見出し画像

第2章6話 ドクター・ソロンからの伝言

河川敷での出来事から二週間後のこと。

信用スコアによる制裁が、ついに現実のものとなり始めた。

きっかけは小さな通知だった。

【重要】翌月の市民基本給付について、信用指標に基づく調整が実施されます。

全国民十八歳以上への毎月一律二十万円給付。十八歳未満への十万円給付。

それが、段階的に引き下げられるようになった。

毎月五万、十万、十五万、そして最悪の場合は受給停止。

明確な基準は、一切公表されていなかった。

ある朝突然、翌月からの減額通知が届く。

それだけだった。

理由は何も書かれていない。

今やベーシックインカムによって生活を維持している者たちにとって、それは死活問題だった。


最初の事件が起きたのは、二月の初めのことだった。

来月の受給資格が停止するという通知を受け取った男が、やけになって仲間と共に大手物流倉庫に忍び込んだ。

車を乗り付け、商品を奪い、逃走した。

受給が止まるということは、生活ができなくなるということだ。

遠回しに、死ねと言っているのと同じだ。

男はそう捉えた。

この事件は、社会的に大きな関心を集めた。

そして、似たような事件が全国各地で多発し始めた。

最初は、ベーシックインカムの減額や停止に対する報復が主流だった。

しかし途中からは、便乗しての面白半分、政府への対抗、我慢の限界からのうっぷん。

そのような者たちが加わっていき、問題はエスカレートしていった。

政府はすぐに緊急会合を開催した。

そして、これまでよりさらに強い制裁レベルを引き上げると発表した。

世論は大荒れとなった。

「監視社会反対!」

プラカードを掲げたデモが全国各地で起き、街は今まで経験したことのない混乱の中に飲み込まれていった。


一方その頃、優弥と玲は頻繁に会うようになっていた。

玲が勤めていた会社は、規模縮小により半分以上の社員が解雇されることとなった。

玲は解雇の対象とはならなかった。

が、しかし、自分が編集長として先頭に立ってきた「谷から」が閉鎖されたこと、そして関わる多くの人々のスコアを下げてしまったことへの責任を取り、自主退社を申し出た。

二月からは、無職となった。

かろうじてしばらくの間は生活できる貯金があった。

とりあえずは、毎月のベーシックインカムが入ってくるうちに、その先を考えようと思っていた。

しかし——。

社会的な混乱を受けた政府の対応は、反社会的人物とみなされる者たちの徹底排除へと、明らかに加速し始めていた。

そしてそれは、現実に玲の受給金額にも影響した。

三月受給額:十五万円
スコアの改善があれば翌月より二十万円へ回復。
万が一さらに下がった場合、四月は十万円となります。
スコアが百を切った場合、受給停止となります。

