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仏師、運慶の生涯

(仏師の2大スター、運慶と快慶)
運慶、快慶の名前を知らない人はいないのではないかというくらい、人口に膾炙しているスーパースターです。
しかし、その二人の作品(例えば東大寺南大門の阿形吽形の金剛力士像)は知っていても、運慶、快慶などの仏師の人物自体を知る人は少ないでしょう。

東大寺南大門の金剛力士像 阿形像 国宝(Chris 73 / Wikimedia Commons, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=60936による)

(仏師の評伝としての初めての試み)
西洋では、例えばルネサンスの巨匠たち、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロらは、ジョルジュ・ヴァザーリの作品のごとく、物語的に描く評伝というものがあります。
人々はそれに依って作品だけでなく、作者そのものについて知ることができ、より作品への愛着も生まれました。

しかし何故か、日本では学術書はあっても、評伝というもの伝統が希薄で、特に仏師に関しては皆無です。
そこに来て、ようやく魅力的な仏師の評伝が現れました。
それが、梓澤要の ”荒仏師 運慶” です。

梓澤要:”荒仏師運慶”(新潮文庫)

梓澤要による鈴木其一の評伝、”画狂其一” がとても面白かったので、続いて読みました。

(南都仏師)
寄木造と言う技法を編み出し、日本の仏像制作の一つの大きなスタンダードを作ったのが、平安期に活躍した定朝。
宇治の平等院の阿弥陀如来像を作った大仏師です。

宇治の平等院鳳凰堂(Martin Falbisoner - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=53650443による)
定朝作 鳳凰堂阿弥陀如来(wikipedia)

その後の仏師は、その製造上の規約に則って作品を作る、言わば職人でした。
そして京の都の仏像制作を牛耳っていたのが、定朝の血統を引き継ぐ流派、院派と円派でした。
京都に匹敵するほど大寺院の多かった奈良にも定朝の孫の頼助が行き、奈良仏師集団(南都仏師)を率いて行きました。

(慶派の誕生)
しかし、南都仏師は院派、円派からすれば傍流で、大きな仕事は院派、円派に取られ、ニッチな仕事に甘んじていました。
その南都仏師の中で頭角を表したのが、弟子筋の康慶で、運慶の父です。
そして定朝の血統を引く南都仏師の棟梁は成朝で途絶え、康慶は独立して慶派仏師の祖となります。

(型を破り、仏像制作に革命を起こした運慶)
幼い頃から才能のひらめきを示していた運慶に、父康慶は期待を掛けました。それまで従ってきた定朝の設計プランを打ち破る改変を運慶に許した記念碑的作品が、円成寺の大日如来像です。

大日如来坐像(奈良 円成寺、wikipedia)

(鎌倉武士との繋がり)
それでも、院派、円派の勢力は京都の貴族とのつながりが強いため、慶派はなかなかそこに食い込めず、活路を鎌倉幕府や武士達に見出します。
当然武士達の要望に答えるべく、作風は京都仏師の貴族好みの優雅なものと言うより、武士好みの力強い表現を取った作品が南都仏師の特徴として現れるようになり、それに運慶の作風がよく合ったということでしょう。
従って、作品も京都、奈良以外の鎌倉、東国に多く残ることになりました。

(運慶と快慶の確執)
運慶は慶派の大仏師である康慶の嫡男。後継者となることを約束されていました。
一方、快慶は康慶の工房で、そのずば抜けた技巧で頭角を表した実力派。
強い自負もあったことは、自作に仏師快慶などの記名をしたことから伺われます。男性的な作風の運慶に対して、繊細で緻密な作風の快慶。
まさになるべくしてなったライバル関係と言えましょう。

快慶の代表作、兵庫県小野市の浄土寺にある阿弥陀三尊像

慶派が院派、円派を凌駕する躍進を見せた頃、そして運慶の慶派棟梁就任とともに、両者の関係は緊張を生じます。
しかし、上記の小説の作者は、運慶が人生の終わりに到達した境地において、お互いがライバルだったからこそ、今は分かり合えるとして描いています。それ以外にも、運慶を取り巻く様々な女性たちとの交流を描くことで、運慶その人を表現することに成功しています。

じつに読み応えのある作品でした。
そして仏師についての初めての評伝として、これからも読みつがれて行くであろう作品だと感じました。

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