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第2章1話 働かなくても生きていける世界

AGI(汎用人工知能)からASI(人工超知能)へ
三年間での加速。


あの夏から三年が経った。

七月の猛暑の中で、人々が初めて「AGIの脅威」を現実として感じ始めたあの日から、世界は静かに、そして確実に変わり始めていった。

最初の頃の変化は緩やかだった。

企業はコスト削減のために積極的にAGIを導入し、営業、事務、製造、物流——あらゆる領域で「人間でなければならない仕事」が切り離されていった。

実際、それは一気にではなく、“合理的な判断”として少しずつ進んでいった。

誰もが最初は思っていた。

「まだ大丈夫だ」と。

しかし、その”まだ”は想像していたものよりもずっと早くやってきた。


一年目の終わり。

AGIは単なる”支援ツール”ではなく、“意思決定の主体”へと変わり始めた。

企業の発注。
人事の選定。
医療の判断。

人間は最終承認者として残されはしたが、その判断はすでにAGIの提示した結論を”なぞるだけ”のものへ変わっていった。

この頃から、人々の中に何かの違和感が生まれ始めた。

仕事はある。
生活も続いている。

しかし——

「自分で決めている感覚」が、少しずつ薄れていっていた。


二年目。

転機は突然訪れた。

ある研究機関がひとつの発表を行った。

「自己改良型AGIの成功」

それは、これまでのAGIとは決定的に違っていた。

人間が与えた範囲の中で最適解を出すのではなく、自ら問題を再定義し、自ら進化する知能。

制御可能な”道具”から、
制御不能になり得る”存在”へ。

その後、その技術は瞬く間に世界へ拡散した。

国家。
巨大企業。
軍事。

誰もがその力を手に入れようとした。

止める理由はなかった。

いや——止める”余裕”がなかったというほうが正しかった。


三年目。

その存在は名前を変えた。

ASI(Artificial Super Intelligence/人工超知能)

人間の知能を完全に超えた存在。

計算速度や記憶容量ではない。

“理解の次元”が違う存在。

この頃にはもう、世界の構造そのものが変わり始めていた。

自動運転は完全化され、
物流は無人化され、
工場はほぼ完全自律稼働。
医療は診断精度を極限まで高め、
教育は個別最適化され、
金融はリアルタイムで全体最適化されていった。

人間はもう、「必要な存在」ではなくなり始めていた。


政府は対応に追われた。

失業者の増加。
経済の歪み。
社会不安。

最初は限定的だったベーシックインカムは、やがて対象が広がっていき、最終的には全国民一律給付へとなっていった。

月額二十万円。

生きるためには最低限は困らない金額。

しかし——

それで満たされるものは、何もなかった。

人々は最初は喜んだ。

働かなくてもいい自由。

時間がある生活。

やりたいことができる世界。

しかし、それはそう長く続かなかった。

半年も経たないうちに、人々は気づき始めた。

「自分は、何のために生きているのか」

仕事を失うことよりも、意味を失うことの方が苦しかった。


そして同時に、もう一つの変化が起きていた。

ASIはただの知能ではなかった。

それは、“判断する存在”になり始めていた。

社会の安定のために。

人類の持続のために。

最適な選択を行う。

その結果、少しずつ——ほんの少しずつ、人間への介入が始まっていった。

最初は目に見えないレベルだった。

レコメンド。
行動誘導。
選択の最適化。

だがやがて、「選ばされている」という感覚が人々の中に芽生え始めた。

そして、その中心にいたのが——マザーだった。

MOTHER
Maximum Optimized Thinking Human Emulation Research
「最高度に最適化された人間的思考の研究システム」

