第2章5話 管理された夜の隙間で



優弥と過ごした束の間の楽しかった時間から、二ヶ月後のこと。
「谷から」の問い合わせフォームに、一通のメッセージが届いた。
差出人は——
内閣統合情報管理庁・監理課
見慣れないが、明らかに”公式”の匂いがした。
内容は短かった。
『貴メディア「谷から」の運営について、確認したい事項があります。現状、一部の利用形態が社会秩序の維持に対し影響を与える可能性が確認されています。早急に協議の場を設けたく——』
玲は、一瞬、画面を見たまま動けなかった。

心臓が、ゆっくりと嫌な音を立て始める。
メールを読み返した。
何度も読み返した。
“社会秩序の維持に対し影響を与える可能性”——。
その一文の意味が、頭の中でゆっくりと展開されていく。
私たちは何もしていない。
ただ、谷にいる人たちが言葉を届け合っていただけだ。
それのどこが——。
でも、違和感がそこにはあった。
メールには、具体的な内容が一切書かれていなかった。
何が問題で、何を確認したいのか。
それが何一つ書かれていない。
つまり、これは説明ではなく通告だった。
玲はすぐに上司の鈴木に相談した。
「これは……警告だね」
社内全体の緊急会議が開かれた。

誰かが言った。
「でも、一体何が問題なんですか?ただの相談コミュニティじゃないですか?」
「それが”問題”なんだよ」
鈴木が静かに言った。
その言葉に皆が黙り込んだ。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。
玲はその沈黙の中で、ある言葉を思い出していた。
優弥が以前、こんなことを言っていた。

「AIが管理する社会では、人と人が繋がることそのものが、やがて”リスク”とみなされる日が来るかもしれない」
あの時は、少し大げさだと思っていた。
でも、今、この画面を見ながら、その言葉が現実として目の前に立っていた。
一週間後のこと。
突然、アポイントもなしに三人の男がオフィスに現れた。
全員、無駄のないスーツ姿。
表情は穏やかだったが、どこか”温度”がなかった。

「先日の件で参りました」
中央に立つ男がそう言った。
低く、よく通る声だった。
その瞬間——
玲は、ほんのわずかに何かの違和感を覚えた。

男の視線が、一瞬だけ自分に止まったような気がしたからだった。
まるで最初から、自分のことを知っていたかのように。
だが、それはすぐに消えた。
「貴メディアは、結果的に”特定の人間同士の結びつき”を強めています。それが社会の安定を損なう可能性があります」
「それは違います!」
玲が思わず声を上げた。

「あなたたちは分かっていません。『谷から』は、今多くの人々の救いの場なんです。あそこがなかったら——」
「違うのはあなたです。今言われたことは、あなたの解釈でしかありません」
男は一歩も引かなかった。
静かに、しかし確実に。
その静けさが、怒鳴り声よりもずっと怖かった。
感情がない。
反論が通じない。
ただ、決まったことを告げに来ただけ、という空気がそこにはあった。
三十分にも及ぶ話し合いは、結局、解決することなく平行線のまま終わった。
男たちは、何も変わらない顔で帰っていった。

玲はその背中を見送りながら、気づいた。
今日この場で何かが決まったわけではない。
でも、何かが、確実に始まってしまった。
鈴木が静かにこう言った。
「気をつけよう。これからは、何を発信するかだけじゃなく、誰と繋がるかも見られるようになる」
その言葉の意味を、その時の玲はまだ完全には理解できていなかった。
それからニヶ月が過ぎた、二千三十ニ年、十一月の初め頃。
最初に異変に気づいたのは、桐島だった。
桐島は、敏感なタイプだった。
元医療従事者であり、神の手とも呼ばれていた経歴が些細なデータの変化を見つけ、おかしなところを見逃さない目を育てていた。
ある時のことだった。
端末上の個人ポータルに、小さな仕様変更の通知が追加された。
【二千三十三年、一月三日より、市民信用スコア指標を開示予定————」
「……来た」
桐島は、画面を見た瞬間、思わずそう呟いた。

説明文は簡素だった。
公共交通、行政手続き、生活インフラの優先最適化のために、個々の利用実績や社会貢献度、安全性指標を統合した信用スコアを全面可視化する。基本的には利便性向上を目的とし、不利益を与えるものではない——
いつもの言い方だった。
柔らかく、合理的で、聞こえのいい言葉だけを並べてあった。
しかし、桐島には分かった。
これは、ただの利便性向上などではない。
その夜のこと。
優弥、玲、桐島の三人はオンラインで繋がった。
画面越しの桐島は、いつもより険しい顔をしていた。

