不倫恋愛の夜、私は妻に勝つため別れさせ屋を選ぶ
エレベーターの到着音が短く鳴った瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。金属的なその音は、普段なら「また会えるね」の合図に聞こえる。けれど今夜は、別れを告げる鐘のように重く響いた。
「そろそろ帰るね」
彼は気取らない調子で言いながら、シャツの袖を整える。その動きの中に、家に戻る人間としての姿が浮かび上がる。彼には帰る場所がある。私には待つことしかできない。
私は笑って頷いた。けれど唇の形だけで、心の奥は石のように沈んでいた。
廊下の角で彼のスマホが震える。小さな光が画面に走り、文字が浮かぶ。「妻」。その二文字を見ただけで、空気が変わる。
彼は一瞬目を伏せ、声色を切り替える。
「うん、もうすぐ帰る。明日の準備、ありがとう」
その柔らかい声は、私に向けられたものではない。私は靴のつま先を見つめ、小さく揺らす。胸の奥に重たい鉛が沈み込んだ。
外に出ると夜気が冷たかった。タクシーを拾う前に、勇気を振り絞って聞く。
「今度の連休、会える?」
少しの沈黙。
「家族と出かけることになって…ごめん」
その言葉が喉を焼く。唇が乾き、声が途切れる。
「じゃあ…いつ、私たちは昼に会えるの?」
「今は、難しい」
夜風よりも彼の言葉の方が冷たかった。
帰りのタクシー。窓に映る自分の顔は疲れ切っていた。LINEには冷たいほど短い文字。
「今日は帰れない」「また連絡する」
私は画面を閉じ、胸の奥で言葉がうずまく。
「このままじゃ、私は捨てられる」
彼と過ごす時間は確かに温かい。けれど、部屋を出た瞬間にその温度は失われる。
「家庭を壊す女にはなりたくない」
その想いは確かにある。けれど同時に、
「それでも、彼の一番になりたい」
この願いは消えない。罪悪感と欲望がぶつかり合い、呼吸は浅くなる。
数日前、私は同じ立場の友人に打ち明けた。
「本気なら、方法はあるよ。別れさせ屋って知ってる?」
「ドラマの中だけの話でしょ」
「現実にもある。私は相談したことがある」
その一言が耳から離れず、夜は眠れなかった。
暗い部屋。冷蔵庫のモーター音が一定のリズムで響く。私はスマホを握り、検索窓に文字を打ち込む。
「不倫恋愛 別れさせる方法」
画面に並ぶ事例や費用の文字。
「夫を取り戻した」「彼を妻から離した」
光が指先を照らし、私の鼓動をさらに早める。
彼の約束はよく変わる。
「日曜の昼、ドライブしよう」
そう言った翌朝には、
「急に予定が入った、ごめん」
と短いメッセージ。私は「大丈夫」と返す。だけど本当は、大丈夫じゃない。
ソファに深く沈み、外の廊下を歩く足音に耳を澄ます。心音ばかりが大きく響く。頭の片隅に世間の声がよみがえる。
「不倫は最低」「家庭を壊す人間」
それでも、彼の存在は私にとって生きている証そのものだった。だからこそ、簡単に手放すことはできない。

会社で噂になったらどうなるだろう。友だちに知られたら、どんな顔をされるだろう。両親に知られたら、私はきっと立ち上がれなくなる。
「不倫なんて最低」「裏切られる人の気持ちを考えろ」
そんな声が、まだ起きてもいないのに耳の奥で響く。私は社会の視線に怯えている。けれど、心は違う答えを出す。
「彼を失うほうが怖い」
その思いがすべてを押しのけ、私を動かしていた。
翌週の夜、我慢できずに彼に切り込んだ。
「あなたは、私とどうしたいの」
その問いは長い間、喉の奥で燻っていた言葉だった。勇気を振り絞った瞬間、体の奥で心臓が大きく跳ねた。
彼は一瞬、私を見て、それから視線を逸らした。
「大事だよ。だけど、今は家庭のことがあって」
耳に届いた言葉は優しさを装っていた。けれど実際には、私を待たせる口実にしか聞こえなかった。
「じゃあ、いつ」
声がかすれて、問い詰めるように続けた。
「わからない」
その瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れていった。壁のひび割れのように、小さく、けれど確かに。
私はうなずくしかできなかった。泣くことも責めることもできない弱さが、自分をさらに追い詰める。
別れ際、彼の背中はすぐ人混みに紛れていった。私は一人取り残され、コンビニの白い灯りに吸い寄せられるように入った。店内は暖かいはずなのに、体は冷え切っていた。温かいお茶を一つ買い、両手でカップを握った。熱が伝わるのに、指先は震えて止まらない。
自動ドアが開くたび、外の冷たい風が入り込み、胸の奥に空洞が広がる。私はスマホを取り出し、何度もためらった末に画面を開く。
そこにあったのは、ネットで見つけたサービスのページ。
白地に浮かぶその文字が、やけに強く目に刺さる。
私は一度、画面を閉じた。背筋を伝う寒気が、ためらいの理由を作る。けれど次の瞬間、指先はまた画面を開いていた。閉じても閉じても、結局は戻ってしまう。まるで心の奥の欲望に操られるように。
「私は、彼を手放せない」
理性よりも強い叫びが、指を動かし続けていた。「私はどうしたい」
心に問い直す。
「彼と昼に歩きたい。名前で呼ばれたい。週末に一緒に朝食を食べたい」
望みははっきりしている。私はそれを取りにいくのか、諦めるのか。
友人からメッセージが届く。
「決めるのはあなただけ。でも、決めないまま時間は過ぎるよ」
私は深く息を吸う。目を閉じる。音が消える。
「私が彼の一番になりたい」
胸の奥で言葉が固まった。
指先がボタンに触れる。
世間の声が頭をかすめる。家族の顔が浮かぶ。職場のデスク。グループチャット。
それでも、私は指を離さなかった。
「たとえ誰に責められても構わない」
小さく口に出す。声は震えていない。
私は押した。送信の小さな音がした。
同時に胸の中で別の音がした。迷いがほどける音に近い。
私は、別れさせ屋に依頼することを決めた。
これは逃げではない。
不倫恋愛を終わらせるためではなく、私の望む形で始め直すための行動だ。
彼を奪い、妻に勝ち、本気の恋を手に入れるための、最後の選択。
翌朝、彼からメッセージが来た。
「今夜、少しだけ会える」
私は一度深呼吸をしてから返信する。
「大丈夫。私のほうでも動き始めた」
送信してからスマホを置く。背筋が伸びる。
もう、受け身ではいない。私は選んだ。
