見出し画像

フィレンツェの春【19】:巨木の意地

あらすじ:
枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ率いる教皇軍は、チッタ・ディ・カステッロ周辺を抑え、着々とその包囲網を整えていた。そんな中、ヴィテッリはフィレンツェ側の提案に怒りを露にする……破門をも恐れぬ不屈の男の執念と悲哀の先にあるものとは。

フィレンツェの春【18】← Precedentemente

■ 登場人物と目次


■ 貴婦人と司教

1474年初夏。夕刻、メディチ宮。

ロレンツォ・デ・メディチは、盤上から象牙の貴婦人(ドンナ)を摘み上げた。夕陽を透かすばかりの明度の高い白に、目を細める。
衣の襞にいたるまで精緻に彫り込まれた象牙。純潔の白を纏う優雅な侍女

王よりも一回り小さく、ティアラも控えめなその駒は、当時、斜めに一歩進むだけの慎ましい駒に過ぎなかった。

それを見て、アンジェロ・ポリツィアーノが言う。
「イベリアでは、新たな遊び方が流行っているとか」

ロレンツォの貴婦人が黒檀の歩兵を倒す。
「……慎ましい『侍女』が王よりも強力な『女王』になって狂ったように駆け回る、というやつだろう?」

その時、廊下を駆ける靴音とともに、侍従が息を切らせて入室する。
「失礼いたします、急報にございます!」

ロレンツォは盤から目を離さない。
「……続けよ」

「教皇軍がチッタ・ディ・カステッロ周辺を次々に占拠。治安維持を名目に街道を封鎖している模様!指揮するは、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ

沈黙。侍従の息遣いだけが時の存在を示す。

ロレンツォはゆっくりと象牙の司教の僧帽を指でなぞる。
「ご苦労。……アヴィニョン司教になりたての枢機卿が自ら軍を指揮するとは、教皇聖下も相変わらずなりふり構わぬ」

一拍を待ち、アンジェロは黒檀の騎士を動かす。
「しかし、それはウルビーノ伯モンテフェルトロ殿はいまだ動かず、ということでもありますね」

ロレンツォは司教を手に取り、頷く。
「確かに、最悪の事態は免れている。しかし、枢機卿が軍を率いるなど前代未聞。しかも思った以上の戦上手。……時代は変わる、ということか。……ふむ。して、その『狂える女王』は、同じように司教も狂わせると聞く」

Vvici, ≪ Folles et fous », 2026

「はい、斜めだけですが、司教もやはりどこまでも進むことができる由。そうなると遊びそのものが、がらりと変わってしまいますね……」
言い、アンジェロは腕を組む。

「弟が……盤を飛び出さねばよいが」
メディチ家当主の眉間に皺が寄る。

盤上では、象牙の騎士が夜の帳に包まれようとしている。


■白葡萄酒と刃

同刻。チッタ・ディ・カステッロ、ヴィテッリ宮。
広間では、歓待の宴が催されている。

オリーヴ油と初夏の香草の青い香りが、羊の脂の焼ける匂いと溶け合う。
土地の白葡萄酒と楽団の歌が、爽やかに緊張をほぐす。

ニッコロ・ヴィテッリは錫の杯を干すと、機を計るように切り出した。
「そろそろ腹を割って話そうではないか。大使殿」
言葉を探して杯を置くサンドロ・ボッティチェリを見据え、畳みかける。
「フィレンツェの意向。手短によろしいか」

ボッティチェリは咳払いし、静かに言葉を選んだ。
「……はい、閣下。……花の都はチッタ・ディ・カステッロへの金融支援を惜しみなく行う所存。さらにミラノ、ヴェネツィア、ナポリとの連携により、ローマへの圧力をこれまで以上にかけ続ける由。くわえてウルビーノ伯モンテフェルトロ殿とも交渉し、かの刃がこちらに向かわぬよう、できる限り働きかける所存にございます」

「要するに金は出す兵は出せぬ。そういうことですな」
チッタの主も静かに応じる。
「は、はい……。いえ、その……」フィレンツェ特使は言い淀む。

「では聞くが」
構わずぴしゃりと言うと、画家を指していた黒い猛禽の鼻が、突如として向きを変えた。

「なぜ、ロレンツォ・デ・メディチ殿の弟君が、ここにおられる?」

図星を突かれた若きメディチは一度目を閉じ、慎重に姿勢を正した。
「……いかにも。名を伏せていたご無礼、平にご容赦くだされ。ジュリアーノ・デ・メディチ、共和国の名において、フィレンツェ特務大使アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピの護衛を務めております」

鷹の眼差しが、羊脂の香気越しに若者の細面を射抜く。
「護衛、とな」
再び杯を干す。
「……ふふ、このニッコロ・ヴィテッリも、ずいぶんとお人よしに見られたものよ」

小刀で肉を切り分け、ゆっくりと継ぐ。
「……貴公がここにおられるのであれば、ロレンツォ・デ・メディチ殿の名代を務めるべきは、この細こい画家殿ではなく、貴公で然るべきではないか?」

場が引き締まる。双方が身構える。

ボッティチェリも身を固める。ジュリアーノも一瞬表情を強張らせたが、広い胸で息を吸い、いつものバリトンを響かせる。
「閣下……じつは、私がここにいることをフィレンツェの主は知りませぬ。内密に、ここに参りました。……私と兄とでは考えを異にしている次第」