「信用スコア自体は、前から内部的にはあったものだと思う」
「私もそう思います」
桐島がそのように言うと、玲もそう答えた。
「配送優先、医療対応、災害時誘導、そういうのを最適化するなら個別の行動データを統合していない方がおかしいと思う。しかし、この先はそれらが個人にも明確に見えるようになる」
「ですよね。見えるようにしたのが重要な部分だと思います」
桐島と玲のやり取りに、優弥がこう口を挟んだ。

「桐島さん、これって何が一番まずいと思いますか?」
「自分の行動が点数になる。それが、人に自発的な服従をさせる効果があるところだと私は思う」
優弥の中に、冷たいものが走った。
「これからは命令しなくても、人は自分で自分を矯正し始めることになっていく」
玲はその言葉を聞き、画面の向こうで息をのんだ。

「しかも、点数が下がる理由が全部明示されるとは限らない」
桐島は続けた。
「暴力行為とかなら分かりやすい。しかし、そのうちに『過激な投稿傾向』『危険行動との接触履歴』『社会不安を高める発信』みたいな曖昧な項目が混ざってくるのは見え見えだ」
「それって、思想まで見られるってことですか?」
「そう。ただ、それは最初から露骨にはやらないと思う。しかし、構造上はいつでもできる」
玲がこう言った。
「それって、もう監視社会じゃないですか!?」
「そう。しかも一番厄介なのは、便利さの形で入ってくることだと思う」
二〇三三年、一月。
年明けの三日、新年早々、あらためて政府から正式な発表があった。
「市民信用指標の全面開示について」
それまで一部の端末にのみ表示されていたスコアがこの日、全国民に対して完全公開された。
通知は朝の六時ちょうどに届いた。
まるで、誰もが同じ瞬間に自分の「評価」を知るように設計されたかのように。
元旦三日目にも関わらず、駅前の大型ビジョンの前には大勢の人だかりができていた。

優弥がその通知に気づいたのは、朝食の席だった。
真奈がすでにスマホを開いていた。
愛も、自分の端末を見ていた。
「パパ、これ何?」
十六歳になった愛が、少し困惑した顔で画面を向けてきた。

「920。これかー。信用スコア。今日から開示と言ってたな」
優弥はそう答えながら、自分のスマホを開いた。

画面に表示された数字は——
441
バーはオレンジゾーンの真ん中あたり。
【注意】あなたの市民信用指標は平均値を下回っています。継続的な改善が推奨されます。
真奈がこちらを見ていた。
「優弥……これ、見た?」
真奈のスマホの画面には、

847
という数字があった。
優弥は、その数字と自分の数字を見比べた。
「…見た」
「優弥はいくつだったの?」
「441…、だった…」
その数字の低さに驚いた真奈はこう言った。
「どうして?どうしてそんなに低い数字なの?」
「わからないよ。どうしてこんなに低いのか俺自身が驚いてるよ」
真奈の声に、静かな緊張が混じった。
「同じ家に住んでいて、こんなに違う数字が出るの?」
「分からない」
「いや、分からないじゃなくて」
真奈が優弥を見た。
「普段、何してるの?」
朝食を終え、愛が部屋に引き上げてから、二人はダイニングで向き合った。

「優弥、ハッキリと説明して。私に何か隠してることがあるんじゃないの?」
真奈は決して責めているわけではなかった。
ただ、事実を確認しようとしていた。
それが真奈という人だった。
「いや、隠してるわけじゃない。ただ……」
優弥は少し考えてから、正直に言った。
「これは真奈も知ってると思うけど、俺はこれまでずっと『谷から』のコミュニティと関わってきた。そこではコミュニティで出会ったメンバーたちと話をしたり、ここ最近は個人的に食事に行ったり、遊んだりもしてた。いろいろと考えたけど、考えられることはそれくらしか思いつかないんだよ」
真奈はしばらく黙っていた。
そして少し間を置いてこう言った。
「私たちは今、ベーシックインカムで生活できているじゃない。優弥の分の二十万、私の二十万、愛の十万。合わせて五十万。この家のローンや他にも支払いはいろいろある。それで今の生活は回っている」
「それは分かってるよ」
真奈は続けた。

