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第1章11話 世界が変わっていく音

二〇二七年、一月。

新しい年が始まった。

優弥が食品卸売りの会社に入り、三ヶ月が経とうとしていた。

会社の名前は「丸誠食品」といった。

創業四十年、従業員八十人。

社長の丸山は恰幅がよく日に焼けた顔の六十代で、毎朝一番に出社し、毎晩最後に帰るような人だった。

優弥の仕事はシンプルだった。

営業チームにAIツールを導入し、現場が使いこなせるように橋渡しをする役目。

難しい言葉は使わず、現場の言葉で説明する。

うまくいかない時は一緒に考える。

正直、最初の一ヶ月はかなりしんどかった。

給料は前職より百二十万下がった。

肩書きは「営業推進担当」で、課長でも部長でもない。

名刺を出す時、一瞬だけ止まりそうになる自分がいる。

しかし、三ヶ月も経つと自分の中の何かが変わっていることに気づいた。


変化は小さな場面から始まった。

入社して二週間目、若手営業の田所という二十五歳がこう言った。

「渋谷さん、このAIツール、どう使えばいいか分からなくて」

困った顔をしていた。

優弥はその顔を見て、AETOSを初めて開いた日の自分を思い出した。

「じゃあ、座って。一緒にやってみよう」

一時間かけて田所と一緒にツールを触った。

難しい言葉は使わなかった。

「こう入力したらこういう答えが出る。それを自分の言葉に直す。それだけだよ」

田所が「あ、なんだ簡単じゃないですか」と言った。

その言葉が優弥には嬉しかった。

簡単じゃない。

でも「簡単じゃないですか」と言わせられたなら、橋が架かったということだ。


一月の第二週、社長の丸山に呼ばれた。

「渋谷さん、田所が早速変わりましたね」

「そうですか?」

「あぁ、資料の質が上がりました。以前より随分と仕事が早くなった。最近は本人も楽しそうにやっています」

「AIを怖がらなくなったのが大きいかもしれませんね」

「あなたのおかげだ」

嬉しかった。

“あなたのおかげだ”——。

最後にそのような言葉をもらったのはいつのことだろうか。

東都マーケティングにいた最後の一年は、そんな言葉はなかった。

いや、もしかしたらあったかもしれないが、聞こえていなかった。

「渋谷くん、来月から他の営業にも同じことをやってもらえますか?」

「えぇ、やります!ぜひやらせてください!」

「あっ、あと——」

丸山が少し考え、こう言った。

「近々、給料ももう少し上げることを考えてます。期待してますよ!」

「ありがとうございます」

「あなたが私に感謝されることをしてくれているから、私もあなたにそれを返します。それだけです」

丸山はそう言い、笑いながら部屋を出た。

優弥はしばらくその言葉を胸の中で転がした。

感謝されることをしてくれているから、それを返します——。

シンプルな言葉だった。

しかし今の優弥には、その言葉が他の何よりも心地よかった。


一月の終わり、世の中が大きく動いた。

国内の大手企業が相次いで「AI化に伴う組織改編」を発表した。

製造業の大手が工場の自動化を加速させ、金融機関が窓口業務の七割をAIに移行すると宣言した。

政府は「AI移行支援策」として、失業者向けのリスキリングプログラムを拡充した。

ニュースは毎日、そういう話題で持ちきりだった。

優弥はそのニュースを以前とは違う目で見ていた。

以前は怖かった。

自分が飲み込まれる側の話として見ていた。

でも今は——動いている波の中に自分がいる感覚があった。

波に飲まれるのではなく、波の上に乗ろうとしている感覚。

まだ乗りきれていない。

でも、溺れてはいない。


同じ頃、玲は毎日の仕事が面白くなっていた。

最初はAIコンテンツのチェックから始まった仕事が、少しずつ変わっていった。

十一月に書いた転職者向けの記事が予想外に読まれた。

鈴木さんは大喜びで、このトーンでもっと書いてほしいと言った。

十二月には月に三本書いた。

一月には五本になった。

玲が書く記事には共通点があった。

数字より先に感情から入る。

きれいごとを言わない。

「大変だった」を正直に書く。

読者からのコメントが来るようになった。

「この記事、まるで自分のことが書いてあるみたいでした」

「就活で二十九社落ちた話、涙が出ました。私も同じだったから」

玲はそのコメントを読み、過去の自分のいろいろなことを思い出した。

もっともっと自分の経験を書いてみよう。

谷の中にいた自分のことを。

それが誰かの「まるで自分のことみたい」になるのであれば——。

これまでの痛かった時間が、気がつけば誰かの痛みに寄り添う言葉となっていた。


一月のある夜、玲は記事を書きながら、ふと考えた。

渋谷さんは、どうしているだろうか——。

連絡はしていない。

もう、四ヶ月していない。

でも、時々、思うことがある。

あの人は谷を越えられただろうか。

新しい仕事は見つかっただろうか。

真奈さんとの関係はどうなっただろうか。

愛ちゃんは、まだAIの授業を楽しんでいるだろうか。

考えた。

でも、やめた。

今の自分には自分の仕事がある。

自分の生活がある。

一人でちゃんと立てている。

それが今の自分の答えだ。

でも、いつかまた、あの人の声を聞く日が来たらいいな——。

そう思うことだけは止めなかった。


二月。

