感覚と言葉の翻訳
アレンジメントのワークショップへ。
草花を手にし、無心でカゴにさしていく。
自分へプレゼントを贈るような時間。
親子三人、それぞれの花カゴには、
その人らしさがそのまま表れていた。
なんとも楽しい時間だった。
自分が目にしたものを言葉にしていく。
表面的なものではなく、
もっと深いところで感じたものを。
その過程を、言葉で再現する。
書くというより、
感覚を翻訳しているような時間。
だから楽しい。
読み返したとき、少し磨かれたように感じる。
余分は削っていく。
説明を書こうとすると、
ふと手が止まる。
このままでいいのか。
もう少し補足したほうがいいのか。
その一瞬の揺れに、
言葉と感覚のわずかなズレがある。
これからの予定を思い浮かべながら、
「これを書きたい」が湧き上がってくる。
まだ体験していないのに、なぜかワクワクする。
それは未来の出来事ではなく、
そのとき感じるであろう空気や質感に、
すでに触れているからかもしれない。
ワクワクは、何が起きるかではなく、
どんな自分でそれを感じるかへの共鳴。
まだ起きていない出来事ではなく、
先に触れてしまった感覚に、
あとから現実が追いついてくるような。
以前は、うまく書こうとしていた。
ある程度の文字数も必要だと思っていた。
一度出し切る。
そして、削る。
残ったものに触れたとき、
それがいちばん心地よかった。
うまく書けた、ではなく、
自分の感覚に近づいた感じ。
自分が欲しかったものを、
外に探していたわけではなく、
自分で再現できるようになってきたのかも。
最近、他の人の投稿にあまり惹かれなくなった。
外から探すより、
自分の中から取り出すほうが早い。
それでも、ときどき外に触れる。
違いを楽しむくらいの距離で。
書いている途中が、いちばん好き。
完成された文章より、
言葉と感覚が重なっていくその瞬間。
今感じている心地よさは、
完成度ではなく、
その一致の中にある。
「深い」でもなく、「すごい」でもなく、
ただ、じんわりくる。
強く主張しなくても、
あとから残るもの。
理解ではなく、
染みていくもの。
だから削る。
言葉を減らすためではなく、
染みる余地を残すために。
強く伝えなくてもいい。
静かに触れたものは、ちゃんと残るから。
