[ Pagan_Poetry /] 短編小説 シロクマ文芸部
約8000字
小さな手が、わたしが描いたカンバスの碧いくらやみに、手を伸ばそうとした。
その少女の傍に立つわたしは、おどろいてほんの小さく唇をひらき、言葉も発せず、か細い声を漏らした。
わたしに気づくと、少女はその片手をすくめて唇を噛みしめ、顔を背けた。
わたしはその時にはわからなかった。
画廊主の男は、ほほえみながら少女に言った。
「お嬢様、作品に触れますと、お手が汚れてしまうかもしれません。どうかお気をつけくださいませ」
そして顧客である男性は、自らの家で、画廊が持参したわたしの幾つかの絵を見ていた。そのまま少女と視線を合わせず、話しかけた。
「その絵が気に入ったのか」
少女はわたしの顔を一瞥した気がしたが、男性のほうへ向きなおして明るい声で答えた。
「はい。わたし、これが好きです」
顧客は画廊主にその絵を額装するように言った。画廊主と同行していたアシスタントの女性は頭を下げた。わたしもそれを見て、お辞儀をした。そうしてこの家でもまた一枚、わたしの絵が売れた。
「それでね、飯豊さん」と、顧客が画廊主に言う。
「ついでにお願いがあるんだ。娘にこれを描いたその彼女の、アーティストの『生活』を紹介してほしい。若い女性の芸術家の自由な暮らしというのがどういうものか、見せてやってほしいんだ。一日、二日でもかまわないのでね」
画廊主はわたしを見ずに「もちろん、いいですよ」と答え、そして付け加えた。「ただ、お嬢様の教育に少しでもなればいいのですが」
わたしがいる場でわたしの意を介さずに、話が進んでいる。
黒いワンピースを着たその娘を見た。短かく切り揃えた黒髪の少女が、わたしの顔を見つめていた。
眼が合った。
わたしは顔を逸らした。
わたしの住む、林のなかのプレハブ小屋の前で車は停まった。
画廊のアシスタントの吉田さんが運転席から急いで降りて、にこにこしながら『お嬢様』がいる後部座席の車のドアを開けた。わたしは助手席から勝手に降りた。細かい意匠こそ違えど、また全身黒いワンピースに身を包んだ小さなお嬢様が、車のドアから降りてくる。
空は朝の陽射しを徐々に雲で隠してきていた。
吉田さんがお嬢様に話しかけた。
「それじゃ未希ちゃん、なにかあったら画廊か、わたしのスマホに電話してくださいね」
「ちゃん付け、やめてもらえますか?」
え、と言って、なぜか吉田さんはわたしのほうを見た。未希と呼ばれたその女の子は、吉田さんの眼を見たまま離さない。
吉田さんは「ごめんなさい」と言った。
その女の子は続けた。
「ぼくがスマホで呼んだら迎えに来てください。そのほかのことで連絡しないでください」
そして少女はわたしを見て言った。
「案内するんでしょ? ぼくのこと」
わたしは、「じゃあ、はい、まぁ」と適当なことを言って、吉田さんに会釈すると、目の前のプレハブ小屋へと歩きはじめた。自分のことを『ぼく』と呼ぶその娘が、わたしのあとをついてくる。
吉田さんは黙って車に乗りこみ旋回させると、もと来た道を引き返していった。
建設工事の途中でなんらかの理由で放棄され、それをツテでうちの画廊が安く借りている二階建てのこのプレハブ小屋に、わたしは住んでいた。外階段を登り、二階の扉の鍵を開けた。
もともと現場の備品として置いてあったロッカーと洗濯機、それから描きかけのカンバスが架かったままの3台のイーゼルに、床の大小さまざまな木箱に入った大量の画材と、ソファ。もうしわけ程度の流し台。これがわたしのアトリエの大部分だった。
その少女はドアを開けたとたんに袖で鼻を覆い、わたしに話しかけた。
「これ、なんの匂い?」
「絵の具とか、いろいろ」と答えた。わたしは入口の傍でスニーカーを脱ぐと、この小屋の鍵をロッカーを開けて中の棚に置いた。
そのうちまたわたしは尋ねられた。
「ねえ。きみは、なにをしてるの?」
「着替え」とわたしは答えた。
「ぼくがいる前で、はだかになるなんて」
「別にいま女しかここにいないんだし。それにこんな服でずっといるとか無いでしょ」
