【思索の旅ex】利己心と純粋
西田幾多郎という名を久々に聞いたので再考してみる。
やはり西田と言えば、『純粋経験』であろう。
『純粋経験』を簡単に自分なりに解釈すると、
普段私達が『経験』と呼ぶものは、受け取った事象に色はこうでこんな音が鳴っていて、こんな形がしていたと思慮分別を加えたもの。
反対に純粋経験は、事象を事象として思慮分別を加えず、一事実として受け取ること。
『知識とその対象が全く合一している』こと。
と解釈する。
例えば、道端の黄色い花を見たとしよう。
花弁が大きく、子房を取り囲んでいる、そういえば最近暑くなってきたな、ひまわりかな。
これが、思惟であり客観的事実を分析して統合する、客体化の働きである。
この際根底では、視点の移動、即ち注意をどこに向けるかという意志が必ず働いている。
これが主体の働きである。
これが経験として蓄積していくと、これらの過程を飛ばしてひまわりと瞬時に認識するようになる。
私はこれを、知的直観の一形態として捉える
さらに経験が蓄積していくと、
ただ「おお」等と感嘆を漏らすようになったり、ただなんとなく見つめていたりするようになる。
私という生命とひまわりという生命の融合とでも言おうか。
これを『運動学習的純粋経験』と私は呼びたい。
この『運動学習的純粋経験』はいわば後天的に会得したものと捉えられる。
反対に、私という生命と一事実(対象は問わない)が『運動学習的純粋経験』を飛ばして融合する瞬間を
私は、『純粋経験』と解釈した。
さて、西田は著書で『歎異抄』から「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」 と引用して、これらは凡て利己心の変形にすぎないと述べている。
また、現時点で多くの人の言う宗教は自己の安心のためであるということすら誤っていると考え、
我々は、自己の安心のために宗教を求めるのではなく、安心は宗教より来る結果にすぎないと述べている。
称名念仏を例に考えていこう。
我々は宗教を聞いた時、様々な教義に目を向けながら、客観的に分析、判断していく。
信心を以て称名念仏すれば浄土へ往生できると。
そうして、称名念仏を重ねて、客体化及び主体の働きは知的直観に変わり、やがて運動学習的純粋経験に変わっていく。
しかし、これは西田の言う『利己心の変形』なのではないか。
救われたいという現在の意志が反映されていないだろうか。
一方、『純粋経験』として利己心を含まず、宗教と融合することは可能なのだろうか。
極めて難しい。宗教には当然教義が存在する。
利己心はどうしても反映されてしまう。
私はこのどうしても反映されてしまう利己心を、煩悩と捉えたい。
我々は、折角の機会を握りつぶしてばらばらにしないと信じることができないのではないか。
ゆえに、自力を捨てることは難しく委ねるしかないと考えるが、自力を捨てようと考えるその意志さえ、自分が救われるための手段ならば、利己心の変形ではないか。
この問答が永遠に続いていくのが宗教の難しさだと思う。
しかし、もう摂め取られている。
