見出し画像

同窓会 第3章 パパが選んだもの


あの日、パパが選んでくれたものを身につけて、私は家を出ました。

それがあとになって、何度も胸の奥に残ることになるなんて、その時は思っていませんでした。

同窓会まで、あと三週間ほどになった頃でした。

子どもたちが寝静まった夜、リビングには小さくテレビの音だけが残っていました。キッチンの明かりは落としてあって、洗い終えたお皿から水滴が落ちる音が、ときどき静かに響いていました。外は十二月らしい冷たい夜で、窓ガラスの向こうが少し白く曇って見えました。

昼間はあんなに賑やかな家も、夜になると急に静かになります。

私はその静けさの中で、ふと思い出したようにパパへ声を掛けました。

「パパ。」

ソファに座っていたパパが顔を上げます。

「ん?」

「同窓会の服、一緒に選んで。」

パパは少しだけ笑いました。

「今?」

「うん。今なら静かだし。」

「いいよ。」

返事は短いけれど、嫌そうではありませんでした。

昔から、服を選ぶ時はよくパパに見てもらっていました。私が「これどう?」と聞くと、パパはたいてい少し考えてから、「いいと思う」とか「こっちの方が好き」と答えてくれます。口数は多くありません。でも、ちゃんと見てくれていることは分かりました。

私は寝室へ行き、クローゼットを開けました。

ハンガーに掛かった服が、暖房の風でほんの少し揺れます。黒のワンピース、白いニット、ベージュのスカート。何着かベッドの上へ並べていく中で、一番奥に掛けてあったグレーのニットワンピースに手が止まりました。

柔らかい生地の、少し厚みのあるワンピースです。

首元は大きく折り返せるようになっていて、普通に着れば落ち着いて見えるけれど、少し肩を落とせばオフショルダーにもなります。買った時も、パパが「それ好き」と言ったのを覚えていました。

「これ、覚えてる?」

私がワンピースを持ち上げると、パパはすぐに頷きました。

「グレーのやつ。」

「そう。」

「それ、いいと思う。」

「早いね。」

「似合うから。」

あまりにも普通に言うので、私は少し笑ってしまいました。

「じゃあ、着てみる。」

鏡の前に立ち、部屋着を脱いでニットワンピースに袖を通しました。

柔らかい生地が腕を包み、肩に乗って、腰のあたりまで自然に落ちていきます。肌に触れる感じは優しくて、十二月に着るにはちょうどいい厚みでした。

ただ、その頃の私は三番目の子を授乳していた時期でした。

出産して十か月。

毎日の生活の中ではもう慣れていましたが、鏡の前で服を着替えると、普段より胸が大きくなっていることにどうしても気づきます。授乳中の身体は、自分のものなのに、少し自分の思い通りにならないところがありました。張る日もあれば、服を着た時の見え方がいつもと違う日もあります。

特にニットは、柔らかい分、身体の線を隠しきれません。

私は襟を首元まで上げてみました。

落ち着いて見える。

それから、少しだけ肩を落としてみました。

鎖骨が出る。

同じ服なのに、それだけで印象が変わりました。

鏡の中の私は、母親でもあり、妻でもあるのに、その夜だけは少し違って見えました。久しぶりに、自分のために服を選んでいる顔でした。

「パパ、見て。」

リビングへ戻ると、パパはテレビから目を離して私を見ました。

そのまま、少し黙りました。

本当に数秒だったと思います。でも、その沈黙だけで、私は何となく分かってしまいました。

「……どう?」

私が聞くと、パパは一度視線を外してから、また私を見ました。

「似合う。」

「ほんと?」

「うん。」

それだけ言って、少し困ったように笑います。

「でも、わかな。」

「なに?」

「それ、結構目立つよ。」

私は鏡の方を振り返りました。

「肩?」

「肩もだけど。」

パパは少し間を置いてから、思ったことをそのまま言いました。

「おっぱい。」

はっきり言われて、私は思わず笑ってしまいました。

「授乳中だからしょうがないでしょ。」

「分かってる。」

「じゃあ言わないでよ(笑)」

「いや、見ると思う。」

「誰が?」

「男。」

その言い方が妙に真面目で、余計におかしくなりました。

「同級生だよ?」

「同級生でも男は男でしょ。」

パパはそう言ってから、自分でも少し照れたように笑いました。束縛するような言い方ではありませんでした。行くなと言っているわけでもない。ただ、見られるだろうな、と分かってしまっている顔でした。

私はその顔が少し可愛くて、鏡の前へ戻りました。

「じゃあ、襟は上げて着る。」

首元まできちんと上げると、さっきよりずっと落ち着いて見えます。肌の露出は少ない。それでも、身体の線までは完全には隠れませんでした。正面から見るより、少し横を向いた時の方が分かります。

