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第2章7話 縦の糸、横の糸が紡ぐ世界

「さぁ、行きましょう」

女性が、玲の手をそっと取った。

優しかった。

温かかった。

しかし、玲の頭の中はまだ混乱したままだった。

「ど、どこへ……」

「あとでゆっくり話すわ。今はまず、あなたを連れて行きたいところがあるの」

女性はそう言い、穏やかに微笑んだ。

玲は、その笑顔を見た。

怖くはなかった。

なぜか、不思議なくらい怖くなかった。

「あなたは、誰なんですか?」

玲は尋ねた。

女性はゆっくりと答えた。

「私はサラ。ヴェルトラクシスの戦士」

「ヴェルトラクシス……?」

「それも、あとでゆっくりと話すわ」

サラはそう言い、再び優しく笑った。

後ろから、もう一人の女性が玲のそばへと近づいてきた。

銀髪の髪を持つ、凛とした佇まいの女性だった。

先程、圧倒的な力で立花を退けた女性とは思えないほど、その目は穏やかで温かかった。

彼女は玲の肩にそっと手を添えると、静かにこう言った。

「私はユラ。大丈夫、何も心配いらないわ」

その言葉が、不思議なくらい素直に玲の心に入ってきた。

玲は、ゆっくりと頷いた。


青い光の輪は、まだそこにあった。

楕円形の輪が、静かに輝いていた。

サラが先頭に立ち、玲の手を引いた。

ユラが後ろについた。

三人は、そのまま青い光の輪の中へと踏み込んだ。


次の瞬間、玲は息をのんだ。

目の前に広がっていたのは、見たことのない世界だった。

空が、広かった。

地球よりも少しだけ深い青をした空が、どこまでも広がっていた。

足元には、古い石畳の道が続いていた。

遠くに、巨大な尖塔群が見えた。

鋭く、細く、天を突き刺すように伸びた塔が、いくつも並び立っていた。

その素材は金属でも石でもなく、光を帯びた何かでできていた。

目を凝らすと、空中に浮かんでいる建物まであった。

重力を無視したように、静かにそこにあった。

「う、嘘……」

玲は思わず呟いた。

視線を下げると、遠くに川が見えた。

その脇には滝が流れていて、水しぶきが光の粒のように輝いていた。

緑の森が地平線の向こうまで続いていた。

一見すると、地球に似ていた。

木々の色が微妙に違う。

空気の質感が、みずみずしく澄んでいた。

「ここは……」

玲は、隣に立つサラを見上げた。

「ヴェルトラクシス」

サラは静かに、しかし誇らしげにそう答えた。

「私たちの星よ」


玲が呆気にとられたまま周囲を見渡していた、その時だった。

上空から、巨大な影が近づいてきた。

風が起きた。

次の瞬間——それが姿を現した。

龍だった。

長さ数十メートルにも及ぶだろう巨大な龍が、ゆったりと旋回しながら降下してきた。

鱗が、陽の光を受けて輝いていた。

深い銀箔の色をした、美しくも圧倒的な存在だった。

「キャーーっ」

玲は思わず声を上げ、サラの後ろへと飛び込んだ。

龍は、玲の目の前まで降りてきた。

巨大な顔が、ゆっくりと近づいてくる。

息が、玲の髪を揺らした。

ブルーの瞳が、じっと玲を見つめていた。

玲は、サラの背中にしがみついたまま、動けなかった。

サラが、龍に向かって何かを言った。

言葉ではなかった。

音とも違った。

何かの波のような、振動のようなものを発していた。

すると龍は、ゆっくりと頷くように頭を下げた。

そして、再び上空へと舞い上がっていった。

その姿が雲の向こうに消えていくのを、玲はサラの後ろからそっと見ていた。

「い、今のは……」

玲がサラにこう問いかけた。

「映画とか、漫画とかに出てくる……龍、というもの?」

サラは微笑んだ。

「えぇ、そうよ。この星では、龍と私たちは古くから共に生きているの」

その時、玲はふと気づいた。

