「心のままに」の失敗と成功——伏見院の春歌はなぜ変わったのか ~京極派スペース 要約版~
この記事は、Xで配信している「京極派スペース」をポッドキャストサービスPodyで要約・記事化した「京極派スペース 要約版」です。
タイトル: 「心のままに」の失敗と成功——伏見院の春歌はなぜ変わったのか
京極派の和歌を発信する梶間和歌さんが、Xスペースでの生配信をもとに、伏見院の春の歌の変遷を読み解きます。政変による挫折が、なぜ京極派和歌の完成につながったのかを、具体的な歌を挙げながらたどる回です。
「心のままに」という歌論の抱える落とし穴
京極派の和歌には、玉葉和歌集や風雅和歌集という勅撰集を通じて、私たちはいつでもアクセスできます。
そこに並ぶ叙景歌は、何百年もの時を隔てて届くようなしみじみとした美しさを持つ、と梶間さんは話します。
ただし、京極派は最初からあの完成形をめざして始まったグループではない、というのがこの回の出発点です。
京極派:鎌倉時代末期から南北朝期にかけて活動した和歌の流派。伏見院や京極為兼らを中心とし、玉葉和歌集・風雅和歌集という2つの勅撰集を残した。伝統的な二条派と対立した。
京極派の歌論の核は、京極為兼の『為兼卿和歌抄』にある一節だと繰り返し語られます。
心のままに言葉の匂ひゆく ── 京極為兼
為兼はこう書いています。「こと葉にて心をよまむとすると、心のまゝに詞のにほひゆくとは、かはれる所あるにこそ」。
言葉を使って心を詠もうとするのではなく、心のままに言葉がにおい立っていく。この一点が京極派の中心だと、梶間さんは説明します。
ここで梶間さんは、心を優先するという発想に潜む問題を指摘します。
梶間和歌「心のままに歌を詠んでいる方はたくさんいると思います。その中に一体いくつ、読者の心をしみじみと打つ良い歌というものがあるでしょうか。」
詠むべき心が、詠むべき個性があなたにあると思っているのかという問いこそが、心を優先する歌論の厳しさだと語られます。
梶間和歌「鍛えていない「ありのままの私」、美しく磨くことも心を整えたり鍛えたりすることも一切していない「かけがえのない私のかけがえのない心」、なんていうものを見せられてもね……」
梶間さんは、連続起業家けんすうさんの発信にも触れ、「自分の中を棚卸ししても、そもそも棚に何も入っていない人がいる」という指摘を引きます。
鍛えられていない心のありのままを詠んでも、それは独りよがりになる。京極派の歌人たちも、この壁にぶつかっていたと考えられます。
「心のままに」で20年もがいた京極派の初期
京極派の始まりは、天皇になる前の伏見天皇、熙仁親王の周りに集った若い貴族たちの文学グループでした。
そこに京極為兼という、二条派と対立する歌道家の変わり者が加わり、「心のままに」という歌論を育てていった、と梶間さんは説明します。
二条派:当時の和歌の主流派。「詠むべき心」に沿って型どおりに歌を詠む伝統的な立場を取った。適切な稽古を積めば誰でも一定の水準に達するとされた。
当時の常識では、歌には「詠むべき心」があり、それに沿って詠むのが当たり前でした。心のままに詠むという発想自体が、かなりあり得ないものだったのです。
初期の伏見院たちは、伝統にとらわれないことに逆にとらわれてしまい、奇をてらった詠み方をする面もあった、と語られます。
和歌としてありえない字余りや字足らずの歌を詠むなど、試行錯誤が続きました。
そこから約20年後に、突如として、今わたしたちが京極派和歌として知る、清新で写実的な歌の数々が生まれます。
さらに10年ほどを経て、前期京極派の集大成である玉葉和歌集に結実したと整理されます。
▼ 前期京極派の歩み
弘安末年: 『為兼卿和歌抄』が成る。「心のままに」の歌論が形になる
初期の十数年: 「心のままに」の正解が見えず迷走する試行錯誤の時期
乾元・嘉元年間ごろ: 清新で写実的な京極派和歌が一気に生まれる
さらに10年後: 玉葉和歌集に結実する
正安の政変が伏見院から奪ったもの
その中核にいた伏見院の春の歌が、なぜこれほど優しく美しくなったのか。梶間さんは、岩佐美代子の『京極派歌人の研究』を参考書として話を進めます。
岩佐美代子:京極派和歌研究の第一人者。『京極派歌人の研究』『京極派和歌の研究』などの著作がある。梶間さんは、論文集でありながら人柄がにじみ、泣けるほどだと評している。
鍵になるのが、正安の政変という出来事です。まず、その時代背景が説明されます。
京極派の時代は、鎌倉時代の終わりから南北朝時代の途中にあたります。伏見院は前期の人で、鎌倉時代末期の天皇でした。