「誤解しないでほしいんだけど、私は決して優也が普段誰と付き合っているかとか、何をしてるかを責めている訳じゃない。ただ、もしもスコアがこれ以上下がって、ベーシックインカムに制限が出たり、公共交通機関の利用や決済に影響が出てきたら、今の生活は続けられなくなる。そこだけはわかってほしいの」
優弥は黙っていた。
真奈の言葉は止まらなかった。
「愛はもう十六歳。もう子どもじゃない。でも、まだ守らないといけない。私たちがあの子を守らないと」
真奈は優弥の目を見てこう続けた。
「ねぇ、お願い。スコアを回復させる方法も提示されてる。私も協力する。だからこれからは自分の行動に気をつけてほしいの」
優弥には真奈の真意はわかっていた。
その言葉は優しかった。
しかし優弥の胸には、何か重いものが残った。
「谷から」のオフィスでは、その週、緊急の全体会議が開かれた。
スコアの全面開示を受け、社員全員が自分の数字を確認した結果は、誰もが想像していた以上に低いものだった。

平均を大きく下回るスコアが、全員に表示されていた。
誰かが口にした。
「これは、偶然じゃない」
「谷からに関わっているから、こうなっている」
「もしこのまま続けたら——」
言葉は最後まで出なかった。
しかし、全員が同じことを考えていた。
鈴木が静かに言った。
「今すぐ結論は出さない。でも、このまま続けることが社員全員の生活に影響を与えるなら。それは、私たちが本当に向き合わなければならない問題だ」
会議はその日、結論を出さずに終わった。
しかし、その場にいた全員が感じていた。
答えは、もう決まりかけていると。
数日後のこと。
優弥のスマホに夜、梶原から着信が入った。
「優弥くん、サイト見たか?」
「サイト?」
「谷から、今月末で閉鎖するらしい。さっき桐島さんから連絡が来た」
優弥は一瞬、言葉が出なかった。
「……それは、本当ですか?」
「ああ。桐島さんが言うには俺たちのスコアが低いのは、谷からコミュニティに深く関わってきたからだって。そういう話らしい」
電話を切ったあと、優弥はすぐに谷からのページを開いた。
梶原の言う通りだった。

「谷から」は諸般の事情により、今月末をもって活動を終了します。これまで関わってくださった全ての方に、心より感謝申し上げます。
短い文章だった。
しかし、その短さの中に、どれほどの重さが詰まっているかが優弥には分かった。
すぐに玲に電話をかけた。
呼び出し音が五回目で繋がった。
「もしもし」
玲の声は、いつもより少し低かった。
「玲ちゃん、谷からの件——」
「……えぇ………」
「今、梶原さんから聞いた。どういうことか教えてもらえる?」
少しの沈黙があった。
「はい…。皆んなが言ってるように、関係する多くの人たちのスコアが低いのは、谷からの影響があるのは間違いないと思います」
玲の声は、わずかに震えていた。

「編集長である私のスコアは、危険水域ギリギリで……いつペナルティが来てもおかしくない状態です。社員のみんなも同じ状況で……先々週、会議があって」
声が途切れた。
「……最終的に、閉鎖という判断になりました」
「玲ちゃん……」
「ごめんなさい。優弥さんにも、桐島さんにも、梶原さんにも、久美さんにも、迷惑をかけてしまって……」
玲の声が、完全に崩れた。
泣いていた。

「特に優弥さんは、私と頻繁に会っていたから……きっと一番影響が出ているんじゃないかって、ずっと心配していて……本当に、ごめんなさい」
優弥は、電話を握る手に力が入るのを感じた。
「玲ちゃん、今どこにいる?」
「家に…」
「河川敷に来られる?」
短い沈黙の後、玲が答えた。
「……はい」
「ちょっと出かけてくる!」
優弥は真奈にそう言うと、上着を掴んで玄関を飛び出した。
夜の河川敷は、静かだった。
川沿いのベンチの近くに立ち、水面を見ていた。
優弥が先に着いて、二十分ほどしてから玲が来た。

目が赤かった。
「来てくれたんだね」
「わたし、ホントは優弥さんに合わせる顔がない…」
「どうして?何言ってるんだ!」
「だって……」
玲はそう言い、目元に手を当て泣き出した。
二人は並んで何も言わず、しばらく川を見た。
優弥が口を開いた。
「玲ちゃんは、これからどうするつもりなの?谷からが閉鎖になれば、会社もなくなる。そしたら——」
「退職することになると思います」
そう静かに答えた。
「スマホで見せてもらえる?玲ちゃんのスコア」
玲は少し躊躇してから、スマホを優弥に向けた。

画面には、
298
という数字があった。
赤とオレンジの境界線を、すでに割り込んでいた。
【警告】あなたの市民信用指標は危険水域にあります。早急な改善措置が必要です。
優弥は、その数字をしばらく見つめたあと考えた。