その通告が、玲のスマホに届いた。

同じメッセージが、スコアの低い者たちには全員に届いていた。


優弥は自分の441という数字が少しずつ、確実に下がっていることを実感していた。

ある時から、はっきりと分かったことがあった。

玲と会うと、翌日には必ずスコアが5つ下がっていた。

会えば翌日に必ず5減る。

また会えば翌日に5減る。

それがいつからか、疑いようのない事実として優弥の前に立っていた。


優弥のスコアが低いことを、真奈はいつも気にしていた。

ある日、真奈は率先して行動し始めた。

「ねぇ、優弥、一緒に行くわよ!」

ある朝、真奈がそう言って優弥を連れ出したのは、近所の高齢者施設だった。

ASI頭脳を備えたロボットが日常に溶け込んだこの時代、多くの施設では人手が極端に減っていた。

しかし入居している高齢者たちが求めるのは、効率ではなく、人の温もりだった。

話し相手になること。

食事をする際に手伝ってあげること。

庭を散歩しながら、ただ隣を歩くこと。

それだけでいい。

施設のスタッフがそう言った。

優弥と真奈は週に二回、施設を訪れた。

入居者の田中さんは、元教師だった。

毎回、優弥が来るたびに同じ話を嬉しそうにした。

それでも優弥は毎回、初めて聞くように耳を傾けた。

「あなたが来ると、なんだか生きている意味をちゃんと感じられるのよ」

田中さんがそう言った日、帰り道に真奈がこう言った。

「これこそが、ASIロボットたちにはできないことだよね」

優弥は黙って頷いた。

しかし——。

スコアは、一向に上がらなかった。

上がるどころか、以前の数値を下回り、400を切る程になっていた。

真奈は、その数字を見るたびに眉をひそめた。

「どうして……。こんなに活動しているのに」

その不審が、真奈の中でゆっくりと育ち始めていた。


それから二日後のことだった。

玲のスマホに夜、見知らぬ番号から着信が入った。

「もしもし」

「羽多野玲さんですね」

低く、よく通る声だった。

どこかで聞いたことがある声だった。

「……どちら様ですか?」

「立花です。以前、お邪魔しましたね」

玲は、その名前を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。

「谷から」のオフィスに突然現れた、あの三人の男の一人だった。

「どうして私の番号を——」

「全てを管理している側ですから」

男は、それだけ言った。

用件を告げた。

指定した日時に、指定した場所に一人で来るようにと。

「お断りします」

玲が言うと、男は静かに続けた。

「渋谷優弥さんの現状は、ご存知ですよね」

玲は、息をのんだ。

「奥さんの真奈さんと一緒にボランティア活動をしながらスコアを上げようとしているにも関わらず、あなたと会うたびに彼のスコアは確実に下がり続けている。あなたはそのことをどうお考えですか?」

「……」

「このまま続けば、彼のスコアは三百台を切る。あなたと同じ二百台になれば、いつ受給の制限がかかりだしてもおかしくない。特に今は、政府が強引に制裁を推し進めている時期です。あなたにはその責任があるのでは?」

玲は、黙っていた。

「取引をしませんか」

「……取引?」

「私の言うことを聞いてもらえれば、渋谷優弥のスコアを平均以上に引き上げることを約束しましょう」

「そんなこと——できるわけがないでしょう」

「できないと思いますか?」

その瞬間、玲のスマホの画面が変わった。

スコアが表示されていた。

298——。

それが、見る見るうちに変わっていった。

310。
325。
340。
350。

玲は、画面を見たまま固まった。

「分かっていただけましたか」

男はそう言い、次の連絡を待つようにと告げて電話を切った。


三日後、再び立花から連絡が来た。

今から一週間後の三月五日、都内の港に隣接した、クロノス•マリーナ東京に19時に来るように。

「そ、それは無理です。そんなことまでは——」

「では、渋谷優弥のスコアを受給停止まで下げましょうか」

玲は、目を閉じた。

断れなかった。


それから、一週間後のこと。

指定された日時、迎えの自動運転車が玲のマンションの前に止まった。

玲はその車に乗り込んだ。

窓の外を、夜の街が流れていった。


マリーナには、豪華な大型クルーザーが停泊していた。

立花は船の前で待っていた。

「ようこそ。さぁ、乗ってください」

玲は緊張と恐怖の中、乗り込んだ。

船が動き出した。

東京の夜景が、少しずつ遠ざかっていった。


出航してから数十分後のこと。

船は速力を落としたあと沖合で停止した。

立花は玲を船内の一室に招き入れ、豪華な料理とシャンパンが並べられた席へと案内した。

「今日は、新しい始まりのお祝いです」

男は不敵な笑みを浮かべ、シャンパングラスを傾けた。

「今日から——あなたは私のものです」

その瞬間、玲の顔が青ざめた。

「な、なんのことですか……」

「最初に会った時から決めていたのです。この女を必ずものにすると」

男は続けた。

「渋谷優弥のことは忘れてください。私の言うことを聞いていれば彼のことも、あなたのスコアのことも、全てうまくいかせてあげます。しかし——。私の女になることが、その条件ですがね」

