頭じゃなく、気持ちで生きる
入院して動けなくなってから、毎朝痛みとともに目が覚めると
まずベッドの上で自分の状態をモニタリングするようになった。
最初は体の状態だけだったが
次第に心の状態を見つめ直すようになった。
そんな中ではっきりしてきたことがある。
自分はこれまで、
頭に頼りすぎて生きてきたということだ。
こうするべき。
こうしたほうがいい。
間違えないように。
ちゃんとしよう。
そうやって考えてから動くことは、もちろん大事だ。
最低限の社会性を保つためにも必要な事だと思う。
でも気づけば、
「自分がどうしたいか」より先に、
いつも頭で考えることが優先されていた気がする。
動けなくなって、その順番が少しずつ変わっていった。
考えても体は動かない。
どうにもならない。
なんとかしようとして、もっと考え込む。
でも、結局あまり意味がない。
そうやって何度も考え過ぎた末に、
少しずつ頭の中のうるさいものが消えていって、
最後に残ったのは、すごくシンプルなものばかりだった。
痛い。
さみしい。
会いたい。
動きたい。
まずは立ちたい。
たぶん、本当の気持ちって、
案外そのくらいシンプルなものなんだよなと、思った。
「知・情・意」という言葉がある。
知は、頭。
情は、心。
意は、肚(はら)。
まず頭で理解して、
次に心で感じて、
最後に肚に落ちて選ぶ。
以前は、人はそういう順番でものを考えて生きているんだと思っていた。
そんな中でも自分の日常は、
それすらもできずにいたと思う。
朝、目が覚める。
すぐに頭で考え始める。
ニュースを見る。
SNSを見る。
メールをチェックする。
そうやって情報を頭に入れて、
心や肚の声はほとんど通さないままその日をこなす
そのままあっという間に毎日が過ぎていく。
でも今は、
頭と逆のほうから考えていくことが少し自然に思える。
これは荷重制限が外れてふらふらの状態から
少しずつ立てる様になる中で、
足の裏から頭に向けて徐々に意識をつなげていく
練習をしたことも関係していると思うのだが、
まず、肚がどうしたいのか。
次に、心がどう感じているのか。
最後に、それを頭で整理する。
その順番のほうが、
立ったときの感覚もしっかりしているし、
考え方としても自然なんじゃないかと思うようになった。
思い出したことがある。
『7つの習慣』という本の中に、
「刺激と反応の間には“選択”がある」という考え方が出てくる。
昔はその“選択”を、
「理性的に、正しく選ぶこと」だと思っていた。
でも今は少し違う。
その選択って、
必ずしも頭だけでやるものじゃないはずだ。
肚の感覚を無視して選んだものは、
どこかでズレる。ふらつく。
たとえ一見うまくいっているように見えても、
自分の中に、少しずつ違和感が溜まっていく。
これまでの自分は、
“選んでいた”というより、
“脳で反応していた”に近かったのかもしれない。
こう言われたからこうする。
こう見られるからこうする。
損得で動く。
もちろん、それが必要な場面もある。
でもそればかりだと、
本当の自分の気持ちはどんどん奥に引っ込んでいき
なんだか息苦しくなっていく。
そのうちふらついてくる。
それでうまくいくのか。
間違えるんじゃないか。
そういう声は、これからも頭の中に浮かぶと思う。
でも、人生に正解はない。
だったらせめて、
好きなものを好きと言える素直さを持って、
自分の意思で選んだ道をふらつかずに歩いたほうがいい。
子どもたちにも、もし何か残せるなら、
これはそのひとつの考え方かもしれない。
他人の目や考え方を、気にしすぎなくていい。
純粋な好奇心を大切にすること。
人が踏み固めた、歩きやすい道を進むことだけが人生じゃない。
肚で選んだ、その道を行こう。