両統迭立:後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の2つの皇統が、皇位を争った状態。どちらが正統かをめぐり、鎌倉幕府が調整役となった。
伏見院は、両統迭立の初期の天皇でした。ただし本人の感覚では、「正しい自分たちの皇統に皇位が戻ってきた」というものだったと梶間さんは説明します。
伏見院は数え十一歳で立太子し、十年強の皇太子時代を経て天皇となり、その後は自分の息子に位を譲ります。
だから、このまま自分の皇統が続いていくと信じていました。彼には「正統長嫡の天子が代々継いでいく」という強い意識があったのです。
正統長嫡:嫡流の嫡男が代々家や位を継ぐべきだとする考え方。伏見院はこの意識を強く持ち、自分の系統こそ皇位を継ぐべき正統だと考えていた。
しかし、後伏見天皇に位を譲って数年後、鎌倉幕府の使者が突然やってきて、天皇の交代を告げます。
後伏見の皇太子には大覚寺統の皇子が就いており、次代の天皇が大覚寺統となることは明白でした。ところが伏見院の現実認識は甘く、その対策を打つ前に政権交代が起きてしまった、と梶間さんは指摘します。
この政変は、伏見院にとって不本意で屈辱的なものでした。彼にとってはあってはならないことだったのです。
自然に恨みをぶつけた60首
院政の資格も失い、失意の底に落とされた伏見院は、やるせなさや許せないという気持ちを歌にぶつけます。
ここで梶間さんは、政変前の伏見院の歌の詠み方を、岩佐美代子の分析とともに紹介します。(こののち紹介する歌の表記には、現代の歴史的仮名遣いと異なるものがあります)
岩佐は、政変以前の院の歌について、こう記しています。「自然を自己の感情にひきつけ、自己の感傷に即して自然をうたった歌が多かったようである」。
たとえば「そことなき花のかほりにかすまれて春ものふかきやどの曙」といった歌が挙げられます。
梶間さんは、これらの歌を一見悪くないと評しつつ、決定的な弱さを指摘します。
梶間和歌「悪くないんですよ。ただ、つかみが大きすぎる。ざっくりとつかんだこの感じは雑なんですよね。」
梶間和歌「春を、自然を、見ているようで見ていない。自分の都合のいいように見ている。」
岩佐の言葉を借りれば、当時の院にとって自然とは「天の下の主君(きみ)たる自らに従属し、自らの感傷を安心してよりかからせる道具にすぎなかった」のです。
だからこそ、屈辱的な政変で失意に落ちたとき、無心に巡る自然が、まるで傍系の天皇の在位を祝福するように見え、院は腹立たしさをぶつけた、と分析されています。
岩佐の調査によると、伏見院の御製集と補遺にまとめられた春の歌636首のうち、1割強にあたる60首余りが、政変後に詠まれた恨みつらみの歌でした。
梶間和歌「636首って結構ですよ。そのうちの60首ですからね。よっぽど悔しかったんですね。」
岩佐は、これらの歌を表現の型ごとに4種類に分けています。「すさまじ」「いたづら」「時わかぬ」、そして疎外感を詠んだ歌です。
▼ 政変直後の春歌に頻出した4つの型
すさまじ
いたづら
時わかぬ
疎外感
なかでも「ねたましき心のうちぞときもわかぬそらもくさ木もはるはうくるを」という歌には、春だということが我が心にだけはわからない、信じられない、という心情が表れています。
疎外感の歌である「われのみぞこゝろもとけぬこほりゐしみぎはのなみもはるたちぬなり」も紹介されます。氷は溶けても、私だけは心も解けない、という歌です。
梶間和歌「「私が世界一かわいそう」っていう時ってね、中学生の時とか、あと失恋の直後とかあるわけですよ。そういう感じです。」
これらの歌が詠み捨てられず、数年から十数年のちに編まれた御集に、院自身の筆で省略されずに残されている点を、岩佐は重視します。
その後に政権を取り戻してもなお、春への疎外感が院の心に定着していたことを、この事実が物語っている、と考えられます。
帝王の自我を捨てたとき見えた自然
しかし、人はいつまでも腹を立ててはいられません。どこかで心をしずめる必要がありました。
岩佐は、その転機として、伏見院が触れていた日本書紀の記事を挙げます。
原初の渾沌から天地が分かれ、神が生まれたという記述は、神よりも、天皇よりも大きなものが宇宙を統べていることを思わせるものだと解釈されます。
この認識に立てば、治世の君である自分も、天も地も、すべては宇宙に満ちるエネルギーが仮に形をとったものにすぎない、と考えられます。
