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「歩ける」は、思っていた以上に自由だった

歩く、は「できる前提」だった

生まれてからずっと、立っていることも歩けることも、自分の中では“できる前提”だった。

もちろん風邪をひいたり、怪我をしたりして、ちょっと身動きが取りづらくなることはある。
でも、今回のように「全く動けない」という状態を、本気で想像したことはなかった。

立つ。
歩く。
トイレに行く。
風呂に入る。

そんなことは、できるのが当たり前すぎて、わざわざ意識したこともなかった。

今回、両足を骨折して入院することになって、初めてそれが全部“前提”だったんだと気がついた。


本当にきついのは、痛みより「できない」ことだった

怪我そのものももちろん痛かったが
でも、地味にきつかったのは、痛みよりも「できないことのつらさ」の方だった。

ベッドから車椅子に移る。
一人でトイレに行く。
少し体の向きを変える。

今まで何も考えずにやっていたことが、一つ一つ「工夫しないとできないこと」になった。

足に布団がかかるだけで痛みが強くなるので、寒さを我慢して寝ることもあった。
夜中によく鼻をかんだが、丸めて投げたティッシュがゴミ箱に入らなかった時の絶望感は、なかなかのものだった。

こういう小さなことが、想像以上に堪える。

日々の生活って、特別なことよりも、こういう何気ない動作の積み重ねでできているんだなと思った。
そしてそのほとんどに、足が関係していた。


「自分でできる」は、思っていた以上に自由だった

歩けることの価値って、ただ移動できることだけじゃなかった。

好きな時に立てる。
好きな時にトイレに行ける。
ちょっと物を取りに行ける。
人を呼ばなくても、自分のタイミングで動ける。

そういうこと全部が、実はかなり大きな自由だった。

自由というと、時間とかお金とか、もっと大きなものを想像していたのだが、
でも入院してからは、“人に頼らず、自分でできる”ということの価値を強く感じるようになった。

いつでも好きに数メートル動けること。
それだけでも、かなり自由だったんだと思う。


できなくなると、身体だけじゃなく気持ちまで疲れてくる

立つことや歩くことそのものが、人の価値を決めるわけではもちろんない。

でも、自分の中では
「自分でできる」と思っていたことが急に失われたことで、身体だけじゃなく気持ちまで疲れてきた。

それは、今まで無意識に保っていた
“自分の輪郭”みたいなものが少し崩れる感覚 に近かった。

人に頼ること。
待つこと。
思ったように動けないこと。

歩けなくなるというのは、ただ不便になること以上の意味があった。

それは、自分が当たり前だと思っていたことや、日常の基準が、一度壊れることでもあった。


今は、小さな「できる」を積み直している

今もまだ入院生活の途中で、色々な気持ちや価値観が変化し続けている。

足も、本当に元通りになるかどうかはこれからだ。

でも今は、前より少しだけはっきりしていることがある。

それは、人の生活のほとんどは思っていた以上に、
「できてあたりまえ」の積み重ね でできているということだ。

立てる。
移れる。
座れる。
少し動ける。

そういう当たり前を、今はひとつずつやり直している感じがする。

前みたいに何も考えずに立ち、歩き出す日がまた来ると思ってリハビリを続けている。
でも、もしそうなったとしても、前とは少し違う感覚でその日常を見られる気がしている。


歩けることは、当たり前じゃなかった

歩けることは、当たり前じゃなかった。

それは単なる身体機能ではなく、
生活を支え、自分を支え、自由をつくっていたものだった。

 当たり前を当たり前と思う当たり前について、立ち止まって考えてみることは自分の価値を知るうえでとても大切だと気がついた。

失って初めて見えるものは多い。
でも今回、自分にとってはそれが「歩けること」だった。

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