世の中の変化がさらに加速した。

大学の就職説明会にAIを使った採用システムが本格導入された。

エントリーシートをAIが一次選考する会社が全体の六割を超えた。

面接の一部をAIが担う会社が現れた。

玲はそのニュースを読み、複雑な気持ちになった。

もし一年前にそのシステムがあったら、自分はどうなっていただろう。

二十九社のうち何社かはAIに弾かれていたかもしれない。

でもあの時、まだ何社かが人間の面接官だったから通ったのかもしれない。

今の会社の面接官が、自分の「正直に書いた」レジュメを見て「良かった」と言ってくれた。

あの時のあの判断は、人間だからできた判断だったんじゃないかと思う。

もしもAIが選ぶ世界だったとしたら、今の自分はここにいなかったかもしれない。

そう思うと、人間が選ぶことの重さを痛感するほど強く感じた。


二月の第二週、玲に新しい話が来た。

鈴木さんに呼ばれた。

「羽多野さん、一つ相談があってですね」

「なんでしょう?」

「まもなく新しいプロジェクトを始めたいと思ってるんです。AI時代に仕事を失った人、就活で苦労している人に向けたメディアを作りたいと」

玲はそのように言う鈴木さんを、改めて真剣な眼差しで見た。

「羽多野さんの記事を読んでいて気づいたんです。AIには書けないことがある。また、経験した人にしか書けないこともある。羽多野さんにはそのメディアの編集長をやってほしいと!」

少し固まった。

「わ、私が、編集長、ですか……?」

「入社五ヶ月の新卒に言うことじゃないのは分かってます。でも、適任だと思ってます。これまであなたが経験したことが、そのままコンセプトになる。だからこそ、このプロジェクトは羽多野さんが中心で進めていきたいと」

窓の外を見た。

二月の空が白く広がっていた。

一年前の自分に言ったら信じるだろうか。

二十九社落ちて、コンビニで夜中にレジを打っていた自分が、一年後にメディアの編集長を打診されている、と。

信じない。

絶対に信じない。

でも、現実はそうなっていた。

「やります。いや、やらせてください!」

はっきりと、強くそう言った。

「怖いですか?」

「えぇ、怖いです」

「でも、やりますか?」

「はい!やります!」

鈴木さんが笑った。

「それで十分です」


同じ言葉だ——。

ふとそう思った。

渋谷さんが最初の面接で言ったと話してくれた言葉。

丸山社長が言った言葉と同じだと後で知ることになるのだが、今の玲にはまだ分からない。

それで十分です——。

その言葉が、今の時代の合言葉みたいだと思った。

完璧じゃなくていい。

全部分からなくていい。

向き合う気持ちがあればそれで十分。


二月の終わり、優弥は丸誠食品である成果を出すことができた。

営業チーム全員にAIツールを渡し、基本研修を終えた後、資料作成の時間が平均四十パーセント減っていた。

その分、営業担当が顧客と話す時間が増え、受注率も上がっていた。

数字で自分の存在を証明できた。

久しぶりの感覚だった。

夜、真奈にその話をした。

「数字が出た」

「すごい、良かったじゃない!」

「まぁ、まだ小さい数字だけど……」

「最初は小さいでしょ、何でも」

真奈がコーヒーを入れてくれ、優弥はそれを両手で受け取った。

「真奈、一つ聞いていいかな?」

「なに?」

「俺、最近少しは変わったかな?」

真奈が少し間を置き、こう言った。

「うん!変わった!」

「どう変わった?」

「以前のあなたは怖いのを隠してた。でも、今のあなたは怖いと、正直に言える」

優弥はその言葉を聞いた。

「それは、良い変化なのか?」

「当たり前でしょ!」

真奈がぶっきらぼうに言った。

こんな時くらい優しく言ってくれたらいいのに——。

そう思うと思わず笑ってしまった。


三月が近づいていた。

優弥と玲が雨の夜に出会ってから、ちょうど一年が経とうとしていた。

二人は連絡を取っていなかった。

でも、同じ空の下でそれぞれの新しい朝を迎えていた。

世の中はこれまで以上に加速しながら変わり続けていた。

AIもさらに進化し続けていた。

仕事を失う人が猛烈な勢いで増えていた。

道に迷っている人が増え続けていた。

激動の2027年の始まり。

谷は続いている。

いや、続いているというよりも、その谷の深さはどんどん深くなっていった。

でも——。

谷とは決して、どこまでも谷ではない。

谷の次には山がある。

そう。

大丈夫。

メディア「谷から」。

このプロジェクトが、混沌とする今のこの世の中で、わずかな希望の光となることを願っている。

今、谷の中にひとすじの光が見え始めてきた。

一人ひとりの小さな光。

それが集まり、やがては大きな光となり、夜明けとなっていく。

明けない夜はない。

そうであることを信じて。

第1章11話 完

本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・企業・製品名等はすべて架空のものであり、実在する人物・団体・企業・製品とは一切関係ありません。
また、作中に登場するAI・ロボット技術および社会情勢の描写は、著者の想像に基づくものであり、実際の技術動向や将来予測を示すものではありません。

※第1章17話までは無料配信予定。
第2章は有料記事とする予定です。

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