。思いついたことがあります」
それには細工が必要です、成功の保証はしませんが、と彼女は付け加えた。
*
囲炉裏の火が弱く揺れていた。
キヨは、二枚の紙を目の前に並べた。
一枚目には、墨でくっきりと契約文が記されている。
神を相手に、契約書を作ろう、と彼女は言った。
甲(高木健太郎)は、乙(チンジン神)を自宅にて祀り、定期的な供養を欠かさぬこと。
祀りと供養が継続されている限り、乙は甲およびその周辺に一切の実害を及ぼしてはならない。
「これが、表の契約です」
キヨはもう一枚の紙に筆を取った。墨ではない。かぼちゃをすりおろして絞った、汁。
「これは……?」
「見えませんが、“文字”になります」
キヨが書いたのは、別の契約条件だった。
甲は、甲指定の仏閣にて乙の依代を納め、永代供養の形式で祀ることとする。
これが滞りなく満了された場合、乙は甲に対していかなる祟りも成してはならない。
「これが、裏の契約です」
紙が乾き、白紙のようになった頃、キヨは紙をぴたりと重ねた。
「上が“契約”。下は“控え”です。大切な契約書を汚さぬよう、紙を敷いているだけに見えます」
そして――低い声で、きっぱりと告げる。
「この二枚目を、巻幣に入れるのです」
「万一、チンジン様がこれをめくろうとしたら、必ず制止しなさい。――なぜなら」
キヨの目に、囲炉裏の火が赤く反射していた。
その後も、キヨはこと細かく、注意事項や振る舞い、用意について説明してくれた。
「……いいですか。あなたの勝負どころですよ」
僕は、決意と共に力強く頷いた。
夕陽が差し込む玄関。
開け放たれた網戸が、外との境をなくしていた。
――戸は、開け放しなさい。自ら迎え入れ、礼を尽くしなさい。
風が、ゆるやかに吹き込んでいた。
僕は、正面を向いて正座している。服装は白一色。
――神を迎えるならば白以外の選択はありません。
玄関を見通せる和室の、いつもは仕事に使っている座卓は取りのけた。
代わりに小さな文机を置いている。
――余計なものはおかず、机には墨と契約書のみを置きなさい。
顔には薄い和紙を付け、紙紐で頭の後ろで結んだ。
だから、今周りは薄っすらとしか見えず、はっきりとした視界はわずかに斜め下までが見える程度だ。
――今日いらっしゃるチンジン様は、直視しない方がよろしいので、顔には紙を貼りなさい。何も描かなくてよろしい。描きたければ丸でも描いておきなさい。
ちなみに白紙だ。
上手く描ける気がしなかったし。
――健闘を祈ります。
事細かく、できる限りのことを伝えてくれたキヨは、最後までニコリともしなかった。
だが、彼女なりの気遣いは充分に感じた。
開け放した部屋から、縁側の方を眺めると、初夏の美しい夕暮れがもう降りてくるところだった。
風は変わらず吹いている。気の早い夏の夜の虫の声が耳に心地よい。
この一瞬の美しいグラデーションの瞬間に仕事をするのが好きだった。
だが、これが無事終わって生き延びたとすれば、きっとしばらく見る気にはならないだろう。
――――そして虫の声が唐突に止み、風が止んだ。
それと同時に空気の塊がのしかかってきたかのような圧を感じ、僕は玄関に顔を向けた。薄い紙の向こう、黒い人影がジンワリ滲んでいる。
来たのだ、とわかった。
「……お、お待ちしており、ました」
キヨに教えられた通り、平伏低頭しながら、つっかえつつも何とか言葉を押し出した。
ぐわん、と空気が揺れる。
それに押し負けないよう、下腹にグッと力を入れる。
「こちらに、契約の証をご用意しておりますので、そのままお上がりくださって、お進みください」
ちゃんと、言えたと思う。
数瞬の間があり、さっきとは似ても似つかぬ、ねっとりとした風が動いた。
――重い。まるで体にまとわりついてくるみたいだ。
神社などの神域で感じる涼やかな気配とは全く違う。これが、歪んだ神の放つ気なのだろうか。
座った気配さえわからなかったが、かちゃ、と文机に置いた筆を取る音がしたので、僕はもはや畳に頭を接していた。
筆を硯に浸し、筆をなでつけて墨を落とし、紙面をスラスラと走る音。そんな音だけ妙に流暢だ。
紙で顔を覆って、視界を制限しているせいか、いつもよりもずっと音に感覚が費やされる。緊張感で、今にも叫び出しそうだった。
――コトリ。
筆が置かれた、その直後。
……しゅ……
と、小さく紙擦れの音が耳に届き、僕は声を張り上げた。
「お待ちください!」
自分が思った以上に強く、大きな声が出て、そのことにヒヤリとする。
だが、男の動きが止まったのがわかった。
「その契約の紙は、特殊加工の複写の細工になっており、筆の筆圧でさえ、下に写ります。些細な擦れで汚れてしまいますので、どうかそのままおめくりになられませんよう……」
紙はあなた様と、私で一枚ずつ持ちます。大切な契約の証です。穢れることがあってはいけませんので、と付け加えた。
だんだんと声量が下がってしまう。もはや口は粘り、呂律がうまく回らない気持ちだった。
男は、しばらく動かなかった。長い。
――――パラリ
そしてその膠着は、紙を捲る音で、あっけなく破られた。
めくられた――――!