玲は、言葉が出なかった。

「断れば、渋谷優弥の身の安全は保証しません。さらには、あなたの鹿児島の家族たちにも、困ることが起こるかもしれませんね」


玲はその場で思い悩んだ。

優弥を救いたい。

元々は自分のせいで、あんなにスコアが低くなってしまったのだから。

しかし——。

その代わりの条件が、もう優弥とは会うな。

連絡も取るな、とは。


立花はシャンパングラスを、ゆっくりと口元へ運んだ。

グラスの向こうから、玲を見ていた。

値踏みするような視線だった。

焦りは一切なかった。

彼は、ゆっくりと楽しんでいた。

獲物がどこへも逃げられないことを、最初から知っている者の目で。

「美しい」

男は静かに、しかし確信を持ってそう言った。

グラスをテーブルに置くと、背もたれに深く身を預け、組んだ足の先を軽く揺らした。

急ぐ必要はない。

ここは海の上。

時間は、いくらでもある。

その余裕が、言葉よりも雄弁に玲への支配を物語っていた。


「食べないんですか?」

立花は、玲のほうへ視線を向けながらそう言った。

責めているわけではなかった。

ただ、確認しているような口調だった。

玲は何も答えなかった。

「せっかく用意したのに」

男はそう言いながら、自分のグラスをゆっくりと傾けた。

「食欲がないのは分かります。でも——」

立花は少し間を置いた。

「食べられないということは、まだ覚悟ができていないということかな」

その言葉が、静かに玲の胸に刺さった。

「覚悟ができた人間は、何でも口に入れられるものですよ。どんな状況でも、ね」

立花はそう言いながら、ナイフとフォークを手に取り、目の前の料理を切り始めた。

「私はね、玲さん」

男は料理を口へ運びながら、玲を見た。

「あなたが怖がっているのも、震えているのも、全部分かっています。でも——」

立花は口元に笑みを浮かべた。

「それが、また、いい」

玲はうつむいた。

「さあ、食べなさい。長い夜になりますから」

その一言が、これから何が起ころうとしているのかを、全て物語っていた。


食事の時間も、終わりに近づいた頃のことだった。

立花はグラスに残ったシャンパンを飲み干すと、ゆっくりとナプキンで口元を拭い、立ち上がった。

そして、玲を見下ろしながらこう言った。

「楽しい時間でしたね」

玲は黙っていた。

「さぁ——続きといきましょうか」

男はそう言いながら、扉の方へと歩き出した。

そして振り返らないまま、こう続けた。

「来なさい」

それは命令だった。

お願いでも、誘いでもなかった。

玲の足は、動かなかった。

立花はそこで初めて振り返り、玲を見た。

その目には、先ほどまでの余裕の笑みはなかった。

「逃げ場はないと、もう分かっているはずでしょう?」

静かな、しかし底冷えのする声だった。

「来なさい」

もう一度、同じ言葉を繰り返した。


連れてこられた先の部屋には、大きなキングサイズのベッドがあった。

天井まで届く窓の外には、夜の海が広がっていた。

逃げ場など、どこにもなかった。

そこに座りなさい。

立花はそう言うと、ゆっくりとソファーに腰を下ろして足を組み、玲を見た。

その手には、いつの間にかナイフが握られていた。

男は特に意識しているわけでもなさそうに、ナイフの刃を指先でなぞりながら、静かに口を開いた。

「私はね、面倒なのが嫌いなんですよ」

刃が、ランプの光を反射してきらりと光った。

「だから——簡単に聞きます」

立花は玲を見た。

「自分で全部脱ぐか」

一拍置いた。

「それとも——私がその服を一枚一枚、切り裂いていく方がいいですか?」

言葉は静かだった。

怒鳴るでもなく、急がすでもなく。

ただ、当然のことを確認しているだけのような口調だった。

それが——怒声よりもずっと怖かった。

玲の足が、ガクガクと震え始めた。

全身の力が、抜けていくようだった。

立花はそんな玲を見ながら、ゆっくりとナイフを膝の上に置いた。

「そんなに怖い顔をしなくていいじゃないですか?」

男は静かに言った。

「どうせ——どちらかを選ぶしかないんだから」


玲の思考が、止まった。

もう、何も考えられなかった。

恐怖が、全身を支配していた。

涙が溢れた。

止まらなかった。

嗚咽が、喉の奥から絞り出されるように出てきた。

足の力が完全に抜けた。

ゆっくりと、その場にひざまずいた。

もう立ち上がる力は残っていなかった。

泣きじゃくりながら、ただそこにいるしかなかった。


