見出し画像

功罪論は無意味、SNSは“場” 世界観を見抜けないと疲れるだけ

「SNSは〇〇だ」とよく言われます。けれど、本当にそうでしょうか。 Instagramで美しい写真に触れる時間と、noteで自分の考えを整理する時間を、同じ「SNS」という言葉で括ってしまってよいのでしょうか。

SNSは一枚岩ではありません。そこには異なる世界観があり、出会える人も、過ごし方もまったく違います。にもかかわらず、「SNSは〇〇だ」と決めつける言葉が世の中にはあふれています。

この記事では、SNSを一括りにする議論の危うさと、それぞれの世界観の違いについて考えてみたいと思います。明確な答えを出すつもりはありません。ただ、「SNSは危険」「SNSは便利」といった単純化された言葉に立ち止まり、もう少し丁寧に見つめ直す時間になればと思います。


✅SNSは〇〇だ!

「SNSは危険だ」「SNSは便利だ」——こうした言葉を聞くたび、なぜかいつも”もやもや”します。

それって、まるで「食べ物は体にいい」「食べ物は体に悪い」と言っているようなものかと。サラダもラーメンもスイーツも全部ひっくるめて「食べ物」と呼んでいるだけで、中身はまったく違うのに。そんな雑な議論は栄養学者が聞いたら倒れると思います。

Instagram、X(Twitter)、Facebook、TikTok、note——これらを「SNS」という一つの箱に入れてしまうのは、それくらい乱暴な話です。それぞれまったく違う世界観を持ち、そこで出会える人も、交わされる会話も、目的も違う。なのに「SNSは・・・」で始まる議論の多いこと。
だから、「SNSは〇〇だ」と決めつける話を信用していません。SNSは一つの世界ではなく、複数の世界が並んでいる場だからです。

✅SNSは「誰に会いたいか」で選ぶもの

いくつかのSNSを使い分けていて、どれにするか選ぶのは、それは「今日は誰に会おうかな」と考えることに近いと思っています。

  • Instagram ーーセンスのいい知り合いや、おしゃれな店をよく知っているあの人に会おうと思ったとき。一緒にいると気分は上がるけれど、毎日続くと少し疲れる。 (正直、「映え」より「ゆっくりできるイス」の方がありがたい。)

  • Twitter(X) ーー居酒屋で毒舌を吐く友人や、ニュースの裏側を鋭く突っ込んでくれるあの知り合いに会おうと思ったとき。情報は速くてユーモアもあるけれど、調子が乗りすぎると暴走しちゃうときもある。 (40代にもなると暴走に付き合う体力はもうない。翌朝に響きます。)

  • Facebook ーー同窓会のように昔の友達に会おうと思ったとき。 「いま何してる?」と近況を教え合える懐かしい人たち。でも正直、年に一度くらいで十分。会いたくない人が含まれていることもある。 (通知が来るたびに、どうしようかとつぶやくのも40代あるある。)

  • TikTok ーーノリのいい後輩に会おうと思ったとき。 「これがすごい!」と最新の流行を教えてくれる元気だけのあいつ。若さに圧倒されるときもある。(40代の体には、あのダンスはもう無理。見てるだけで十分。)

  • note ーー自分自身に会いたいと思ったとき。居心地のよいカフェで、自分の考えをnoteに書き出しながら整理するような時間。結局、一番疲れないのはこれかもしれない。(40代になると「自分と向き合う時間」が一番の贅沢かも。しかも、誰にも気を遣わなくていい。)

noteが他のSNSと決定的に違うのは、「誰かに見せる」より「自分と向き合う」ことを中心にしている点です。だからこそ、ここで書くことは「誰かに会う」だけでなく「自分自身に会う」体験になります。

✅「会いたくない人」にも出会うからこそ

正直に言えば、SNSには「今は会いたくない人」も出てきます。

マウンティングしてくる知人。映えを延々と発信し続ける他人。延々と愚痴を言い続ける人。やたらと説教してくる人。あと「おはよう」から「おやすみ」まで全部投稿する人。

リアルな人間関係なら、「今日は会わない」と距離を取れます。でもSNSでは、タイムラインにふいに現れたりする。しかも、向こうはこちらが見ていること、見たいと思っていることを知っている。既読無視もできないし、距離を置いてもいつの間にか向こうから近づいてくる
これが、SNS疲れの正体かもしれません。