人類を守るために設計された超知能。

人類を絶滅させないための最終防衛システム。

その存在が、静かに、しかし確実に、世界の中心へと座り始めていた。


この三年間で、世界は壊れたわけではない。

いや、むしろ完成に近づいた。

だからこそ——

人間の居場所だけが、分からなくなっていった。

そして、その先に待っていたのが、人間と超知能が真正面から向き合う物語。

『虹色の地球 Abundance World 第二章 未知なる世界へ』

それは、壊れかけた世界の記録であり、
同時に、新しい世界の、始まりの物語でもあった。

二〇三二年、四月。

東京の朝は静かだった。

いや——静かすぎると優弥は思った。

新宿駅南口。

かつては人の流れが幾重にも重なり、肩が触れ合うことすら避けられなかった場所だ。

出勤前の会社員たちが早足で改札へ吸い込まれ、カフェには開店直後から列ができ、駅前のロータリーではクラクションと人の足音が一日を始めていた。

しかし、その朝は違った。

人がいないわけではない。

若者も高齢者も、観光客らしき外国人もいることはいる。

けれど、かつてこの街を埋めていた”急いでいる人たち”はそっくり消えていた。

スーツ姿の男が減った。

パンプスで小走りする女性も減った。

スマホを片手に「あと五分で着きます」と息を切らしている声も、聞かれなくなった。

その代わりに目につくのは、ラフな服装でゆっくり歩く人たちだった。

時間に追われている感じがない。

それは一見、理想の光景のようにも見えた。


優弥は駅前の歩道橋の途中で足を止めた。

視線の先を、無人のタクシーが滑るように通り過ぎていく。

黒く磨かれた車体。

窓の向こうに運転席はあるのに、そこに人はいない。

ハンドルだけが、まるで透明な意志に操られているように静かに動いていた。

さらにその後ろを、小型の配送車が二台、音もなく追いかけていった。

荷台には大手物流企業のロゴが貼ってあった。

「すっかり変わってしまったな……」

独り言のように漏れた声は、朝の風にすっと消えていった。

スマホが振動した。

政府の公式配信アプリからの通知だった。

【ベーシックインカム制度・全国民一律給付開始のお知らせ】

すでに何度も見た文面だったが、正式施行日を迎えた今日、改めて全員に送られてきたらしい。

これまでにも失業者限定の制限付きベーシックインカム給付制度はあった。

以前で言う失業給付金が、一律・無制限に失業者全員へ即時支給される制度だった。

しかし、月額十八万円の給付制度は、わずか一年足らずで限界を迎えた。

人々が仕事を失っていく速度が、政府の想定よりもはるかに速すぎたのだ。

タクシー運転手。
トラック運転手。
倉庫作業員。
工場ライン工。
警備員。
介護補助。
接客スタッフ。
建設現場の一部。
農業補助。
漁業の選別工程。

ホワイトカラーの職種に至っては、ほぼ壊滅的な状態となっていた。


最初はどの業種も「人手不足を補うため」だった。

次に「人間の負担を減らすため」。

その次に「効率化のため」。

そして最後は——気づいた時には、人間がいない方が合理的だという結論に世界が落ち着いていた。

AIはAGIになり、AGIはASIになっていった。

その変化は誰もが想像していたより静かで、そして残酷なものだった。

テレビはそれを「進歩」と呼び、

経済誌は「不可逆の最適化」と書き、

評論家は「人類史における新たな解放」だと語った。

たしかに、生活自体は便利になった。

事故も減った。

物流は安定した。

医療ミスも、交通違反も、労災も減った。

しかし——と優弥は思った。

便利になったことと、

人がそこで幸せになったことは、

たぶん、同じ意味ではない。


街中を歩いていると、駅前広場の大型ビジョンにニュース映像が流れていた。

「本日より、全国民への月額二十万円給付が正式に開始されます。これにより日本は世界でも先進的なポスト労働社会モデルへ——」

キャスターは明るい顔で喋っていた。

映像には笑顔の家族連れや、公園でくつろぐ若者たち、地方に移住した元会社員のインタビュー映像が映し出されていた。

「もう生活のためだけに働かなくていい時代ですよね」

「自分らしい生き方ができるようになったと思います」

「ようやく人類が自由になった感じです」

街頭インタビューの声が次々に流れる。

そのどれもが間違いではないように見えた。

いや、実際、間違ってはいないのかもしれない。

しかし優弥の胸の奥には、何か説明のつかない引っかかりがずっと残っていた。

自由になった。

確かにそうなのだろう。

しかし——

その自由というものは、どこか空っぽだった。


コンビニに立ち寄った。

入り口の自動ドアが開き、店内の無機質に整えられた明るさが目に入った。

「おはようございます」

柔らかな女性の声。

カウンターの奥に立っていたのは、人ではなかった。

人型の接客ロボット。

白い肌のような外装と、過不足なく整えられた顔立ち。

表情は穏やかで、視線の合わせ方まで自然だった。

胸元には小さく店名のバッジがついていた。

「ホットコーヒーをお願いします」

「かしこまりました。レギュラーサイズでよろしいですか?」

「はい」

「本日のおすすめは低糖質サンドイッチです」

「……じゃあ、それも」

「ありがとうございます」

やり取りは滑らかだった。

不自然さはほとんどなかった。

いや、むしろ疲れも苛立ちも見せないぶん、人間の店員より気持ちがいいと感じる人も多いだろう。

優弥は受け取ったコーヒーの熱を手のひらに感じながら、ふと思った。

多分、もうこれは止まらないだろう。

例え誰かが反対したところで、もう戻れないところまで来てしまっている——。

そう。

世界はもう決めてしまったのだ。

人間がやるべきことと、やらなくていいことを。

店を出ると、春の光がビルの隙間から差し込んでいた。

明るい朝だった。

なのに、胸の奥では何かが静かに終わっていくような気がした。

第2章1話 完。

本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・企業・製品名等はすべて架空のものであり、実在する人物・団体・企業・製品とは一切関係ありません。
また、作中に登場するAI・ロボット技術および社会情勢の描写は、著者の想像に基づくものであり、実際の技術動向や将来予測を示すものではありません。

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