わたしは脱いだ白いブラウスと紺の薄手のワイドパンツをロッカーのハンガーにかけると、洗濯機にガムテープで貼りつけてある口の開いたままの洗濯ネットのなかに、ブラジャーと靴下を放りこんだ。
洗濯機の前に置いてあるカゴのなかから適当なTシャツと、それからその上に脱ぎちらかしてあったツナギに脚を通し、髪をヘアゴムでまとめ直した。
入口に立つその子に、わたしはまた質問された。
「どこで靴を脱げばいいの? スリッパとかないの?」
「ないよ。別に靴のままでもいいから。あたし気にしないし」
わたしは素足に、ホームセンターで何年も前に買ったサンダルをつっかけて、日がさす流し台でグラスに水を汲んで飲んだ。
わたしが質問した。
「あのさ、あたし、あなたのことなんて呼べばいいの?」
「馬鹿にされるんじゃなければ、なんでも」
吉田さんがバカにしていたとでもいうのだろうか。
「じゃあ、未希で」
「呼び捨てなんだ」
そういうとその子供は、履いていた革ブーツのジッパーをかがみこんで下ろしていた。わたしは言った。
「馬鹿にしてないし、他に適当なの思いつかないから」
ただ、めんどくさい子供だとはおもった。
からになったグラスを流しのなかに置く。窓からの光がその器に映る。
未希がわたしに尋ねた。
「きみの名前は?」
わたしは未希の顔をあらためて見た。
「なんで? あたしの名前って」
「忘れてしまったから、確かめたいんだ」
わたしは笑ってしまっていた。
「名前も知らない人間の棲家によくついてきたよね」
その子はわたしの顔を見つめている。まただ。わたしは煙草を探しながら答えた。
「椎名梨花。梨の花と書いてリンカ。呼び捨てでいいから」
未希は、わたしの名前をくりかえし呟きながら、革ブーツを脱ぐと黒いタイツのまま、歩いて部屋の中央にあるソファに深く沈みこんだ。
「梨花、おなか空いた。ウーバー頼むから住所教えて」
「え、なに?」
未希はため息をついた。
「食べものの宅配。知らないの? お金はぼくが全部払うから」
わたしは未希に住所を伝えると、未希の横を通り過ぎて、サンダルのまま一人で玄関を出た。
出てすぐの階段の踊り場で風にあたる。外の景色をみながら煙草に百円ライターで火をつけ、大きく息を吐く。周りは雑木林ばかり。曇り空の下、夏のわりには涼しく感じた。
ドアが開く音がした。振り向くと、未希がわたしの隣に立っていた。わたしはけむりを柵の向こうに吐いて言った。
「足、汚れちゃうんじゃないの」
未希は答えずにわたしに質問した。
「その煙草って、どんな味なの」
わたしは首をかしげた。
「なんとなく吸ってるだけ。メンソールじゃないし、いろいろ丁度いいんだよ」
未希も真似するように首をかしげる。
「おいしいとか、そうじゃないとかじゃないんだ」
ひとりで吸いたかった。
「アトリエを見てなよ。いたずらしなきゃ別になんでもいいから」
「いまはここにいたい」
未希は、わたしを覗き込むようにほほえみながら、そう言った。
眼が合った。
わたしは俯いた。わたしはそのままの姿勢で煙草のけむりを吸いこんで、吐く。そしてわたしは言った。
「あんたって、そんなふうに笑うんだね」
「ぼくのこと、そう見えるんだ」
「世の中にはほんとに感情が無いコもいるから」
吸い終わりの煙草を置きっぱなしだった空き缶のふちで摺り潰して、吸殻をなかに入れた。
ソフトパックを振ってもう一本煙草を出して唇でついばみ、ポケットから出したライターで火を点ける。
未希がわたしのツナギをつまんでひっぱる。
「ぼくにも」とねだられた。
「吸えんの?」とわたしは聞いた。
「さあ」と、未希はまた小首をかしげる。
「知らないよ」
一本とりだして差しだすと、未希はちいさく口をあけた。わたしは自分の吸いかけを踊り場の、ところどころペンキの剥げた手摺りに乗せた。あたらしい煙草をひとつ取りだして、薄いくちびるのあいだに差し入れる。小鳥の餌付けのようだ。毒まみれの。
「ゆっくり、そっとけむりを吸い込むんだ。初めは肺まで入れなくていいから」と言い添えて、わたしは火を点けてやった。
未希はわたしから顔を背けた。そして雲にかくれた陽射しの方へけむりを吐く。
わたしは感想を聞いた。