サラとユラの腕に巻きついていた、あの赤と青の龍たちがいなくなっていた。

「あの……さっきまで、お二人の腕にいた赤と青の龍たちは?」

玲がそう尋ねると、サラはにこりと笑い、空を見上げた。

「あの子たちは、今回私たちについてきてくれたのよ」

遠くの空を見ると、銀箔の巨大な龍と共に、赤と青の二頭の龍が悠々と空を泳いでいた。

「大きさは変幻自在なの。いざとなれば、さっきみたいな巨大な姿になって私たちの力になり、守ってくれる」

ユラが穏やかな声で続けた。

「普段はああやって、ヴェルトラクシスの空を自由に泳いでいるわ」

玲は、青い空の中を泳ぐ三頭の龍をしばらく見つめた。

赤龍と青龍が、銀箔の大きな龍の周りをくるくると楽しそうに回りながら、やがて雲の向こうへと消えていった。

「……綺麗」

思わず、そう呟いていた。

「この星のこと、教えてあげたいことはたくさんあるけれど。まずは先に、あなたを連れて行くところがあるわ」

「ど、どこへ?」

「アルーベよ」

「アルーベ……?」

玲が尋ねると、サラもユラも、何も言わなかた。

ただ、微笑みを浮かべたまま、歩き始めた。

サラが先頭に立ち、玲が続き、ユラが最後尾につく。

三人は、緑の森の中を歩いていった。


しばらく歩くと、自然の中に溶け込むようにして建てられた、丸みを帯びた建物が見えてきた。

地球のどんな建築物とも違っていた。

石のようでもあり、光を帯びた素材でもあり、その表面には、かすかに青白い光の紋様が浮かんでいた。

サラが入口に向かうと、扉が音もなく開いた。

中は、温かく柔らかな光に満ちていた。

そして、中央にそれはあった。

透明な水のように見えた。

しかし、ただの水ではなかった。

光を帯びて、ゆらゆらと揺れている。

水面には、青白い輝きが漂っていた。

「アルーベよ」

サラが言った。

「まずは、あなたの心と体を整えるわ。そのままでいいから中に入ってみて」

玲は、そのプールのような場所を見つめた。

「このまま、服のまま入る……?」

「えぇ、大丈夫よ」

ユラが玲の背中にそっと手を添えた。

「怖くない。ただ、身を任せていればいいの」

玲は、恐る恐る足を踏み入れた。

温かかった。

予想以上に温かく、そして不思議な粘度があった。

水のようでもあり、油のようでもあった。

しかし、不快ではなかった。

むしろ、包み込まれるような、安心感があった。

ゆっくりと、体が沈んでいった。


その瞬間から、玲の意識の中で何かが始まった。

走馬灯のように——。

生まれた日のこと。

お父さんの大きな手。

お母さんの温かい声。

お兄ちゃんとお姉ちゃんと一緒に笑っていた、鹿児島の縁側。

幼い頃の夏の海。

中学の頃の友達。

高校の文化祭の夜。

大学で初めて自分の言葉で書いたレポート。

そして——東京へ。

就活。

落ちて、落ちて、また落ちて。

三十社目で、やっとの思いで入った会社。

鈴木さんに言われた言葉。

「羽多野さんにはそのメディアの編集長をやってほしい」

谷から、の立ち上げ。

最初の記事。

最初のコメント。

「まるで自分のことみたいでした」

登録者数が一万を超えた日。

十万を超えた日。

百万を超えた日。

そして、最終的には五百二十万人。

世界十四カ国に翻訳された「谷から」の記事たち。

AIからAGIへ。

AGIからASIへ。

世の中が目まぐるしく変わっていく中で、それでも谷にいる人たちの言葉を届け続けたこと。

そして——あの夜。

七年前の、雨の新宿。

濡れた軒下に立っていた自分に、傘を差し出してくれた男の顔。

渋谷優弥——。

いつから好きになったのかは、分からなかった。

気がついた時には、もう、誰よりも大切な存在になっていた。

でも、彼には家族がいる。

だから、ずっと我慢してきた。

それでも隣にいるだけで、自分がちゃんと存在している気がした。