自分でも、「これは少し目立つかも」と思いました。

でも、その時の私は、まだ軽く考えていました。

同級生なんだから。

みんな大人なんだから。

誰もそんなところばかり見ないでしょ、と。

パパは後ろから鏡を見ていました。

「それならいい。」

「ほんと?」

「うん。」

少し間があってから、また小さく言います。

「でも、やっぱり目立つ。」

私は吹き出しました。

「どっちなの(笑)」

「似合うから困る。」

その一言は、たぶんパパなりの褒め言葉でした。

私は少し照れくさくなって、髪を耳に掛けました。鏡の中の私は、普段より少しだけ背筋を伸ばしていました。子どもを抱っこする時の私でも、夕飯の支度をする時の私でもなく、昔の友達に会いに行く私。

それが少しだけ嬉しかったんです。

「そんなに心配なら、違う服にする?」

そう聞くと、パパはすぐには答えませんでした。

少し考えて、それから首を横に振ります。

「いや。」

「いいの?」

「その服がいい。」

「でも目立つんでしょ?」

「目立つ。」

「じゃあだめじゃん(笑)」

「でも似合う。」

短い言葉ばかりでした。

でも、その短さがパパらしかったです。

心配している。

けれど、私が楽しみにしていることも分かっている。

だから止めない。

そういう人でした。

「じゃあ、これにするね。」

「うん。」

「パパが選んだんだからね。」

「選んだけど、心配はしてる。」

「心配性。」

「わかなのことだから。」

そう言われると、何も言えなくなりました。

そのまま服は決まったのに、私はまだ鏡の前を離れられませんでした。髪を下ろしたままにするか、少し巻くか。ピアスは小さい方がいいか、揺れる方がいいか。そんなことを考えているうちに、少しずつ同窓会が現実になっていくような気がしました。

「下着は?」

何気なく私が言うと、パパがこちらを見ました。

「選ぶの?」

「うん。」

「俺が?」

「いつも見てくれるじゃん。」

私がそう言うと、パパは少しだけ困ったように笑いました。

「それはそうだけど。」

「どうせ見えないし。」

そう言いながら、私は引き出しを開けました。

中には、普段使いのものと、お気に入りのものが分かれて入っていました。母親になってからも、そこだけはあまり変わりませんでした。誰かに見せるためというより、自分の気持ちを整えるために、上下を揃えたり、服に合わせて選んだりするのが好きでした。

Saluteのレースは、見ているだけで少し背筋が伸びます。

その日の服に響かないもの。

グレーのニットに合うもの。

そして、久しぶりの同窓会に着けていっても、少しだけ気持ちが上がるもの。

私はいくつかをベッドの上に並べました。

淡い色のもの。

黒いもの。

少し大人っぽいもの。

パパは黙って見ていました。

「どれがいいと思う?」

「本当に俺が選ぶの?」

「うん。」

「じゃあ……」

パパは少し迷ってから、一つを指しました。

「これ。」

それは、私も好きなものの一つでした。

派手すぎないけれど、ちゃんと綺麗で、グレーのワンピースにも響きにくい。服を着てしまえば誰にも分からない。それなのに、自分だけは分かっている。そういうところが、私は好きでした。

「これ?」

「うん。」

「理由は?」

「好きだから。」

「下着が?」

私が笑って聞くと、パパは少しだけ目を逸らしました。

「それを着てるわかな。」

その言い方が不意打ちで、私は返事に困りました。

部屋の中は静かでした。暖房の音が低く鳴っていて、遠くで子どもの寝返りの気配がしました。さっきまで何でもない服選びだったのに、その一言で空気が少し変わったように感じました。

「……じゃあ、これにする。」

私はできるだけ普通の声で言いました。

パパは小さく頷きます。

「うん。」

「でも、ほんとに見えないよ?」

「見えなくていい。」

「いいんだ。」

「わかなが分かってればいい。」

その言葉を聞いた時、胸の奥が少しだけ温かくなりました。

服は、誰かに見られるもの。

でも下着は、見えないところで自分の気持ちを決めるもの。

その夜、私はそんなふうに思いました。

グレーのニットワンピース。

それに響かない、パパが選んだ下着。

二つを並べてベッドの上に置くと、同窓会の日が急に近づいてきたように感じました。

「楽しみ?」

パパが聞きました。

「うん。」

少しだけ間を置いてから、私は答えました。

「ちょっと緊張もする。」

「久しぶりだから?」

「うん。」

「大丈夫。」

パパはそう言いました。

「わかななら大丈夫。」

理由は言いませんでした。

でも、その短い一言が、私には嬉しかった。

この人は、私を信じてくれている。

そう思いました。

だから私は、何も悪いことなんて考えていませんでした。

本当に、ただ久しぶりに同級生に会いに行くだけのつもりだったんです。

グレーのニットワンピース。

パパが「似合う」と言ってくれた服。

パパが「目立つ」と心配した服。

そして、パパが選んでくれた下着。

その全部を身につけて、私はあの日、家を出ることになります。

パパの言った通り、同級生でも男は男でした。

そして私はその夜、自分が思っていたよりずっと近い距離で、誰かの視線を受け止めることになるのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集