誰でもわかる唯識 —世界はバーチャルか、それとも。 #01知ったら世界がバグる仏教マガジン
私たちは、世界そのものを見ているのだろうか。
朝、目を覚ます。カーテンの隙間から光が差し込み、鳥の声が聞こえる。スマートフォンを確認すると、誰かからメッセージが届いている。その文章を読んで嬉しくなることもあれば、少し腹立たしく感じることもある。
私たちは普段、それを極めて自然に「世界で起きていることを、自分が見ている」と捉えている。目の前に世界があり、その中心に自分がいて、自分という人間がそれを見たり、聞いたり、判断したりしている。
おそらく、多くの人にとってそれが最も自然な世界の捉え方なのだろう。
しかし、本当にそうなのだろうか。
世界は、一度あなたの中を通っている
例えば、二人の人間が同じ雨を見ているとする。一人は農家、もう一人は旅行者だ。
一週間雨が降らず、田んぼの水が減っていた農家にとって、それは「助かった」と感じる雨かもしれない。空を見上げながら待ち望んでいた雨だ。一方、楽しみにしていた観光の日に雨に降られた旅行者には、「最悪だ」と感じられるかもしれない。
雨そのものは同じである。同じ空から、同じ水滴が落ちている。しかし二人の中に現れている「雨」はまったく違う。恵みの雨にもなれば、憂鬱な雨にもなる。
つまり私たちは、単純に世界を見ているわけではない。
目の前の出来事は、記憶、経験、感情、期待、恐怖、身体の状態、そしてこれまで生きてきた時間を通過して、初めて「私の世界」として現れる。
同じ出来事を前にしても、人によって世界の見え方が違う。その理由は、案外ここにあるのかもしれない。
頭の中に、小さな映写機があると考えてみる
ここで一つ想像してみたい。私たちの中に、昔の映画館にあったような小さな映写機があるとする。
そこには長いフィルムが入っている。
子どもの頃の記憶、誰かに言われた言葉、嬉しかった出来事、傷ついた経験、成功と失敗、親から教わったこと、学校で学んだこと、社会の常識、自分自身について信じていること。
そうした膨大なものが一本のフィルムになり、私たちは目の前の出来事を見るたびに、そのフィルムを通して世界を映し出している。
すると不思議なことが起きる。今ここにあるものを見ているはずなのに、私たちはかなりの部分を過去から投影している。
例えば、上司から「少し話がある」と呼ばれたとする。まだ何も起きていない。
ところが以前、大きな失敗をして叱られた経験がある人なら、その瞬間から「また怒られるのではないか」という映画が始まる。心拍数が上がり、身体が緊張し、上司の表情まで怖く見えてくる。
しかし実際に話を聞いてみれば、「この前の仕事はよかったよ」という話だったりする。
現実には何も起きていなかった。それでも、その数分間、本人の中には確かに「叱られる世界」が存在していた。
映写機が過去のフィルムを使って、未来を先に上映していたのである。
私たちは、少しずつバーチャル映像の中を生きている
もっと現代的に言えば、これはバーチャル映像に近い。
VRゴーグルを装着し、映像の中で高い崖の上に立つ。実際には安全な部屋の床にいると頭では分かっている。それでも足はすくみ、心拍数が上がり、汗をかく。
身体は、目の前の経験に本気で反応する。
つまり人間にとって重要なのは、「物理的に何が存在しているか」だけではない。
それが、どのように経験されているか。
そして考えてみれば、私たちは日常でも似たことをしている。
「あの人は私を嫌っている」「きっと私は失敗する」「私はこういう人間だ」「世の中は厳しい」「もう年齢的に遅い」「私は昔からこうだから変われない」。
もちろん、それが事実である場合もある。しかし、そのすべてが世界そのものとは限らない。
もしかすると私たちは、自分の中にある映写機が映した映像を、世界そのものだと思って生きているのかもしれない。
そして厄介なのは、同じ映像を長く見続けるほど、それが現実そのものに見えてくることだ。
では、映写機を動かしている「私」とは誰なのだろう
ここまで考えると、もう一つ奇妙な問題が現れる。
映写機が世界を映しているとして、その映写機を動かしている「私」とは、一体誰なのだろう。
普通なら「もちろん私だ」と答えるだろう。
しかし、あなたの性格は本当にあなた一人で作ったものだろうか。
両親、友人、先生、恋人、職場、住んできた町、読んだ本、見た映画、成功、失敗、別れ、出会い。無数の人や出来事が現在のあなたを形作っている。
言葉一つを考えてもそうだ。私たちは自分の言葉で考えているつもりだが、その言葉のほとんどは誰かから受け取ったものだ。
だとすれば、世界を見ている「私」そのものも、世界との関係の中で作られてきた存在ではないだろうか。
ここから話はさらに面白くなる。
世界を見ている私と、私が見ている世界。
この二つは、本当に明確に分けられるのだろうか。
一杯のコーヒーにも、世界が入っている
目の前に一杯のコーヒーがある。
普通なら「私がコーヒーを飲んでいる」で終わる。しかし少し視野を広げると、その一杯の中には驚くほど多くのものが入り込んでいる。
豆を育てた土地。雨。太陽。農家。収穫した人。運んだ人。焙煎した人。店を作った人。カップを作った人。水道を整備した人。
さらに、それを「おいしい」と感じる自分自身にも過去がある。昔誰かと飲んだコーヒー、仕事を終えた後の一杯、旅先で飲んだ一杯。そうした記憶まで含めて、今ここにある一杯のコーヒーが立ち上がっている。
すると「私がコーヒーを飲んでいる」という単純な図式は崩れてくる。