「おいしいもんでもないでしょ」
「香ばしいとおもう」と未希は答えた。彼女は少しだけ横顔を見せて、そしてもう一度吸い、けむりを吐いた。
「あたしが薦めたなんて言わないでね。絶対。こんなことでクビになるのイヤだから」
「絵を描いてるのに、会社員なの?」
手摺りの向こうに灰を落とす。その仕草を未希が真似した。
「書類上はそんな感じらしいよ、よくわかんないけど。買った画材代と、毎月の生活費を画廊が面倒みてくれてる。だから所属を切られたら生活できなくなる」
「自分で絵を売ればよくない?」
わたしは笑った。
「作家が個人でスマホとかで? そんなんで絵を買う筋なんて無いよ。画廊があんたのお父さんみたいなコネを縦横無尽に持ってるから、いい値段で売れるんだ。医者や社長や弁護士やらに。仮に自分でやろうにも、あたしはそんなに器用じゃない」
突然未希が咽せた。吸いかけの煙草をとりあげた。
「慣れないことするからだよ」
吸いかけを取りあげて缶のなかに捨てた。
未希が咽せながらなにかを言っていた。聞きとれなかった。
階下で男が運転する見慣れないスクーターが停まった。巨大な黒いボックスを後部に積んでいた。
「あれ、宅配なの?」と聞いた。未希は階段にうずくまり咳き込んだまま、「たぶん」と答えた。
おっきなサラダボウル。ビリヤニ、骨付きチキン、バナナスムージー。それからLサイズのミックスピザ。ぜんぶ二人分ずつ。
いつもこんなの食べてんの?
「そう。いつも。それで飽きたらパパに頼んでお店で食べたりするんだ」
来客が来たときに使う、折り畳み式のローテーブルを二台出して、それでもぎりぎりに食べものが乗っていた。
未希はチキンを噛みちぎって咀嚼している。わたしは正面に、モデルさんに座ってもらうための椅子を出して座っていた。
ビリヤニをはじめて食べた。おいしい。
「それ、最近コンビニでも置くようになったよね。でも結局コンビニの味だから専門店のほうがおいしいけど」
そうなんだ。
金持ちなのはわかっていたけど、それと同じものを食べると貧富の差を実感する。美大の院生のときに今の画廊に拾われるまで、奨学金の残金の返済を考えるだけで朝から吐いていた自分とは、生きていく世界が違うのだろう。
ときたま、画廊のつながりで他の作家の個展のオープニングパーティーなどに呼ばれてしまうけれど、挨拶だけで、用意されたきらきらしたケータリングも、あまり食べたり飲んだりできなかった。
挨拶は仕事だった。美術館の学芸員やコレクターの精神科医などにはできるだけ愛想良くと吉田さんも推してくれていたけれど、まともな受け答えができた憶えはなかった。
「世渡り上手なアーティストもいるけど、そうじゃないヒトのほうが圧倒的多数の業界だから、だからね梨花さん、だいじょぶですよ」とパーティーの帰りに連れていってくれた画廊の近くの中華屋さんで吉田さんは言ってくれて、そのときわたしは五目そばを食べながら泣いてしまった。
この子はそんな目には合わないのだろう。
「きみはゆっくり食べるんだね」
急いで食べることができないだけだ。小さいころから良く噛まないと、すぐ喉につかえて、さっきのお前より咽せるんだ。そうおもったけど、黙っていた。子供のときからのように。いままでどおりに。
「好きじゃなかった?」
ゆっくり、首を振った。
「そっか。よかった」
子供に心配された。
子供? 口の中のものを飲み込んでから聞いた。
「ねえ、未希は歳いくつ?」
「13」
「学校は?」
「やめた」
「なんで」
「暴力」
「ごめん。なんか」
あやまんなくていいよ。スムージーを飲む未希にそう言われた。
「どうだっていいことだから」
まあ、そうだ。わたしも美術の授業がなかったら無理だった。
「なんで絵を描きはじめたの」
他にやることが無かったから。小学校に上がってからもスマホもガラケーも持たせてもらえなくて、うまく本もマンガも読めなくて、テレビもよくわからなかったから、家にあったボールペンでチラシの裏に絵を描いてた。