ただでさえ重かった空気が、そう理解したより早いくらいに、一気にその勢いを増し、僕を絡め取り、押し潰そうとしている。体がバラバラになりそうな痛み。
これは、やはり――
「……裏紙で……ございます……!」
おっしゃる通りでした、キヨさん……!
襲いくる激痛に耐え、僕は絞り出すように伝えた。
「先ほど申し上げた通り、万一にも穢れが落ちぬよう、間に白紙を挟んでおります」
紙越しに、顔を上げて、畳に爪を強く立てる。合わない目線と分かりながら挑むように正面を見据えた。
僕の声に従って、もう一枚を躊躇なく捲る音。
そこに用意された三枚目には、一枚目と全く同じ内容が記されている。
先ほど記された名も、キッチリと浮かび上がっているはずだ。
ふ、と纏わりついていた、重い空気がほどけた。
チンジン様が静かに立ち上がる。
僕は今一度平伏した。
ギュッと目を固く閉じた。
*
――どれほど時が経ったか分からない。
ただ、彼がおそらく戸口からいなくなった瞬間だったのだろう。
鳴きやんでいた虫の声や、爽やかな風が、何もなかったかのように家の中に吹き込んできた。
契約が、今完了したのだ。
そう実感した時、身体中に震えがやってきた。今更ながらに、僕は腰が砕けたようになり、しばらく立ち上がることも動くこともできず、無様に転がっていた。
*
あれから、数か月がたっていた。
あの日、契約を終えた僕は、キヨから指示されていたとおり、二枚目のカボチャの汁で記された契約書を注意深く抜き取り、乙の欄に読めない不思議な文字が浮かび上がっているのを確認してから、巻幣に丁寧に納め、封じた。
それを、あらかじめ調べていた骨壺ごと永代供養を引き受けてくれる寺院に持参し、指定の料金を支払って託してきた。
キヨには、すべてが完了してから改めて電話した。
やはり、チンジン様はページをめくったし、白紙であることを確認した途端に強烈な怒気を露わにした。
二枚重ねだけにしていたら、きっと今頃僕はここにいない。念には念を入れて、三枚の契約書を用意しようと言ったのはキヨだった。
チンジン様が二枚目以降の紙に興味を持った際の保険に、二枚目は表向き複写の為の裏紙とし、三枚目には、一枚目と同じ内容をフェイクで記していた。
署名は、三枚ともにきっちり存在した。
どういう仕組みかわからなかった、筆で書いたのに文字が三枚ともに写し取られた不思議を彼女に問うと、彼女は最初と変わらない平坦な調子で教えてくれた。
『この複写の仕組みは、もとは寺小屋や神への願文などでも使用されていた技法を応用したものです』
二枚目と三枚目の紙に、チンジン様があらかじめ名を記すところにだけ、柿渋を薄く塗りつけてから完全に乾かした紙を張り付けていたという。
乾いているので、墨がにじむこともなく、一見普通の紙と見分けはつかない。
確かに、僕も気づかなかった。もっとも、そんな細かなことに気を払う余裕は僕にはなかったが。
『あの方法は、筆の圧だけで文字が下に写るんです』
もはや、彼女なくしてこの成功はなかっただろう、と僕は改めて深く感謝した。
そう思い出しながら、僕は越してきてから数か月がたった――前に比べて随分こじんまりした我が家の扉を開けた。
僕は、あの後あの古民家には戻らず、数十キロ離れた町のビジネスホテルから、業者に依頼して、最低限の荷物だけを引き取ってもらうよう依頼し、続けて不動産屋に掛け合って賃貸契約を解約した。
手続きは、無理を言ってすべて郵送かオンラインを貫いた。
そしてその足で、あの村から遠く離れた都会へ引っ越した。
