「いてえなあ、ちくしょう」という呻き:映画『処刑の部屋』と、市川崑が制御しきれなかった川口浩の肉体
石原慎太郎原作、市川崑監督「処刑の部屋」は、「太陽の季節」他日活“太陽族映画”が起こしたムーブメントの便乗凡作か、あるいは監督の失敗作の一つとして語られがちである。
キャスト
川口浩 若尾文子 宮口精二 岸輝子
スタッフ
監督:市川崑、原作:石原慎太郎、脚本:和田夏十 長谷部慶治
俺たちはしたい事をするんだ!―青春のパッションと孤独
島田克巳はU大学の4年生。気難しい銀行員の父と常に顔色をうかがっている母にやりきれなさを感じていた。大学野球リーグ戦でU大学が優勝した夜、歓喜と熱狂のさなか、克巳と友人の伊藤はその夜知り合った女子学生のビールに睡眠薬を忍ばせた…。
一言で言えば、青春映画でも風俗映画でもない。もっと嫌な映画だ。
若者の退廃を描いているようでいて、本質的には「生への執着」を描いている。そして、その異様な粘度を発生させているのが、川口浩という俳優の制御不能な身体だった。
市川崑は本来、極めて“整理のうまい”監督である。
商業性と実験性を同時に成立させる、ほとんど職人的なバランス感覚を持っていた。独立プロの旗揚げ作品からメジャー超大作まで自在に泳ぎ切る。たとえば太平洋ひとりぼっちでは孤独な航海をエンターテインメントへ変換し、犬神家の一族では横溝正史の猟奇趣味を、大衆娯楽として完璧にパッケージ化した。
さらに彼は、「役者を開眼させる監督」としても知られる。
脇役の配置が異様に巧い。ワンシーン俳優ですら印象を残す。怪優:伊藤雄之助の胡散臭さすら、絶妙な温度で画面に定着させる。
だからこそ、市川崑は「映画はキャスティングで70%決まる」という思想を、実践レベルで理解していた監督だった。
しかし、『処刑の部屋』だけは少し違う。
この映画では、市川崑が川口浩を“使いこなせていない”。
もっと言えば、川口浩の肉体に映画が侵食されている。それが妙に居心地悪い。
克巳という主人公は、本来かなり観念的な存在だ。石原慎太郎の原作にあるのは、戦後の空虚、暴力衝動、性への飢餓、既成倫理への嫌悪である。
だが映画版の克巳は、思想より先に“肉体”が来る。
酒を飲む。
女を殴る。
笑う。
挑発する。
這う。
全部が生々しい。
しかも川口浩には、石原裕次郎のようなヒーロー性がない。池部良のようなクールさもない。
育ちの良さが隠せない。
なのに目だけ荒んでいる。
上品なのに下品。
知的に見えるのに、知性を憎んでいる。
まるで、「良家の坊ちゃんの皮を被った野良犬」である。
実際、彼の生い立ちはそのまま克巳へ接続される。
父は大作家・川口松太郎。母は大スター・三益愛子。芸能界のサラブレッドである。
だが家庭は複雑だった。父は叩き上げの成功者で、愛人関係を繰り返し、家庭を安定させなかった。
川口浩自身も、文化エリートのコースに乗れなかった。新宿二丁目の赤線地帯から学校へ通い、慶應高校を中退する。
つまり彼は、“文化資本の中心にいながら、そこへ馴染めなかった男”だった。だからか、変な学生役をやらせると異様にハマる。
『処刑の部屋』の克巳は、不良というより「居場所を持てない上流階級の息子」なのだ。
そこを川口浩は、理屈ではなく身体で演じてしまう。
だから終盤の拷問シーンが異様になる。
克己に絡むチンピラたちは群れているが、本気の暴力までは行けない。だから途中で怖くなる。ナイフを持っても刺せない。謝れと言いながら、実際には相手に屈服してほしいだけだ。
だが克巳だけは違う。痛みに耐えながら、なお相手を見下している。
お前ら、どうせ殺せないんだろ。
という態度を崩さない。その結果、周囲の人間のほうが精神的に追い詰められていく。
ここで重要なのは、市川崑映画に特有の“距離感”が、この場面では崩れていることだ。
本来、市川崑はどれだけ残酷な場面でも、どこか乾いたユーモアやまたは図式性で整理する監督である。ラディカルな作品である「野火」ですら、観客を窒息させない。
しかし『処刑の部屋』終盤だけは違う。
川口浩の“いてえなあ、ちくしょう”という呻きが、その整理を壊してしまう。
あそこには思想も哲学もない。
ただ、「死にたくない」という肉体だけがある。
しかも厄介なのは、その生への執着が、妙に格好悪いことだ。
普通なら、ここで虚無的に死んだ方が映画になる。しかし克巳は死なない。這ってでも生きようとする。血を流しながら、「いてえなあ」とブツブツ言い続ける。
これはヒーローではない。
半分潰れた獣である。
そして市川崑は、その獣を最後まで料理しきれなかった。
もちろん、それは失敗ではない。
むしろ逆だ。
巨匠の制御をはみ出したことで、『処刑の部屋』は変な映画になった。
洗練しきれない。
整理されない。
不快さが残る。
だが、その“収まりの悪さ”こそ、この映画の価値なのだ。
後年、川口浩は俳優だけでは終わらない。
実業家になり、テレビへ行き、最後は川口浩探検シリーズで洞窟や秘境を這い回る。
あの姿を見ると分かる。どうしても同じ大映東京が産んだ大スター:田宮二郎と格を比べられがちだが、しかし彼は本質的に、“安全圏にいるスター”ではなかった。
だから『処刑の部屋』のラストで、血を流しながら地面を這う姿は演技というより、川口浩という人間そのものに見えてしまう。市川崑ほどの監督ですら、その生臭い肉体を完全には整理できなかった。
そして、その“制御不能さ”こそが、この映画を単なる太陽族映画から、一段気味の悪い作品へ押し上げているのである。
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