最初はもちろん下手だったけど、だんだんリンゴや植木鉢やコップがうまく描けるようになってって、それからどんどん楽しくなって、外に出て公園で安い無地のノートにスケッチを描くようになって。なんでも手当たり次第に描いた。いまでもスマホなんかより手近なものにスケッチばかりしてる。
そのうち図書館で絵の描きかたの本をなんとか読んだりして、読めない漢字は図書館のおねえさんに聞いたりした。
本屋の文具売り場で安かった水彩と、100均の絵筆ではじめて色をつけて感動したりしていたら、学校ではじめて褒められた。それが小学校三年生のころ。それからずっと両親にも勉強はいいから絵を描けって言ってもらって、中学、高校と絵だけを描いて、美大まで無理して入れてもらって、いまこの辺土にいる。
ただ自分のやれることだけを考えてたから、気がついたらこんなことになってしまっていた。
「辺土って。郊外ってこと?」
わたしはスムージーをすこし飲んだ。砂糖がほとんど入っていない、新鮮で健康で、誰がが作った飲みもの。
Limboって言葉がほんとはちょうどいいんだけど。世の中の大勢のひととは違う人間が死んだあとに辿り着く場所。天国にも地獄にも行けないひとが、ずっと佇むところなんだってさ。そんなところであたしはおいしくもない煙草を吸いながら、絵だけ描いている。
しずかなところって、ぼくは憧れる。未希はそう言った。誰も関わってこないところで、静かでいられるのなら、ぼくはそっちのほうがいい。
「でもあたしは人間だから、小さくても欲望もあるし、ここがどこまでも『この世』で、Limboではないこともわかる。所詮あたしは死にたくもない人間でしかない」
「だからきみはこんな素敵な碧い暗がりを描くの?」
未希はイーゼルに架けられた三つのカンバスを眺めながらそう言った。
判然としないモチーフに、ただ青黒い顔料を幾重にも乗せていくだけになってしまう、わたしのカンバス。
それらを眺める、未希の佇まい。自然と両足を揃えて手を重ね、顔だけを製作過程のカンバスへと向ける、短かな黒髪の横顔、その凛とした様子。
いつのまにか、腰まで長く伸びてしまった縮れ毛をブリーチしただけの髪を、掻いて頭を支え、ひとりごちていたわたしとは、違う人間だと感じた。
そしてようやく未希の質問に答えた。
なぜこんな碧い暗がりばかりを描くのだという質問の答え。
「そうかもね。自分で描くものはいつも本能的でしかなくて、狙って考えて描くものに満足なんてできなくなってしまう。望んでもないものばかり描いてしまう」
望めば望むほど遠ざかっていく。終わらない影踏みのように、だよ。
ひとりごとのつもりでいた。
わたしは気がついた。正面を見た。
未希は、わたしを見つめていた。いままでとは違った。
わたしの首筋がぞくぞくするような、脳幹を射貫くような眼差しのまま、わたしのもとへ這い寄ってくる。
ローテーブルのうえの食べものを蹴散らして、洋服が汚れるのも構わずに、手も脚もつくばって四つ脚の生き物のように、わたしの膝元まで来た。
未希は下からわたしの顔をのぞきこみ、わたしに願った。
「ぼくを描いて」
未希はそう言ったあとに続けた。
「依頼主はぼく。ぼくがお金もぜんぶ払うよ。なぜできるかなんて聞かないで。きみにぼくを描いてほしい。きみにぼくを与えたい。餌としてでいいから。だからきみも望んでほしい、お金も、描くことも、すべて、全部」
望まれたからだろうか。
部屋のカーテンは余さず閉め切り、真っ暗闇の中でスイッチを入れると、アトリエの青白い蛍光灯を全てつけた。
ワンピースのファスナーはわたしは下ろしてあげた。
求めていたのだろうか。
そしてわたしは彼女の首元の、華奢で小ぶりのパールのネックレスも外した。
机からこぼれた食べものはすべてゴミ袋に入れてしまった。
いまが何時なのかもはやどうでもよくなった。
「自分でやるから」といって、彼女は後ろを向いてかがみ、タイツと下着を脱いだ。
わたしはエアコンを25度で設定した。
「どうしたらいい?」と未希に尋ねられた。立位のままでポーズをとらせるのはプロのモデルでも疲労が早い。できるだけ時間をとりたかった。
「ソファーに深く座って、リラックスして」
それでいいの?と聞かれたが、充分だった。