物件が見つかるまではカプセルホテルやネットカフェで凌ぎ、扉があって、窓にシャッターがついている物件ならあとは文句は言わなかった。
仕事は変わらず在宅。もう少し落ち着いたら、シェアオフィスでも借りようかと思っている。
あまり人がいないところで仕事をしたいと思わなくなったし、田舎に未練なんてもう一片たりともない。
二度と、夕暮れのあの声を聴きたくない。
そして――――あの姿を見たくない。
雑賀キヨとは、あの時お礼がてら電話で話したのが最後だ。そのうち、またハガキでも出そうかと思うが、返ってくるかどうかは定かではない。
ただ、連絡は取り続けたいと思っていた。
数か月がたち、仕事も再開して、忙しく毎日を過ごしていると、平穏な日常が返ってきたのだと、一応の安堵は感じるようになった。
それでも、土曜の夕方が近づくと、どうしても落ち着かない気分になる。
その時間帯に家にいないことが異様に増えた。
胸の奥に張り付いたような、何とも言えない感覚が抜けないのだ。
正直、眠れない夜もある。夢に出てくるわけでもないが、ひどく寝苦しく、どこかで何かが始まるのでは……と埒もないことを考えて、また目が冴える。
僕は、この先、二度と網戸なんかを使わないだろう。
窓は、この家に越してきてからずっとシャッターを閉めたきりだ。閉め忘れるのが怖い。
こうして、どこか怯えが抜けないのは、きっと僕が根本を絶たなかったからだ、とは理解している。
今も、あの家は募集を続けているし、かといって僕はもう何も話せない。どうなるかも読めず、上野さんのように手紙も託せない。二番煎じもきっともう効かないだろうし、と自分に言い訳をしている。
そもそも僕がしたことは、自分だけが助かりたいだけの、とても意気地のないことだった。
そう思うと、言いようのない罪悪感がズルズルと這い上がってきて、ひとしきり僕を蹂躙していく。
だが、仕方なかったのだ。ホラー映画のヒーローのようにはいかない。
僕だって完全に安全な保証はない。契約書があるとはいえ、永代供養の年数、三十三年が過ぎたら、その後どうなるかはわからない。
その間、ずっとこうして、夕暮れの気配に怯え、忘れることのできない、あの存在に怯えるのだ。
夕暮れ時に、人が前から歩いて来るたびに、その顔がちゃんとあるかどうか、すべてが見えているかを凝視してしまうのだ。
ただ、あの家に引っ越しただけ。
それだけなのに、どうしようもないものに巻き込まれた。そして、今も罰を受けている。
だから、どうか――僕の選択を許してほしい。
*
晴れ晴れと透けるような青空の続く下で、不動産屋の営業が、年配の夫婦と、小さな女の子を連れて、山麓の古民家を案内している。
「築年数は古いですが、これだけ広い上に、内装はフルリノベしてますので! 地元の大工さんが丁寧に仕上げたんですよ」
「へぇ、雰囲気ありますね」
「……あら、縁側も素敵ねぇ」
家族は、微笑みあいながら、少しずつ心を決めていくような気配を見せている。
夕暮れ時の日が差し込み、無垢の床板に長い影が伸びていた。
営業は、いい加減コロコロと変わる契約者に飽き飽きしていたが、この物件はリノベーションにも資金がかかっている。
人を入れないわけにはいかない。
たとえ、相場の半分以下の値段としても、ないよりはいい。
今度決まったら、先にこっそりお祓いでも頼んだ方がいいかもしれないな、と思いながら、完璧な営業スマイルで、和やかな家族に歩み寄る。
「ここは、玄関もね、ほら。風通しがいいんですよ。こうして、網戸が出せましてね。ロックもできますから。こういう夕方なんか、とっても気持ちがいいですよ――」
ね、だから
――――引っ越してきませんか?