そこにあるのは、人、植物、土、太陽、雨、時間、記憶、文化、身体。無数の関係が、一つの瞬間に集まっている現象だ。
コーヒー一杯ですら、単独では存在していない。
主体は、本当に一か所にあるのだろうか
私たちは世界を見るとき、どうしても「主人公」を作りたくなる。
私が考えた。私が決めた。私が成功した。私が失敗した。
もちろん、それは間違いではない。責任を持って生きるためにも、自分という輪郭は必要だ。
しかし、それだけが世界の見方なのだろうか。
例えば二人で話しているうちに、自分一人では思いつかなかった考えが突然生まれることがある。
Aさんが考えたわけでもない。Bさんが考えたわけでもない。Aの言葉にBが反応し、その反応にAがまた反応する。その往復の中から、最初には存在しなかった第三のアイデアが生まれる。
では、そのアイデアの作者は誰なのだろう。
Aだろうか。Bだろうか。
もしかすると、関係そのものなのかもしれない。
音楽のセッションでも、農作業でも、家族でも、恋愛でも、社会でも同じことが起きる。一人ひとりが先に完成された存在としてあり、その後に関係を結ぶのではない。
関係することによって、それぞれの存在そのものが変化していく。
世界は「もの」より「出来事」に近いのかもしれない
私たちは世界を、ものの集合として捉えがちだ。
人間がいる。木がある。川がある。石がある。空がある。
しかし実際には、それらはすべて変化している。人間の身体は代謝し、木は光を受けて成長し、川は流れ、石も長い時間の中では削られ、大気は循環している。
本当の意味で止まっているものなど、ほとんどない。
そう考えると世界は、「物体の集合」というより、出来事の重なりに近くなる。
そして私たち自身も、その出来事の一つである。
世界の外側に私が立ち、そこから世界を眺めているわけではない。世界の中から生まれた存在が、世界の一部を感じ、世界の一部について考えている。
雨を見ている私もまた、雨が降っている世界の一部なのである。
映写機も、スクリーンも、観客も、同じ映画の中にいる
ここまで来ると、最初の映写機の比喩も変わってくる。
最初は「私の中の映写機が、世界というスクリーンに映像を映している」と考えた。
しかし、それだけでは足りない。
映写機そのものも世界によって作られている。フィルムも世界から受け取っている。スクリーンも世界である。そして映画を見ている観客である「私」もまた、その世界から生まれている。
つまり、映写機も、フィルムも、スクリーンも、観客も、すべてが一つの巨大な映画の内部にいる。
では、一体誰がこの映画を上映しているのだろう。
ここまで来ると、「誰か一人が上映している」という考え方そのものが不自然になってくる。
世界は、無数の関係の中で、世界自身を絶えず映し出している。
そんなふうにも考えられる。
この問いを、千年以上前から考えていた人たちがいる
実は、人間はこうした問いをはるか昔から考えてきた。
「私とは何か」「世界とは何か」「私が見ている世界は、本当に世界そのものなのか」「心と世界はどこで分かれるのか」。
その一つが、仏教に生まれた唯識という思想である。
唯識は、私たちが経験している世界がどのように心に現れるのかを徹底的に考えた。
「世界など存在しない」と単純に言ったわけではない。
むしろ、「あなたが世界そのものだと思っているものは、すでにあなたの記憶や経験や認識を通って現れているのではないか」と問いかけた。
さらに仏教の思想はそこから進み、存在するものは互いに関係し、単独では成立しないと考えるようになる。
見る側と見られる側。心と物。自分と世界。
その境界そのものまで、問い直していった。
難しい名前を覚える必要はない。
重要なのは、千年以上前の人々が、私たちが今VRやAIを見ながら考えている問題と、とてもよく似た問いの前に立っていたということだ。
私たちは世界を見ている。そして世界もまた、私たちを作っている
確かに私たちは世界を見ている。
しかし同時に、世界も私たちを作っている。
雨が降る。田んぼが変わる。田んぼが変われば人間の行動が変わる。人間の行動が変われば、また風景が変わっていく。
そこには、一方向の因果関係だけがあるわけではない。
互いに影響を与えながら、世界そのものが形作られていく。
人間関係も同じだ。
私があなたに言葉を渡す。あなたがそれを受け取り、返してくれる。その返答によって、次の私の言葉も変わる。
その往復の中で、最初には存在しなかったものが生まれる。
思想。友情。愛情。物語。社会。文化。あるいは、一冊の本。
世界とはもしかすると、誰か一人が作っているものではなく、関係の中から絶えず生まれ続けているものなのかもしれない。
だから、ときどき自分が見ている世界を疑ってみるのも悪くない。
「これは本当に世界そのものだろうか。それとも私は、過去のフィルムを上映しているのだろうか」
「私は本当に一人で考えているのだろうか」
「今ここで起きていることは、誰と誰の間から生まれているのだろうか」
そんな問いを持つだけで、世界の輪郭は少し柔らかくなる。
変えられないと思っていた現実にも、別の見え方が生まれる。嫌いだと思っていた誰かにも、別の物語があることに気づく。自分自身について決めつけていたことも、「あれは一つの映像だったのかもしれない」と思えるようになる。
そして最後には、映写機を持っている私も、スクリーンの向こうにいる世界も、実は一つの大きな出来事の中で出会っているだけなのかもしれない。
では、世界はバーチャルなのだろうか。
それとも——。
世界に新たな魔法を加える必要はない。
私たちはもともと、これほど不思議な世界の中にいるのだから。


