能動的な独立と受動的な独立は未来に違いを残すのか。
親から離れた私が、今度は子どもたちから離れ、独立していく。
「独立」とは、誰が誰から離れることなのだろう
今、私は東京で子どもたちと一緒に暮らしている。
私自身は、就職をきっかけに田舎を出てきた。
仕事をするために東京へ出て、そのまま都内に居を構え、家庭を持ち、子どもを育ててきた。
一方、両親は今も田舎にいる。
二人きりで暮らしている。
かなり高齢になってきた。
今はまだ二人で生活できているが、そう遠くない未来に介護が必要になるだろう。
そのとき、自分はどうするのか。
最近、そんなことを考えるようになった。
私は、親から離れることで独立した
振り返ってみると、私にとって就職は「独立」でもあった。
親元を離れる。
住む場所を自分で決める。
仕事をする。
給料をもらう。
自分のお金で生活する。
失敗しても、基本的には自分でなんとかする。
もちろん当時、そんな大げさなことを考えて田舎を出たわけではない。
就職するから、東京へ行く。
ただそれだけだった。
しかし今振り返ると、あの移動には大きな意味があったと思う。
親から物理的に離れたことで、
「自分の人生を自分で生きる」
という経験が始まった。
親から離れることが、私にとっての独立だったのである。
ところが、子どもたちの独立は逆になるかもしれない
ここで不思議なことに気づいた。
自分の子どもたちは、私とは違う形で独立するかもしれない。
私は田舎を出た。
親は田舎に残った。
つまり、
子どもである私が、親から離れた。
ところがこれから、両親に介護が必要になれば、私は田舎へ戻ることになるかもしれない。
そのとき子どもたちが東京に残れば、今度は逆になる。
親である私が、子どもから離れる。
結果として起きることは同じである。
親と子が別々に暮らす。
しかし、矢印がまったく逆なのだ。
私の場合は、
「子 → 親から離れる」
だった。
子どもたちの場合は、
「親 → 子から離れる」
になるかもしれない。
これも「独立」と呼ぶのだろうか。
能動的な独立と、受動的な独立
この二つは、結果だけ見れば同じである。
親と別々に暮らし、自分の生活を自分で営む。
しかし、そこに至る経験はかなり違うように思う。
私は自分で田舎を出た。
就職というきっかけはあったが、自分で選択して東京へ来た。
つまり、能動的な独立だった。
一方、私が介護のために田舎へ戻ることで、子どもたちが親と離れて暮らすことになれば、それはある意味、受動的な独立になる。
「自分が親から離れる」のではない。
「親が自分から離れていく」のである。
ここに、何か違いは生まれるのだろうか。
独立は「状態」なのか「経験」なのか
こんなことを考えていると、そもそも独立とは何なのか、という問いになる。
親と別々に住んでいることなのか。
経済的に自立していることなのか。
自分のことを自分で決められることなのか。
もし独立を「状態」と考えるのであれば、
能動的であろうが、受動的であろうが、それほど違いはない。
親と離れて、自分で生活している。
それで独立は成立する。
しかし独立を「経験」と考えると、少し景色が変わる。
自分で環境を離れると決める。
知らない場所へ行く。
自分で生活を作る。
困ったことが起きても、自分でなんとかする。
そういう一連の経験を含めて「独立」と呼ぶのであれば、能動的な独立と受動的な独立には違いがあるようにも思う。
私自身、親元を離れた経験は、自分の人生にとって大きかった。
だからこそ、
子どもたちにも同じような経験をしてほしい。
そんな気持ちがどこかにある。
しかし、それは本当に必要なのだろうか。
私の経験を、子どもたちの人生にも当てはめようとしているだけなのかもしれない。
人生を長く見ると、親子の矢印が反転する
もう少し長い時間軸で考えてみる。
子どもの頃は、親に育ててもらう。
やがて子どもが親から離れる。
そして、自分が親になる。
今度は自分が子どもを育てる。
その子どもが大人になる頃、
自分の親は老いていく。
そして今度は、老いた親を支えるために、自分が子どものもとから離れていくかもしれない。
なんとも不思議な循環である。
親から離れることで始まった自分の人生が、
親のもとへ戻ることで、
今度は自分の子どもの独立を生み出す。
若い頃には、こんな構造があるとは想像もしなかった。
「田舎がある」から見える景色
もしかすると、これは「田舎がある人間」だから考えることなのかもしれない。
ずっと東京で暮らしていて、親も子どもも同じ地域にいるのであれば、介護と独立は地理的な問題として現れにくい。
しかし地方から都市へ出てきた人間には、
「帰る」
という選択肢が存在する。
そして、この「帰る」という選択肢が、人生の後半になると急に現実味を帯びてくる。
若い頃は、
田舎から東京へ。
仕事へ。
自分の家庭へ。
外側へ向かって人生が広がっていった。
ところがある年齢を境に、そのベクトルが反転する。
東京から田舎へ。
仕事から親へ。
自分の家庭だけでなく、自分を育ててくれた家庭へ。
人生には、そんな折り返し地点があるのかもしれない。
独立とは、離れることではないのかもしれない
ここまで考えて、少しだけ「独立」の意味が変わってきた。
私はずっと、
独立とは親から離れることだと思っていた。
しかし、本当はそうではないのかもしれない。
誰が離れたかは、それほど重要ではない。
大切なのは、
誰かがいなくなった後、自分の人生を自分で引き受けられるか。
なのかもしれない。
自分から親元を離れてもいい。
親の方から離れていってもいい。
物理的に離れなくても、自分の人生を自分で選択できる人もいるだろう。
だとすると、独立とは距離の問題ではない。
自分の人生の主語を、
「親」から「自分」に変えていくことなのかもしれない。
私には田舎がある。
そこには年老いた両親がいる。
そして東京には、これから自分の人生を歩いていく子どもたちがいる。
いつか私は、この二つの間で大きな選択をすることになるのだろう。
親から離れることで始まった私の人生が、
今度は親のもとへ戻ることで、子どもたちの新しい人生を始める。
そう考えると、
少し寂しくもあり、
少し面白くもある。
独立とは、子どもが親から離れることなのだろうか。
それとも、
親と子が、それぞれの人生を生き始めることなのだろうか。
まだ、私の中に答えはない。
ただ、田舎があるからこそ見えるこの景色を、
もう少し考えてみたいと思っている。
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