イーゼルとカンバスを未希が座る様子が見える場所に移動させて、画材箱も自分の座る椅子の近くに寄せた。気がついて、サーキュレーターも回した。
「酷いでしょ。ほんとは全身脱毛したいけど、こんな痣だらけだから、恥ずかしくて行けなかった。サディストのパパを持つと苦労するんだ。きみのお父さんはいいひと?」
「そうだね、普通の公務員だよ」
うらやましいな。そう言って未希は笑った。そして床を見た。
「ぼくは笑うのが、恥ずかしい」
いま、そこなの?と言ってしまった。ふたりで俯いたまま、すこしのあいだ、くすくすと笑った。
下書きをアクリル絵の具だけで一気に済ませた。それでも一時間ほどもかかってしまった。ソファに座る未希に毛布をかけ、記憶と、目の前の彼女を見る。
ただ対象を見る。描き、また見つめる。
ソファに座る彼女を歩いて横から、後ろから見る。近づいて、さわって、離れて、またカンバスの前に座って絵の具を筆につけて描く。
「ぼくの後ろを見たってなんにもないよ」
そうだね、と答えて、それでも止めずに見つめ続けた。
わたしは彼女の全身を確かめた。
未希が自然と毛布を解いた。わたしは何も言わず彼女の肩の硬さを触って確かめた。髪の毛の艶を指さきで感じ取った。
「ぜんぶ触る?」と聞かれた。
「大丈夫」とカンバスに描きながら彼女を見ずに答えた。
「まだ痛い傷もあるでしょ」
うん、そうだね。
そう答えた未希の表情を見つめた。これを描きたかったのかもしれないとおもった。
やわらかい声で、わたしに答えたその瞬間。
わたしは自分が絵を描ける人間で良かったと初めて思った。
てをとめず、ただ描いた。気がついたとき、ソファにすわる未希は目をとじて、毛布に身を預けたまま眠っていた。
わたしは描き続けた。
未希に身体を揺り動かされて、わたしは目を覚ました。
「ねえ、梨花。おしっこ行きたい」
アトリエの照明をすべて落としていたことに気がついた。夜目が利くようになってから、手を引いてトイレまで連れて行った。
ドアが開き、未希が外に出てくる。そして尋ねられた。
「いま、ここはどうして暗いの?」
「終わったから」
わたしは未希に抱きしめられた。
「終わったんだ」
「そう。できたから」
「梨花、あかりをつけて。はやく」
わたしはスイッチを入れた。部屋が一斉に、眩しいほどに明るくなる。
カンバスを見た。分厚く重ねられた碧い顔料のなかに、未希がいた。
わたしの力が一気に抜けるのがわかった。仕事が終わるこうなることがある。貧血とも違う、崩れ落ちる、意識だけがバラバラになって、窒息した魚のように。
うずくまるわたしに未希が寄り添い、ふたりで毛布を被った。
未希は言った。
「ぼくは、あんな表情したことないよ」
そして彼女はわたしの胸に顔をうずめた。
わたしはそっと、自分のことをぼくと呼ぶ彼女を抱き寄せた。
「あたしもこんな絵を描いたこと、いままで無かった」
ふたりで再び、描かれた絵を仰ぎ見た。今の時間などわからない。ただ、わたしたちは、まだ眠かった。
洗濯カゴから適当なわたしの服を下着も付けずに二人で着て、ひとつのグラスで二人で水を飲んで、雨が降る薄暗いなか外に出てアトリエに鍵を閉めた。
もうひとつの鍵で急いで一階のドアを開けて、濡れた洋服を脱いでベッドにいっしょに笑いあって潜り込んだ。
もう一度目が覚めたとき、林のなかで小鳥の鳴く声と、カーテンの隙間から光が差している様子を見た。
サイドテーブルの時計は10時を過ぎていた。このベッドに入ってわたしたちは、すぐに眠ったんだと思う。まだ、未希はわたしの横に眠っていた。
彼女の未来はわからない。わたしのこれからなど何も変わりはしない。朝が来るたびにそう思う。
そのとき、未希がわたしの眼を見つめていた。
その未希の小さな両手が、涙のあとが残るわたしのほほを包みこみ、わたしは唇に口づけされた。
「梨花、ありがとう」
ところできみは、お腹が空いてない?
未希にそう言われてわたしはそのとき気がついた。
奇跡は毎日いつでも起こり得ることを。おはよう。
初稿掲出日
2026年9月6日 日曜日 22:00ごろ
最終改訂日
2026年9月7日 月曜日 02:45ごろ