立花は、それを見て立ち上がった。

急ぐ様子はなかった。

ゆっくりと、一歩、また一歩と玲へ近づいてきた。

そして、ひざまずいた玲の前に立つと、しゃがみ込み、顔を覗き込んだ。

冷たい目だった。

男はナイフを手に取ると、その刃を玲の頬にそっと当てた。

冷たかった。

金属の冷たさが、頬に張りついた。

「面倒なのが嫌いだと——言いましたよね?」

低い声だった。

「泣いても、震えても、何も変わらない」

ナイフが、わずかに動いた。

「さぁ——どっちだ」

玲は、涙でぼやけた視界の中で、男の目を見た。

「覚悟を決めろ!」

その言葉が部屋の中に響いた。

玲の全身が、震えた。

頭の中が真っ白になった。

走馬灯のように、これまでのことが頭の中をめぐっていった。

必死に就活をして、やっとの思いで入った会社で、「谷から」の編集長を任されたこと。

登録者数が五百万人を超えた日の、鈴木さんの泣いていた顔。

七年前の雨の夜、傘を差し出してくれた男の顔。

渋谷優弥——。

いつからか好きになっていた。

でも、彼には家族がいる。

だから、ずっと我慢してきた。

それでも、隣にいるだけで、自分がちゃんと存在している気がした。

少し前、河川敷で自分を抱きしめながらこう言ってくれた。

「君は何も悪くない」

あの声が聞こえた。

優弥さん——。

優弥ーーー。


「早くしろ、って言ってんだろーがー!!」

男が怒鳴り、玲の髪を掴み、無理矢理ベッドへと押し倒そうとした。

「やめてーーーーー!!!!」

玲の絶叫が、船室に響き渡った。

その声が消えないうちに——。

部屋の空気が、変わった。

ふわり、と。

その時だった。

玲の顔の前方上空に、青い光が現れた。

あの時の、あの光。

夢の中で何度も見た、青い光だった。

それは瞬く間に広がり、部屋の壁の一部に一気に膨らんでいった。

青い輪が、開いた。

まるで鏡のような、楕円形の光の輪が。

立花が後ずさった。

「な、な、何だ、これは——!?」

男の声が、初めて震えた。

その瞬間、

その輪の中から——

人影が飛び出してきた。

それは、女性だった。

着地の音すら、しなかった。

次の瞬間、立花が見えない力によって部屋の壁へと吹き飛んでいった。

衝撃が、部屋全体を揺らすほどだった。

壁に叩きつけられた男は、そのまま床へと崩れ落ちた。

立ち上がろうとした。

しかし、体が動かなかった。

全身の骨が軋んでいた。

指先一本、動かすことができなかった。

「て、てめー……な、なにもの…」

声も、もう出なかった。

かすれた息だけが漏れた。


女性は立花を一瞥した。

それだけだった。

追撃もなかった。

一瞬で全てが終わっていた。

立花の意識が、遠くなっていった。

目の前が暗くなる。

音が消えていく。

最後に見えたのは、青い光の輪と、その中から現れた女性の、冷たく静かな瞳だった。

そして——完全に、意識が途絶えた。


部屋に静寂が戻った。

その時だった。

先程の女性とは別でもう1人の女性が出てきた。

出てきた女性は、玲のそばへと歩み寄った。


彼女は、玲を優しく抱き起こした。

温かかった。

玲は、その温もりの中でまた涙が溢れた。

女性は、静かにこう言った。

「私たちは、あなたのことをずっと見ていたの」

玲は顔を上げた。

「私たちには——あなたが必要なの」

女性は続けた。

「これは、ドクター・ソロンからの伝言」

一呼吸置いた。

「彼女を——必ず守ってやってくれ、と」


ドクター・ソロン——。

どこかで聞いたことのある名前だと思った。

玲は、それが誰かを思い出した瞬間、息をのんだ。

ASIの創造主。

人類の未来を生み出した男。

その名前が、なぜ——。

女性は玲を優しく抱きしめた。

玲は、目を閉じた。

再び頬を、涙が伝った。

でも今度は、それは悲しい涙ではなかった。


第2章6話 完。

本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・企業・製品名等は架空のものであり、実在する人物・団体・企業・製品とは一切関係ありません。
また、作中に登場するAI・ロボット技術および社会情勢の描写は、著者の想像に基づくものであり、実際の技術動向や将来予測を示すものではありません。

いいなと思ったら応援しよう!

虹色の地球 いただいたチップは、物語の続きへの活力になります。 縦の糸と、横の糸が織りなす世界。 どうぞこの先を、私たちと一緒に紡いでいってください🌈🌏🥰