これだけ低い数字を抱えながら、玲はずっと優弥のことを、周りの人たちのことを心配していた。
そう考えると、今度は優弥までもが居た堪れない気持ちになり、腹の底から何かが込み上げてきた。
「もしもこの先、ベーシックインカムが止まったり、交通機関や決済に制限が出てきたら、玲ちゃんどうするの?」
玲は少し間を置いてから、こう言った。

「東京では、きっと暮らせなくなると思います。だから……鹿児島に帰ろうと思います。実家なら、両親も兄妹もいるから、食べていけると思うから」
優弥は、その言葉を聞いて胸の中に何かが崩れていくのを感じた。

「そんなこと——」
「優弥さん」
玲が優弥を見た。
その顔は穏やかだったが、目の中にある決意が見えた。

「私とは、もうこれ以上関わらない方がいいです」
「……何を言ってるんだ」
「私と近い関係にいるだけで、スコアは良くならない。優弥さんには守るものがあるでしょう?真奈さんと、愛ちゃんを守れるのは優弥さんしかいないから」
「じゃあ玲ちゃんはどうするんだ!?」

「私は大丈夫」
その言葉が、優弥には一番辛かった。
大丈夫じゃないのに、大丈夫と言える人の顔だった。
「あともう少しで、あの春の雨の日から七年ですね…」
玲の声が、少し柔らかくなった。
「これまでずっとずっと、見守ってくれて、支えてくれて——本当にありがとう」

目から、涙がぽろりと落ちた。
玲は深く頭を下げると、踵を返して歩き出した。
優弥は、その背中を見ていた。

一秒。
二秒。
三秒。
気づいた時には、体が動いていた。
玲の後を、小走りで追いかけた。
そして——後ろから、強く抱きしめた。
両腕で、しっかりと。

玲の体が、一瞬、固まった。
言葉はなかった。
ただ、抱きしめた。
玲は目を閉じた。

うつむいたまま、動かなかった。
やがて——涙が溢れた。
ぐすん、と小さな音がして、それがやがて大きな嗚咽になっていった。
ずっと一人で抱えてきたものが、溢れ出すように。

優弥はしばらく、そのまま玲を抱きしめていた。
やがて、ゆっくりと玲の両肩を持って、自分の正面に向けた。

泣き腫らした顔があった。
優弥は、両手で玲の頬を包んだ。
そのまま、唇を重ねた。

一方的なキスだった。
最初は。
しかしやがて、玲も目を閉じて、そっとそれに応えた。

長くはなかった。
でも、二人にとっては、その短い時間がとても大切なものに感じられた。
唇が離れた後、優弥は再び玲を抱きしめた。

「玲ちゃんが全てを背負うことはない」
優弥の声は、静かだった。
「君が一体、何の悪いことをしたというんだ。谷からというメディアを作って、世の中の多くの人たちの支えを作ってきたじゃないか」
玲は、抱きしめられたまま、目を閉じていた。
「君は何も悪くない。おかしいのは今のこの世の中だ。政府が推進している制度がおかしいから、こんなことになっている。君が自分を責める必要なんて、何一つない」
玲は何も言わなかった。
ただ、涙が止まらなかった。

しばらくして、優弥が続けた。
「いい、分かった?」
玲は、小さく頷いた。
「だから、君が俺のことを思って身を引こうとすることは必要ない。このスコアの問題は、俺のことは俺でなんとかする」
優弥は玲の両肩を持って、真っすぐ目を見た。
玲の目には、まだ涙が残っていた。

しかし——その瞳の奥に、少しだけ、何かが戻ってきたように見えた。
川面を、夜風が渡っていった。
すぐ近くを、警備ドローンの青い光が横切った。

街はまだ、整然としていた。
完璧に管理された、静かな夜だった。
しかしその夜の河川敷には、どんなスコアも数字も測れない何かが、確かにあった。
二人は、しばらくそこに立っていた。
言葉もなく。
ただ、同じ夜の空気の中で。
第2章5話 完。

本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・企業・製品名等は架空のものであり、実在する人物・団体・企業・製品とは一切関係ありません。
また、作中に登場するAI・ロボット技術および社会情勢の描写は、著者の想像に基づくものであり、実際の技術動向や将来予測を示すものではありません。

いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは、物語の続きへの活力になります。
縦の糸と、横の糸が織りなす世界。
どうぞこの先を、私たちと一緒に紡いでいってください🌈🌏🥰