ヴィテッリは若きメディチをとっくりと眺め、子羊肉を頬張る。
その目に驚きはない。むしろ期待していた答えを見つけたかのような、落ち着いた光が宿る。

「面白いことを言う……」
刃を手にしたまま一呼吸置く。

「では……この弟君を人質にさらって兄上殿から色よい返事を引き出すことにしようかの。……ふふ、どうだ、ジョヴァンニ?」
動揺する画家を尻目に、傍らの息子も口角を上げて応じる。

「戯れ事よ。……ではジュリアーノ殿に聞く。フィレンツェは、この城壁の町に何を望む?」
しかしその声は、肉をえぐる執拗さを隠さない。

「はい……まずは徹底抗戦を。できるだけ長くお願いいたす」
「ふふ。望むところ」
「その間、こちらからも、できる限り有利な停戦へと導けるよう各所に働きかけます」
「そう願おう。だから全部燃やした

その言葉にジュリアーノは姿勢を改めて直し、静かに続ける。
「……そして万が一、城壁が一箇所でも破られることがあれば、即刻の停戦をフィレンツェは望みます。そして、ヴィテッリ閣下、貴家ご一族そろっての即時亡命を、やはり花の都は望んでおります」

どん、拳が振り下ろされる。場が楽団の歌声ごと凍りつく。

黒い男は刃を卓に突き立てたまま、動かない。
焦点を結ばぬ双眸が、窓の外に向く。

数刻の間。沈黙を破ろうとした息子に被せる。
「……逃げる、だと?……この、わしが」
くぐもった声。誰に向けた言葉なのか分からなかった。


■地を掴む根

ボッティチェリが答えようとすると、ヴィテッリはそれも手を上げて制した。
獲物を狙う鷹の目が、こちらを捉える。

ジュリアーノは言葉に詰まる。
そう、破門されてなおこの町の主であり続けたこの男。
この撓むことを知らぬ巨木に、どうしてそんなことが……。

ふと視線を上げる。
広間の奥。
開け放たれた扉の向こうに、あの少女が立っていた。

白磁の顔が、こちらを見据える。

ゆっくりと黒い巨体を立ち上げ、チッタの主はうわごとのように呟く。
「……では誰が、ここに残る?」

答える者はいない。少女も鈴を鳴らさない。

「誰が、あの焼けた畑を耕し、誰が、あの焼け落ちた家を建て直す?」
声が次第に低くなるとともに、ヴィテッリの影が広間の奥、少女が見える位置に出る。

「……誰が、この町の、この町を支える石を、また、ひとつひとつ積み上げる?」

ジュリアーノは目を見開いた。

少女の背後には、毀れた城壁。そして、そのさらに向こう。
焦土と化した果樹園に、緑の枝を伸ばす若木

Vvici, ≪ Pousse aux cendres », 2026

ヴィテッリはそちらへ顔を向けると、ただ、低く言った。
「逃げるのは簡単だ……だがな……木は、根を張る場所を選べぬ

少女の頬がわずかに動く。黒い男の頬は動かない。
「根まで抜いて逃げだすことは、このわしには、できぬ」

ジュリアーノはようやく確信する。

焦土と化した地を歩いた。
燃え残った切り株を、焼け落ちた家を見た。
灰の中から、それでも何かを拾い上げようとする人々を見た。

そして、少女。

「閣下」
ヴィテッリはこちらを向かない。だが続ける。
「重ね重ね、お詫び申し上げねばなりません」
言って深々と頭を垂れる。

兄は……正しかった

初めてこんな言葉を口にした気がする。
自分から兄の正しさを認めることなど、それまで一度もなかった。

「兄に黙ってここへ来た時の私は……あなたと同じ考えでした」
その声に、黒い男の肩がわずかに動いたように見えた。

「この町を守るには、残るしかない。あなたがここで剣を取る限りこの町は屈しない。それを見届けねばならない。……そう、思っておりました」

ジュリアーノは一歩、力を込めて前に出る。
「しかし、ここへ来て……町を見、人々に会いました」

傷を捨てぬ町。

それでも町を離れようとしない、それどころか、愛情をひとひらずつ重ねていく人々

少女も、やはり花のように無造作に立っている。

「そして……今になって、確信しました」
言うと、ジュリアーノは改めてそちらに目をやる。

「あなたが、そしてあなたを慕う人々がいる限り……この町は死なない

声は、この土地そのものの響きとなって空気を揺らす。
「巨木は、はじめから巨木ではない。……誰かが種を蒔き、誰かが水をやり、誰かがその木陰で生き、死ぬ。……そういう長い年月をかけて、巨木となる」

ヴィテッリは動かない。ジュリアーノは続ける。
「生きていさえすれば、また、この町へ戻ることもできる。だから……ニッコロ・ヴィテッリ殿」

その後ろ姿が揺れる。
少女は動かない。ただ、白い花のように黒い巨木を見つめている。

あなたは、生きなければならない

刹那、琥珀の目がわずかに輝く。
チッタ・ディ・カステッロの主は少女に顔を向け、それからゆっくりとジュリアーノを見た。

「……そうか、そこまで、見えたか」
戸惑う若きメディチを尻目に、今一度少女に目をやる。

その顔には穏やかで優しい笑みが、確かに浮かんでいる。


Continua → フィレンツェの春【20】:隻眼の鷲

■ 登場人物と目次


いいなと思ったら応援しよう!