ちなみに、noteの良さは、この「会いたくない人」に出会うリスクが比較的少ないことです。ここには「自分の言葉を試したい人」や「じっくり考えたい人」が集まっています。つまり、書くのに労力がかかるから、そもそも面倒くさい人は入りづらい、良いフィルターです。

✅SNSを一括りにする危うさ

「SNSは危険だ」とまとめてしまうと、Instagramの美を共有する場も、noteの思索を深める場も、全部同じ袋に入れられてしまいます。

これって、まるで「本は危険だ」と言っているようなもの。絵本も小説も哲学書も自己啓発本も怪しいビジネス書も、全部「本」という理由で一括りにされたら、おかしくないですか?  でも不思議なことに、「SNSは・・・」で始まる議論だと、急に雑になっている。

それぞれのSNSは異なる目的と文化を持ち、そこで出会える人も違う。だから「SNSは〇〇だ」という言葉を、わたしは信じないです。信じないというより、信じる気になれないです。あまりに雑すぎるので。

✅本当に問題なのは「行きすぎ」

本当に危険なのは、SNSそのものではなく、使い方が行きすぎることです。

  • 長時間使いすぎて、現実との境界が曖昧になる

  • 自分を見失うほど依存してしまう

  • 「誰に会いたいか」を忘れ、ただ流されるように画面を眺め続ける

でも、これはSNS固有の問題ではありません。テレビでもゲームでも、お酒でも、食べ物でも同じです。

つまり「SNSだから危険」なのではなく、「行きすぎれば何でも危険」なのです。

noteはこの点でもユニークで、長時間滞在しても「消費」ではなく「創作」に時間を使えるため、自己表現や思索の蓄積につながります。SNSの中で「行きすぎても自分に返ってくる」場として、noteは特別な存在だと思っています。

まるで、ポテトチップスを食べ続けるのと、料理をしながら味見を続けるのとの違いでしょうか。どちらも時間は使いますが、後者は自分に何かが残り、何か前進します。

✅SNSは一括りにできない。

「SNSは危険だ」「SNSは便利だ」といった単純化された言葉を信じるのは危ういのです。それぞれのSNSは異なる世界観を持ち、そこで会える人も違う。

だからこそ、功罪を議論するよりも大切なのは、自分がどの世界観に身を置きたいのかを選び、行きすぎないことです。

そして、noteはその中でも「自分自身に会える場」として特別です。他のSNSが「誰かに見せる」ことを中心にしているのに対し、noteは「自分と向き合う」ことを中心にしています。

だからこそ、ここで書くことは「誰かに会う」だけでなく「自分自身に会う」体験になるのです。

▶️あとがき

SNSを一括りにして語る論調は、世界の多様性を見えなくしてしまいます。

Instagramで会える人と、noteで会える人はまったく違う。だから「SNSは〇〇だ」という言葉を、そのまま信じる必要はありません。

本当に大事なのは、自分の気分や状況、目的に合わせて「今日は誰に会うか」を選ぶこと。そして、どんな趣味や嗜好でも同じように「行きすぎない」こと。

その視点さえ持てば、SNSはもっと軽やかに、安心して楽しめるはずです。

そして、noteはその中でも「自分の世界観を育てる場」として、安心して長く滞在できる場所です。ここで書くことは、誰かに届くだけでなく、自分自身に届く。

だからこそ、noteで言葉を紡ぐことには特別な意味があると思っています。
そして、『読まれないかもしれないけど、書く』のです。

🔄️こんなことも書いています。

👍インターネットもSNSも分断を生んでいません。おすすめです。


最後に

このnoteでは、会社員(勤め人)目線で“なんとなく難しい”を“ちゃんとわかる”に変えることを目指しています。制度の裏側や仕組みの合理性を、やさしく、でも本質的に。このnoteが、みなさんの「なんとなく」を「なるほど」に変えるきっかけになれば嬉しいです。そんなことを思いながらこれからも発信していきます。

※本記事は、筆者個人の視点や経験に基づいた考察です。特定の立場や価値観を否定する意図はなく、あくまで一つの見方としてご覧いただければ幸いです。異なるご意見や感じ方があることも前提にしながら、思考のきっかけになればと思って書いています。

いいなと思ったら応援しよう!

わかる手前の人 もし記事が役立った、面白かったと思っていただけたら、コーヒー一杯分のチップで応援していただけると嬉しいです☕️。みなさんの一杯が、次の一記事につながります。