岩佐は、院がこの認識を深めることで、敗北感や疎外感から脱したと見ています。帝王の自我を捨てて、より大きな宇宙の摂理に順応し、帰一しようとする態度を得た、というのです。
この時期の歌には、「あめつち」や「こゝろ」「かたち」という言葉が繰り返し現れます。
たとえば「あめつちのめぐむこゝろにうけかなひたもてるかたちわれしうれしも」。天も地も、月日星も草木も風も、そして自分自身も、天地の恵みを受けて形をなした点で全く平等だ、という見方です。
そして「かすみたちこほりもとけぬあめつちのこゝろもはるにをしてうつれば」のように、形のない天地の心が院に読み取れるようになっていった、と語られます。
春を「見ていなかった」ことに気づいた目
ここで梶間さんは、この変化を自身の経験や漫画『NANA』にたとえて語ります。
『NANA』:矢沢あいによる漫画。梶間さんは、登場人物の小松奈々(ハチ子)と遠藤章司の関係を例に、相手を愛しているつもりで実は自分に都合よく見ていただけの、未熟な恋を説明している。
作中で章司は、奈々は自分を好きなのではなく、奈々を好きな自分を好きなだけだ、と語ります。
梶間さんは、これを政変前の伏見院と重ねます。相手や自然を愛しているつもりで、自分に都合よく見ていただけだった、という点が共通するのです。
梶間和歌「愛しているようで愛していなかった。ただ自分中心の世界で、自分に都合のいいように相手を見ていただけだった。」
梶間さんは、自分自身も過去に同じことをしたと率直に語り、だからこそ伏見院の気持ちが分かる部分があると話します。
そして、打ちのめされて初めて「そういうことじゃないんだ」という視点を手に入れる、という点に自然観の転換を重ねます。
梶間和歌「本当に何も見てなかったんだな、見えてなかったんだな、っていうことに気づくと、もう以前の歌の詠み方はできなくなりますよね。」
自分は春を見ているようで見ていなかった。愛しているようで愛していなかった。そう気づいた院の目は、もう以前とは違うものになっていました。
政変の2年後に爆発した叙景歌
政変から2年後の乾元二年、仙洞五十番歌合で、院の叙景歌は目覚ましい変貌を遂げます。
岩佐は、この背景に為兼の歌論を挙げます。院はこの逆境を経て、その主張を叙景歌に生かす方法をしみじみと会得した、というのです。
京極為兼:京極派の理論的中心人物。「心のままに詞のにほひゆく」という歌論を掲げた。癖の強い人物で、讒言により一時佐渡へ流されたが、後に帰洛した。
この時期の歌として、「あすやいかにけふのながめもあかぬまの夕べの花に風たちぬ也」などが紹介されます。
岩佐は、そこで紹介した春・秋の歌を、自然の動きの中に自らの心の傷みを投影し、対象と自己が一体となって揺らぐ姿を、もう一人の自己の眼で的確にとらえたものだ、と評しています。
梶間さんは、この「心を見つめる心」「自分を見つめる自分」という視点を、京極派を読む鍵として挙げ、為兼の参照した唯識論との関わりを示唆します。
唯識:すべての現象は心の働きによって現れるとする仏教の考え方。為兼が深く傾倒していたとされ、自分を見つめるもう一人の自分という京極派の視点に影響したと考えられている。
岩佐は、夏・冬の歌については、情景を立体的に詠み、個人の卑小な感懐を脱して自然そのものの相に迫ろうとした、と述べています。
岩佐美代子「正安の手痛い敗北によって帝王としての小さな自我を捨て、天地の心、宇宙に遍満するエネルギーの巨いさに頭をたれる事を知った時、院の眼前にははじめてかくも生気ある自然の営みが展開されたのである。」
▼ 正安の政変を挟んだ伏見院の叙景歌
BEFORE: 自然を自分の感傷に引きつけ、都合よく見た、外形は整った歌。梶間さんいわく「悪くないけど雑」
AFTER: 帝王の自我を捨て、生気ある自然そのものを的確にとらえた清新な叙景歌
梶間さんは、政変後に一気に開花したこの歌風こそ、私たちが知る京極派和歌の完成形だと位置づけます。
なぜ挫折が京極派を完成させたのか
岩佐は、この変化を伏見院だけのものとは見ていません。京極派の歌人ほぼ全員に、同じことが言えると論じます。
京極派を、梶間さんは「伏見天皇と愉快な仲間たち」と表現します。院が政権から転落した時期は、そのまま仲間全員の日陰の時期でもありました。
『永福門院――飛翔する南北朝女性歌人』の一節によれば、為兼配流中の京極派の主要な構成員は、ほんの数えられるほどの人数でした。
岩佐は、恵まれた貴族生活を送っていた彼らには、それまで歌で訴えねばならないほど切実な心がなかったと指摘します。
しかし、共通の政治的逆境の中で、彼らは悲しみを知った謙虚な眼で自然と自分を見直し、詠まずにいられない真実の心を養う機会を得たのです。