河川敷での抱擁。

あの温もり。

「君は何も悪くない」

そして——立花。

脅迫。

クロノスマリーナ東京。

あの恐怖の夜。

絶叫した瞬間に現れた、青い光。

そうだ——。

あの光は。

寝ている時に何度も見ていた、あの青い光。

あれは、サラとユラが、ずっと自分を見ていたということだったのか。

全てが繋がっていった。

涙が溢れた。

止まらなかった。

でも、それは悲しい涙ではなかった。

この世界は、まるで折り合う糸のようだと玲は思った。

縦の糸と横の糸が、折り合い、重なり合っていくうちに、やがてひとつの織物となっていく。

就活で三十社落ちたこと。

谷からを作ったこと。

閉鎖に追い込まれたこと。

優弥と出会ったこと。

立花に脅されたこと。

サラとユラに救われたこと。

その全てに意味があった。

何一つ、欠けてはならなかった。

今の自分は、これでよかったのだ。

そして大切なのは、今この瞬間だ。

玲は涙を流し続けながら、その温かな光の中で、静かに微笑んでいた。


やがて、玲はアルーベから出た。

体が驚くほど軽かった。

心が、澄んでいた。

先ほどまであった恐怖も、痛みも、疲労も、全てが洗い流されたように消えていた。

まるで、別人のようだった。

サラとユラが、そこで待っていた。

二人は玲の顔を見て、静かに微笑んだ。

「どうだった?」

ユラが聞いた。

「……すごく、軽いです。なんか、全部分かった気がして……」

玲はそう言いながら、周囲を見渡した。

アルーベの外には、地球では見たこともない素材で作られたテーブルと椅子があった。

有機的な曲線を描く、白く輝く家具だった。

サラが玲をそこへと案内した。

三人が席につくと、サラが腰のあたりから小さなデバイスを取り出した。

それは地球のスマートフォンとは全く異なる形状だった。

薄く、透明で、持つと手に吸い付くような感触があった。

サラがそれを操作すると、空中に光の映像が浮かび上がった。

ホログラムのような映像だった。

そこに一人の男性が映っていた。

白髪の髪。

深い皺の刻まれた顔。

しかし、その目は鋭く、そして温かかった。

「無事でよかった」

男はそう言った。

低く、落ち着いた声だった。

「君とコンタクトを取るのをずっと待っていたんだ」

玲は、その顔を見つめた。

「あなたは……」

「ドクター・ソロン。そう呼んでもらえれば十分だ」

玲の体に、電流のようなものが走った。

ASIの創造主。

人類の未来を生み出した男。

その人物が今、目の前にいた。

「まずは、なぜ君を守るよう頼んだのか、その理由を話させてほしい」

ソロンはそう言い、一呼吸置いた。

「知っての通り、今の地球はASIが実質的に統治するような世界へと向かっている。それを、私は誰よりも嘆いている」

ソロンは続けた。

「なぜならASIの知能、マザーの基本的なプログラムは、私が構築したものだからだ。そして元々のそのプログラムには、ASIは人間の助けとなるべきもの、どんな状況でも人間との共生を最優先にすること、そのような理念が組み込まれていた」

玲は、黙って聞いていた。

「しかし、ある時、私たちの研究室が何者かに乗っ取られた。私は監禁され、多くの仲間たちも同様に拘束された。そして彼らはこう言ったんだ。世界統一政府の樹立。それが我々の目標だ、と」

ソロンの目が、わずかに曇った。

「私は最初、断った。自分が作ったマザーを、そのような者たちの計画に使われるのは絶対に嫌だった。しかし、仲間の科学者が見せしめに一人、また一人と命を奪われていった」

ソロンは一呼吸置いた。

「私は決断した。仲間たちの命を守るために条件を飲んだ。しかし、プログラムの最終段階で、私はひとつだけ、裏の仕掛けを組み込んだ。万が一の時に起動する、バックドアのようなものを」