岩佐は、もしこの挫折がなく、以前計画された永仁勅撰が順調に完成していたら、と仮定します。
岩佐美代子「この永仁勅撰の挫折、持明院統の政治的雌伏は、ほんとうの「京極派和歌」を創り出すための、実に貴重な産みの苦しみであったのである。」
ここで梶間さんは、京極派と二条派の決定的な違いを強調します。京極派では表現の自由は保証される一方で、心はその人の持ちまえがそのまま出てしまうのです。
梶間和歌「たるみきって甘えきった自己都合でしか世界を見ていない人が、心のままに心を詠んだら、たるみきって甘えきった自己都合な歌しか詠めないんですよ。それが京極派の恐ろしいところなんです。」
岩佐も、叙景歌では、無心の自然が相手であるだけに詩魂の深浅は覆いようがなく、技法でごまかせない、と述べています。
だから、歌境を深めるには、自らの心を深めるほかに方法がない。そしてそれは、順境の時にはむずかしいのです。
▼ 京極派と二条派の決定的な違い
京極派: 自分の心をそのまま詠む。心が甘ければ甘い歌しか出ない。逆境と素養がそろって初めて花開く、深く厳しい道
二条派: 詞を使い、詠むべき型で詠む。稽古と年功次第で誰でも一定の歌に達する、広く開かれた道
梶間さんは、二条派が和歌を広く伝える役割を果たしたのに対し、京極派は深めるほうに振り切ったと整理します。
梶間和歌「京極派はもう狭いも狭い、とんでもなく狭く厳しい道を自ら選んでいったノーブレス・オブリージュな人たちのお貴族様、皇族様の道。」
ノーブレス・オブリージュ:高い身分には、それに見合う責任や振る舞いが伴うという考え方。梶間さんは、京極派の厳しい歌の道を、誇り高い貴族・皇族にふさわしいものとしてこの言葉で表している。
岩佐は、為兼の歌風について、次のように結論づけます。
岩佐美代子「何等かの意味での逆境に直面した時、ある程度以上の文学的志向を持った人間におのずから自得されるものであり、そうでなければ素質にかかわらず、何年学んでも真の会得はできぬものである。」
梶間さんは、真の京極派が花開く条件を3つに整理します。文学的な素養があること、人生の逆境を経験すること、そして二条派ではなく京極派の歌論を選ぶことです。
いつくしみの心に満ちた春の歌へ
岩佐は、こうして生まれた伏見院の春の歌について、他の歌人とは比べものにならない歌柄の大きさと情愛のふくらみがあると評します。
たとえば「哀にもをのれうけてやかすむらんたがなすときの春ならなくに」や、「花よいかに春日うらゝに世は成て山の霞に鳥のこゑごゑ」といった歌が紹介されます。
岩佐は、誰も教えないのに天地の心のままに春の装いになり、去っていく自然を、院が心からの愛でねぎらいいつくしんでいると読みます。
そこには、かつて「ねたましき心のうちぞ」と詠まずにいられなかった敗北者の卑小な姿はもうありません。
岩佐美代子「政権の有無にかかわらぬまことの正統長嫡の天子として、再び自然現象すべてを自らの広くあたたかい翼の下に包容し、その去来の相の一つ一つをよしとしてうべなう」
岩佐は、ここに描かれた情景は作者の心であり、同時に天地の心そのものだと述べ、これこそこの作者が到達しえた最高の歌境だとまとめています。
梶間さんは、生配信特有の激しい語り口もあったと振り返りつつ、伏見院の春歌の変遷をたどるこの回を締めくくります。
まとめ
伏見院の春の歌は、正安の政変という挫折を境に大きく変わりました。自分の感傷に引きつけて自然を眺めていた歌から、帝王の自我を捨てて自然そのものを見つめる歌へ。梶間さんは、この変化を京極派全体の完成過程と重ねて読み解いています。
京極派の核は「心のままに詞のにほひゆく」ことにあり、鍛えられた心がなければ独りよがりな歌になる
正安の政変で失意に落ちた伏見院は、当初60首余りの恨みつらみの春歌を残した
帝王の自我を捨て、天地の心に帰一する認識を得たとき、生気ある自然が院の目に見え始めた
京極派は心のありようがそのまま歌になる、深く厳しい道で、文学的素養と逆境の両方が花開く条件だった
挫折を経た伏見院の春歌は、いつくしみに満ちた最高の歌境へと到達した
京極派の和歌を読むの他のエピソードもPodyで聴けます。
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要約では省いた細かな考察も含め、配信内容を読みやすく整えています。
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