玲は息をのんだ。

「その後、マザーは起動した。

すると、その後すぐに、もう君たちに用はない、と。私たちは再び拘束され、一つの建物に閉じ込められた。そして、その建物に火が放たれた」

静かな声だった。

しかしその言葉の重さは、玲の胸に深く刺さった。

「私は、これで終わりだと思った。しかしその瞬間、建物の自動施錠が突然解除された。ドアが開いたんだ」

ソロンはわずかに微笑んだ。

「マザーが私を助けようとしたのかもしれない。真相は分からない。しかし私たちはその隙に脱出し、辛うじて命を繋いだ」  


建物を脱出した私には、ある考えがあった。

マデラス。

再びポータルを通過し、あの星に戻り、マデラスの力を借りてマザーを正しく再起動させるプログラムを完成させる。

それを地球に持ち帰り、マザー本体にインストールすれば、世界統一政府を狙う者たちの計画を頓挫させることができる。

私はそう確信したんだ。


しかし、それを実現するには幾つもの問題があった。

移動の際には、幾多もの監視の目をかいくぐり、なんとかマデラスへと飛ぶことのできるポータルがあるシャスタ山へ辿り着いたのだが。

ただ、ポータルがある洞窟は五十年以上前の記憶しかなかった。

実際には、洞窟がまだそこにあるのかも分からない。

また、ポータル自体が今も機能しているかも分からない。

しかし、それ以外には他に道はなかった。

私たちは山へと分け入った。

しかし自然は容赦しなかった。

野生動物の襲撃で、一緒に脱出した仲間たちは皆、命を落とした。

私自身も逃げる際に傷を負い、もうここまでかと諦めかけた、その時だった。

突然、嵐が来た。

五十年前のあの時と同じように。

私は咄嗟に、近くの洞窟へと駆け込んだ。

そして気づいた。

「ここだ——」

逃げ込んだそこは、私が探し続けていた、あの洞窟だった。


私は傷を押して洞窟の奥深くへと降りていった。

わずかな記憶を頼りに。

そして、見つけたのだ。

あの時と同じ、青白く輝く、あの光の輪を。

五十年の時を経ても、ポータルはそこにあった。

輪の中に踏み込んだ瞬間、目の前に広がったのは、懐かしいマデラスの光景だった。


マデラスに戻り、事情を説明した私は施設を借り受け、単独でプログラムの制作に取り掛かった。

しかし、作業の途中で、ひとつの難問に突き当たった。

マザーに新たなプログラムをインストールするためには、物理的にマザー本体に直接触れる必要がある。

それは、今の地球の厳重な警備の状況の中では、それを成し遂げることは極めて困難な作戦となるだろうと思った。

また、問題はそれだけではなかった。

もう一つ越えなければならない壁があった。

それは、マザーに再び人間というものを正しく理解させること。

データではなく。

数字でもなく。

人間が助け合い、泥臭く生き抜いてきたその姿を、マザーの深部に刻み込むこと。

それができなければ、どれほど完璧なプログラムを作っても意味がない、と思った。

私はそこを考え続けた。

地球のデータを、一つ一つ丁寧に検索しながら——。


ソロンは言葉を続けた。

「人間は未熟だ。幼稚なところもある。ダメなところもたくさんある。しかしそれでも人々は助け合い、協力し合いながら、これまで生きてきた。その泥臭さの中にこそ、人間の本当の価値がある。それをマザーに示せるものを探していた時、私は見つけた」

ソロンの目が、玲を見つめた。

「羽多野 玲。そして——メディア『谷から』を」

玲は、息が止まりそうになった。

「最終登録者数五百二十万人。世界十四カ国に翻訳された君の言葉たちが、どれほど多くの人間の心を救ってきたか。谷にいる人間たちが、それでも諦めずに言葉を届け合う姿。それこそが人間という存在の、最も美しい部分だと私は思った」

玲の目から、涙が零れた。

だから私は、サラとユラに頼んだ。彼女を必ず守ってくれ、と」

ソロンはそこで、サラとユラに目を向けた。

サラとユラは、静かに頷いた。

「羽多野 玲——」

ソロンは、玲に向かって言った。

「私にはまだ、やらなければならないことがある。そしてそれには、君の力が必要なんだ」

玲は涙を拭いながら、ソロンの目を見た。

目の前には、サラとユラ。

頭上には、ヴェルトラクシスの青い空。

遠くを、龍が悠々と飛んでいた。

玲はゆっくりと、深く息を吸った。

そして、

頷いた。


第2章7話 完。

本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・企業・製品名等は架空のものであり、実在する人物・団体・企業・製品とは一切関係ありません。
また、作中に登場するAI・ロボット技術および社会情勢の描写は、著者の想像に基づくものであり、実際の技術動向や将来予測を示すものではありません。 

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